翌日の夕暮れ。
 早々と仕事を切り上げた二人は、一旦久弥の家へと向かった。


 久弥の家は、バス停から徒歩二、三十分程離れた、田畑の広がる平地──地元では中郷(なかごう)と呼ばれている──に点在する民家の一つであり、初子の家や、元郷と呼ばれる集落とは川を挟んだ向かいにあった。


「しかし本当に不便な処だね、この辺りときたら。よくも毎日あの距離を通ってくるものだと、俺は感心するよ」
「そう大した距離でもないよ。君の処と違って静かだし、住めば都さ」
「ふん、そういうものかね」


 久弥の台詞に、笹塚は面白くもなさそうに鼻を鳴らした。
 日が落ちてからのバスは期待できない。ゆえに笹塚は泊まりがけである。億劫な感のあるのは否めない。
 彼の曇りのある表情がその所為なのか、はたまた別の問題を抱えているからなのかは、久弥には分からなかった。


 仕事場から持ち帰った資料や鞄を玄関に放ってすぐ、戻り橋へと足を向ける。
 笹塚と肩を並べて川沿いを歩きながら、久弥は落ち着きなく辺りを見回していた。


 時間帯からいって、初子を見かけてもおかしくはない。
 けれどその日、二人が戻り橋に着いて、それから一時間ほど経っても、初子の現れる気配は一向になかった。


「……おかしいな」
「何がだい」


 思わず口をついて出た言葉に、あさっての方を眺めていた笹塚が振り返った。
 沈む直前の夕日が、男の背後で鮮やかな光を放っている。
 笹塚の表情は逆光で読めない。
 そのことに久弥は意味もなく戸惑った。


「いや、大したことじゃないから……」


 笹塚に向けてぼそぼそと、まるで言い訳のように呟いた久弥は、また思いを巡らせる。
 此処にいないのなら家にいるのか──久弥は狩野家の方へと視線を流す。
 しかし、明かりの消えた家には、どう見ても初子はいそうにない。


 他に行くところと云えば何処だろう。
 買い物か──にしては遅すぎる──それとも圭一郎の墓参りか。

 それだって、こんな日暮れ時には普通行かないだろう。
 では──。
 推測できる行き先をあらかた出し尽くした頃だった。


 ……さらわれてしまうから……


 小さな子供の声がした、と思った。
 聞き覚えのある声──そう、遙か昔に同じ言葉を聞いた気がする。


 あれも秋だった。
 元郷の空に、蜻蛉(とんぼ)の群が舞う頃。
 久弥に襲いかかる強烈な既視感。
 不安げな顔をした少女と、その娘に得意げな顔を向ける少年──あれは己だ。


 ……ゆうぐれどきに、わけもなく《みやしろ》に行ってはいけないって……
 ……こわいことなんて、あるわけないよ。みんなただの作り話なんだから……


「──作り話なんかじゃない」
「永森、おい何を云ってる」
「戻り橋の話は、只の言い伝えなんかじゃなかったんだ」
「おい永森、本当にどうしたんだ。一体何を云っている。正気か貴様」


 脈絡のないことを口走り始めた久弥に驚き、笹塚は両肩を掴んで乱暴に揺すった。
 鬼気迫る笹塚の形相に、久弥の焦点がようやく結ばれた。


「……あ……」
「大丈夫か」


 こくりと肯いた久弥を見て、笹塚がほっと息をつく。
 その時だった。
 見計らっていたかのように、背後から唐突に投げかけられた、嗄(しわが)れた声。


「ここにはおらん方がよい。でないと、榊(さかき)の娘のようになってしまうぞ」


 久弥の肩がぴくりと波打った。

 老人の不穏な台詞に、笹塚が眉を顰める。
 榊――うろ覚えではあるが、確かそれは初子の旧姓だった筈だった。


 とろりと広がった闇を追い払うには、心許ない明かりが、まばらにぽうと灯った。
 そんな時刻になっていることすら、今の久弥の頭にはない。
 振り返りざま、射殺しそうな視線をもって老人の顔を凝視するばかりである。


「榊の娘とは初子さんのことだろう。爺さん、一体何を知っているのだ」
「騙されるな、笹塚。君までが、あの根も葉もない噂に踊らされたいのかっ」
「まあそう決めつけるな。話を聞いてからでも、遅くはないだろう」


 宥めるように肩に手を置かれ、久弥は何度か荒い息をついた。
 それは、全く彼らしくない激し方だった。


 ──何を抱えている。


 久弥がその内に何を隠しているのか……老人の話は、それを掴む鍵になるやも知れない。
 そう感じればこそ笹塚は、友のように老人の言葉を一蹴する気にはなれなかった。


「あの娘は、幼い頃に一度迷うておる。丁度こんな夕暮れ時に──御社(みやしろ)で遊んでおったものじゃから、物の怪どもに好かれてしもうた」


 笹塚に縋りつく、久弥の指に力がこもる。
 きつく掴まれたそこから微かに震えが伝わってくる。

 横目で見遣った久弥の顔からは、すっかり血の気が失せていた。

 死人のように仄白いその顔を目の当たりにしては、流石の笹塚でも気がひけかける。
 それでもここで折れては生半可なままになってしまう。
 そう思い、意を決して笹塚は一歩ずつ踏み込んでいった。


「迷ったとは、どういう意味だ。神隠しにでもあったというのか」
「まあ、そのようなものと捉えておけば分かりやすかろ」
「ではその物の怪に好かれた……とは」
「文字通り、そのままの意味じゃよ」


 老人の答えはどこまでも端的で無愛想だった。


「あの娘は、儂ら年寄りの言を信じず、本来なら戻り橋の向こうから渡って来られなかった筈の彼奴等たちをこちらに引き寄せてしもうた。恐ろしいことじゃ」


 ──じゃないのに。


 自らの思い通りにならぬ口を、久弥は心中で必死に叱咤していた。
 彼女の所為でなかったことは己が一番よく分かっているのだ。
 分かっているのに、口も舌も表情も自分の意志を裏切り、頑ななまでに弁明を拒む。


「彼奴等とは」


 久弥の胸中の嵐をよそに、笹塚は老人から過去を──罪を暴いてゆく。


「彼奴等は彼奴等じゃ。人とは相容れぬもの、物の怪、としか云いようもないわな」


 それでも接点さえ持たなければ、さして害はないのだと老人は告げた。


「彼等は人の心にある闇を誘い、郷愁を誘う。しかしそれは仲間が欲しいからであって、殺戮を楽しむ嗜好と云うわけじゃない……少なくとも儂は爺さんからそう聞いた」
「要するに、橋の向こうが淋しいからこちら側の人を呼ぶ、と」
「そういうことのようじゃな」


 そして初子が、その『接点』なのだと老人は結んだ。


「しかし……なぁ……」


 最初から贔屓目の久弥は抜きとしても、まともに顔を合わせたのは、狩野の葬列の際に一度きりという笹塚の目にも、初子は庇護欲をそそられるような女性であり、とてもそのような物騒な対象には見えなかった。


 愛らしい童女であったことだけは容易に推測できようが……。


 一瞬、恐ろしく不真面目な想像をしかけた笹塚は、慌ててそれを断ち切ると新たな問いを投げた。
 例えいつもの軽口の延長にしろ、幾ら何でも今この場で口にすべきことではない。


「その──御社、とやらで、一緒に遊んでいた子供などはいなかったのか。初子さんは本当に一人でそんな噂のある場所で遊んでい」
「そうじゃない」


 笹塚の言葉を切ったのは老人ではなく、彼の腕の中にいた久弥だった。
 今まで何の反応もなかった久弥が、唐突に割り込んだことに笹塚が目を瞠る。


「そうじゃないんだ、あれは」


 表情を失くしたまま、笹塚の台詞に覆い被せるように語り始めた久弥に、老人の視線がちらりと流れた……が、老人は口を開こうとはしなかった。


 ──あってはならないことだった。


 湧き上がってきた感情を、抑えるように久弥は強く目を瞑る。
 そう……あれは、起こってはならないことだったのだ。