久弥の思いも虚しく、初子は日がな一日、橋のたもとで圭一郎を待つようになっていた。
そんな彼女を、あるものは気が触れたのだといい、あるものは同情をひこうとしているのだと云った。
久弥は黙って、初子の無垢とさえ云える横顔を眺めていた。
脳裏に浮かんでは消えるのは、まだ世間の何たるかも知らぬ頃の思い出である。
奇しくも、初子と久弥が出逢った処もまた、この場所だったのだ。
物の怪の現れるという此処で、初子は一途に圭一郎の姿を求めて待ち続ける。
久弥に、彼女へ声のかけられる筈もなかった……。
***
あれから幾度となく同じ夢を見続けた久弥は、遂に自らが置かれた状況に耐えかね、大学近辺に一人住まいをしている笹塚の元へと、半ば強引に転がり込んだ。
久弥の冴えない表情を訝しみつつも、笹塚は友の為に快く部屋を空けてくれた。
圭一郎が亡くなって、丁度半月が経っていた。
「なあ君、一体どうして、墓場から彷徨い出た幽鬼のような顔をしてるのか、訊いてもいいかい」
相変わらず吸いさしの煙草を手に、笹塚は久弥に向ける目を眇めた。
山積みの書籍に囲まれた久弥は、だらしなく頬杖をついたまま、視線だけを声の方へと飛ばす。
「そんなに酷い顔をしてるだろうか」
「ああ。柳の根方にでも立ってみれば分かる。十中八九は腰を抜かしてくれるだろうよ」
「それはちょっと非道すぎやしないかい」
情けなさそうな顔をした久弥を見て、笹塚は笑いをかみ殺した。
こんな表情が出来るようなら、まだ安心だと思う。
泊めてくれ、とだけ云って黙り込んだ先程からみれば、随分とマシな反応だ。
「で、真面目な話……一体何があったんだ」
笹塚の目に好奇の色はない。
ほんの僅かな間に友人が目に見えて窶れてしまっては、心配するのも道理である。
促された久弥は、口にすることをしばし躊躇っていたが、結局ぼそりと呟いた。
「──夢を、見るんだ」
ようようのことでそれだけを云った。
ぬめり気のある色が……ねっとりと絡みつく感触が、まるで現実にあったことのように、久弥の脳裏を巡る。
吐き気がする──目眩がする──視界が真紅の世界へと反転する。
唐突に頭を抱えた久弥の肩へと、笹塚は状況もよく掴めぬままに手を伸ばす。
「おい──おい君、永森。どうした、気分が悪くなったのか」
「……いや、大丈夫だ。悪い、心配かけて」
「本当に平気なのか。その顔色はどうみたって尋常じゃないぜ」
「悪い、本当に問題ないから……」
云いながらも冷や汗が額を伝う。
「ほら飲め、少しは落ち着くだろう」
「厄介ばかりかけて済まないな」
「いいから飲め。君はどうも堅苦しくていけない」
気を利かせて酒を運んできた笹塚に礼を云い、一気にそれを飲み干す。
云われたとおり、少し気分は楽になった。
「……落ち着いたか」
「ああ、大分いいね。──君のお陰だ、感謝するよ」
「止してくれ、こんなことくらいで」
正面きって云われたのが決まり悪かったのか、笹塚はぼりぼりと短く刈り上げた頭を掻く。
普段愛想のいい笹塚は、こういう時決まって無愛想な顔をするのだが、よく見ると耳だけが微かに赤い。
その照れ方があんまり彼らしいので、つられて久弥も笑ってしまう。
ひとしきり笑って──顔色が戻ったところへ、見計らったように笹塚が口を開いた。
「その反応からすると、余程胸くその悪くなる夢らしいな」
「断片的にしか、覚えてはいないんだけどね……あれは恐らく、死体だ」
だしぬけにそう口にされ、笹塚が目を丸くする。
「死体って、夢の話か」
「当たり前だろう。あれが現実なら今頃は、とても正気じゃいられないよ」
「で、その夢のどの部分が、お前をそこまで脅かすんだ」
はてのない闇を、紅い迷宮を、そしてここ毎晩のように同じ夢を見続けていることを──訥々と久弥は語った。
終始沈黙のまま聞いていた笹塚は、全てを語り終わり、ほうと息をついた久弥の肩を宥めるように叩いた。
「それでその亡骸──頭、なのか。それは誰だか分かるのか」
「問題はそこなんだ。どうもその辺の記憶は曖昧で……ただ分かっているのは、僕がそれを知りたくないってことだけさ。臆病だと自分でも思うけれどね……怖いんだよ。それが誰なのかを知ることが」
「永森……」
知っている人かも知れない。
知らない人かも知れない。
まるっきりの夢なのか、それともこれから起こる何かを暗示しているのか──それとももう、既に起こってしまった何かを暗示しているのか。
笹塚に話しながら、久弥は考えていた。
顔だけが思い出せないなんて、本当にそのようなことがあるのだろうか。
それだけでなく、それ以上に己の心の琴線に触れる何かが、この夢の中に隠されている気がするのだ。
眉間に深く皺を寄せた状態で、考え込む久弥の脳裏に、はたと一枚の情景が浮かんだ。
「戻り橋──」
「お前のそれは、あの場所に関係した夢なのか」
呆然と、その場にあらぬ情景を見つめる久弥に、神妙な顔で笹塚が問いかける。
久弥は黙したままだった。
答えることを拒否したのではない──戸惑っていたのだ。
どう考えてもあの夢とは結びつかない。ただ、絵のように浮かんできただけなのだ。
久弥には、関連性があるのかなんて分からなかった。
大体が、そんな口をついて出てきたような言葉に、特別な意味などあるのだろうか。
そんな久弥に対する笹塚の反応は簡潔だった。
「それじゃあ確かめてみればいい」
どうやって、となおも言い募る久弥に、友人は不敵な笑みを見せて云った。
何のことはない──二人でかの場所へ行ってみるのだと。