その日中に片づけねばならぬ資料と格闘する為に、久弥は研究室の扉を開けた。
中に入ると既に先客があった。笹塚である。
何日かぶりで顔を合わせた彼は、何故か極めて不機嫌な面で久弥を迎えた。
「なんだ、君も居残りか。お互い雀の涙ほどの給金で、よく精がでると思わないか」
「──要りようなものは殆どないだろ。お互い寂しい独りの身だ」
「今日は随分と仏頂面をしてるなあ。そんな顔をしていたら、誰も寄ってきやしないぜ」
「……放っとけ」
何が面白くないのか、笹塚は本当に虫の居所が悪いようだ。
例によって銜え煙草のまま、カチリカチリとライターを鳴らしてはいるのだが、一向に火が出てくる気配はない。
手近にマッチのあるのを見つけた久弥は、さっと擦ると、黙って笹塚の口元に差し出した。
硫黄の匂いが、つんと鼻をつく。
火が点るのを見届けて、久弥は己の場所に腰を下ろす。
礼すら言わぬところをみると、笹塚の渋面の原因は久弥にあるらしかった。
机と書籍の山とを挟んで座った二人は、互いに口を開こうとはしない。
気まずいまでの沈黙。
やがて笹塚がぼそりと云った。
「少し控えた方がいいんじゃないのか」
何について云われたのか、久弥はとっさに把握しかね、ぽかんと笹塚の顔を見遣った。
「──何を」
「噂になってるぜ」
笹塚の一言に、久弥の表情が硬くなった。
眇めた眼でそんな相手を眺め、笹塚が煙と共に吐き出す。
「思い当たるフシくらいはあるんだな。安心したよ」
軽口を叩かない彼を、久弥が見たのは久しぶりだった。
眉間に深い皺を寄せた状態で、笹塚はひたすらに煙草をふかしつつ、黙って久弥の言葉を待っている。
笹塚の云いたいことは分かっているつもりだった。
──それでも、今の初子を一人にはできない。
久弥は深い溜息をついた。
そして、同僚であり友人である男に、改めて同意を求めるような眸を向ける。
「……放っておけないんだ、君なら分かってくれるだろう」
「いいや。──今回は、俺は賛同できない」
笹塚の口から漏れたのは、久弥の願いとは全く逆のそれだった。
「どうして」
「君を失いたくないからだ」
虚をつかれ、久弥は笹塚の顔を呆然と見つめた。
笹塚は、今まで一度も見たことがない程、真摯な眼差しを自分に向けていた。
そして、目が合うと唇に苦い笑みを浮かべた。
「こんなことで大切な友を……お前を、失いたくはないからだ」
尤もこれは、俺の単なるエゴでしかないけどな。
笹塚は、久弥が学生時代から付き合ってきた、気心の知れた知己である。
その彼が自嘲的に嗤うのを、久弥は初めて眼にした。
「笹塚、初ちゃんは──」
「信じたいよ。お前がそれだけ信じているんだ、俺だって信じてやりたいさ。だけど、もし本当に彼女が狩野さんの死に関わっているとしたら、お前の身だって危ないんだぜ。それを分かっているのか、永森」
「そんなことはとうに承知の上だよ。それでも何か、力になってやりたいんだ」
久弥の言を聞いた笹塚は、あるかなしかの笑みを浮かべた。
「君は力になりたいんじゃない。ただ、彼女の傍にいたいのさ」
「それは──」
「隠すほどのことじゃない。前からそういう気はしてた」
「……」
長い時間が経った気がした。それ程重い沈黙だった。
笹塚の眸に、久弥を責める色はない。
友の不器用すぎる想いへの、柔らかな同情だけがあった。
「──さて、と」
沈んだ空気を振り切るように、笹塚は弾みをつけて立ち上がった。
動きに合わせてばさりと落ちた書類を、気にも留めずに窓辺へ寄ると、彼は大きく伸びをする。
それから、吸い殻が山と積まれた灰皿をそのままに、扉の方へと足を向けた。
「どうやら俺は居残りをしなくてもいいらしい。為すべきことは済んでしまった」
「ということは、僕一人なのか。一体君、いつの間に終わらせたのだね」
「なあに、君がここへ来る前にさ」
気取った調子で片目を閉じてみせる笹塚を、久弥は思わず恨めしそうに見遣った。
彼との会話に時間をとられ、まだ一つも進んでいない、己の作業を眺めて溜息をつく。
「どうして君はそう、要領がいいのだ」
「永森のように、細かなことには気を払わないからだろう。つまり繊細さに欠けるんだ」
「はは、自分で云っちゃあ仕様がないね。笹塚君」
「まったくだ」
他愛ない雑談を幾つか交わして、笹塚は研究室を後にした。
残された久弥は、手早く必要な資料をまとめ、後を追うように部屋を出た。
この時彼は、以前見た夢のことなど九分九厘忘れかけていた。
そうして、研究室に残ればよかったと悔やんだのは、その日の深夜のことだった……。