久弥は手土産と共に、まめに初子の元へと通った。
 けれど久弥の訪問の甲斐もなく、彼女の表情は日一日と虚ろになっていった。
 そして更に一週間ほどが過ぎた頃だったろうか──。








 橋を渡ってすぐ上手の、僅かに平たくなった処にある、簡素な家が狩野家だった。
 この近くに他の民家はない。ただ田畑が広がるばかりである。
 元郷と呼ばれる、多くの家並みは、初子の住むそこよりも幾分奥まった処に点在していた。


 目の前にあるのは緑ばかり。
 訪ねてくる者も殆どなく──そのような場所で、彼女はいつも何をして過ごすのだろう。


 ……今は帰ってくる主もないのに。


 夕暮れの中。
 呼び鈴を鳴らすことも忘れ、久弥は家の前で佇みながら、とりとめもないことに思いを巡らせていた。


「あら、久弥さん──いらしてたのなら、声をかけて下されば宜しかったのに」


 未だ黒に包まれたままではあるが、初子の格好はどう見ても外出する時のそれだ。
 服喪期間だというのに、何かあったのだろうか。


「もしかして出かけるのかい」
「ええ、近くですけど」
「何処へ」


 久弥の問いかけに、初子は何故か口ごもった。


「……噂を、耳にしたものですから」


 いつになく強い口調で促した久弥の目から、白い細面の顔をそらして、初子が答えた台詞がこれだった。


 ──噂。

 あえて聞かずとも、すぐに何を指しているのか分かる。
 久弥は思わず、初子の薄い肩を掴んだ。


「酷なことを云うようだけど、初ちゃん、圭一郎は死んだんだ──死んだのだよ」


 久弥を見上げる初子の眸には、そんなことは信じたくないのだと書かれている。
 黒曜石の如く漆黒に濡れた眼を、極限まで見開いて、彼女は弱々しく反論を重ねる。


「けれど、あの人を見た方が幾人もいらっしゃるって──」
「噂は噂だよ、君は現実を見つめなきゃならない」
「……非道い方。私は、一片の希望も抱いてはいけないというのですか」
「そうは云ってないよ。僕はただ、これ以上君が哀しむようなことは奨められない、と云っているんだ」


 聞きたくないと云う如く、かぶりを振り続ける初子の耳に、久弥の言葉は届いていない。
 圭一郎の元に初子が嫁いで以来、久弥が初子と至近距離で話したのはこれが初めてである。
 しかし、心は哀しいほど遠かった。


 それでも構わないと久弥は思っていた。
 彼女がここに留まってくれるなら、と。
 今さえ堪えてくれればいい、哀しみはいずれ過去へと移ろうと。
 初子がぽつりと呟いた、その台詞を聞くまでは。


「もしかしたら……あの人、私を迎えに来てくれたのかも知れないわ」
「それじゃ物の怪と同じだよ。初ちゃん、惑わされちゃいけない」


 思いがけない初子の物云いに、久弥は顔色を変えた。


「圭一郎は、君を生かす為に命を懸けたんだ。亡骸だってちゃんと見つかってる。君だって確認しただろうっ」
「確認なんて。したくなかった、置いていかれたくなかった、一緒に逝きたかった──独りになんてなりたくなかった……っ」


 無意識に語気を強めていた久弥は、その悲痛な叫びにはっと我に返った。
 初子は童女のように、人目も気にせずその場に泣き崩れる。
 張りつめていた糸がぷつりと切れてしまったように。


「すまない、初ちゃん。僕が悪かったよ、御免……」


 容赦なく突き刺される、胸の痛みに堪えかねて、久弥は謝罪の言葉を繰り返す。
 繰り返しながら、泣きじゃくる初子を腕の中にぐいと引き寄せた。

 久弥の腕を拒むように、ほんの少し身じろいだ初子は、結局そのまま縋るようにして咽んだのだった……。






*** 時紡ぎ-陸 へ***