気づけばもう、日暮れも近い時刻だった。
とうに帰った筈の菜穂は、結にどうしても話したいことがあって、今まで探していたのだと言った。
「電話したんだけど」
留守電に切り替わっちゃったから、もしかしてまだ学校にいるのかも知れないと思って。
屈託なく笑いかけてくる菜穂から、思わず視線を逸らしてしまう。
何を言われるのか――自分が何を言ってしまうか分からないことを、心底恐れていた。
俯いたままの結をどう思ったのか。
菜穂はただ薄く笑んで、ゆっくりと言った。
「私ね……結が、ずっと羨ましかった」
(――私が?)
思わぬ言葉を耳にして、結はぽかんと口を開けた。
(ずっとずっと、羨ましいと感じていたのは、私の方だと思っていたのに)
「何でも一人で出来て、サバサバしてて、女々しいところとかがなくて……そしてずっと一緒にいたくなって、気がつくと頼ってばかりの自分がいたの」
彼女の話に、結は出逢った頃を思い出す。
確かに最初は、見ているとやたら危なっかしくて、放っておけない娘だと思った。
あれこれと世話を焼いたりするのは楽しく、また自分がしたことで相手が喜んでくれる度に、胸の中が温かくなった。
「でも、それじゃいけないと思った」
「……え?」
何を言われたのか分からない。
そう言いたげに、首を傾げた結に向かって、菜穂は小さく微笑った。
「結がね、好きだったの」
「し、柴垣っ!?」
突拍子もない菜穂の台詞に、友成が腰を掛けていた机から滑り落ちる。
「別に変な意味じゃなくて、だけど」
友成の様子に、いかにも楽しそうにくすくすと笑ってから。
菜穂は、でね……と言葉を続けた。
「この先もずっと一緒にいられたら――そう考えた時、変わらなくちゃいけないって思ったの」
菜穂はもう笑ってはいなかった。
「結に見合うだけの『何か』を見つけなきゃって。頼ってばかりの一方的な関係じゃ、いつか駄目になるって思ってたから」
片方ばかりが、庇護したりされたりするような、そんなのって対等な関係とは言えないでしょう?
(私の存在が、菜穂から消えたり軽くなったりした訳じゃないんだ――)
ただ、一人でも立って歩んでゆける道を、彼女は彼女なりに模索しているだけで。
菜穂がそんなことを考えていたなんて、あれだけ一緒にいても、自分には全く分からなかった。
『お前は柴垣じゃないんだから』
ふと、友成から言われた台詞を思い出す。
(本当は……分かってた)
どんなに一緒にいても、それがどんなに楽しくても、その人の道はその人にしか歩めない。
共に寄り添い、隣を並んで歩くことは出来ても、赤ん坊のようにおんぶに抱っこでは、いつか共倒れてしまう。
菜穂は、自分より一足先に、居心地のいい場所から抜け出ようと、一人で動き始めただけ――。
(――それでも)
視線を合わせぬまま、菜穂にそっと手を伸ばす。
引き寄せて、何も言わずに肩口に顔を埋めると、菜穂は微かに身じろいだものの、突き放そうとはせず、そのままじっと結の言葉を待っていた。
「……私も、好きだった」
(――それでも、これが恋愛感情でも構わないと思う程に)
「本当に、好きだったの……」
「……うん」
「この気持ちが何だってよかった。ただ、誰より菜穂の傍にいて、ずっと力になりたかったの」
「……うん」
「けど、それじゃ――いけないんだね」
そっと手を離すと、菜穂は笑って『また明日ね』とだけ言い残して、一人教室から去っていった。
そして友成は、その一部始終をただ黙って眺めていた。
二人が新しい関係を築く為の、一種の決別の儀式のようだなと思いながら……。
***
「これからだって、力にはなれるだろ」
「……え?」
「同じ道を辿るだけが、気持ちの示し方じゃない。お前にしか力になれないことだって、まだまだ沢山あると思うよ、俺は」
菜穂の背を、ぼうっと見送っていた結は、その言葉につられて友成を振り返った。
「別にそれが恋愛感情じゃなくたって、相手を幸せにしたいとか、そう思うことはあるだろ?始終くっついてなくたって、相手の支えになることも出来るんだし」
「……そうだね」
(私も、歩み出さなくちゃ)
自分なりの『何か』を見つける為に。
窓の外に視線を向けると、そこにはもう雨の気配は微塵もなく。
ただ、翌日の晴天を思わせる、見事な夕映えが広がっていた――。
-Fin-