約束した刻限。

 地色で縦縞模様のある黒地の、裾に菖蒲の柄が入った浴衣に、草色の帯を締めるという、粋な姿で現れた結に、友成は馬子にも衣装だな、と失礼なことを言って笑った。


「お前でも、そうやって女装すれば、一応女に見えるんだな」

「女装しなくたって、私は元から女なのっ!というより、女装って何よ、女装って!!」

「そ、そうだったのか……」


 わざとらしく驚いた顔を作ってみせる友成の脇腹に、手加減なく肘鉄を食らわせた結は、改めて友成の格好と自分の格好とを見比べて言った。


「にしても――全然いつもと変わり映えないのね」


 こういう時くらい、他の格好してみればいいのに。

 結に言われ、自分の姿を見返す友成。


「他の格好、ねぇ……」


 確かに、気合の入りまくった格好の結と比べると、友成はまるっきり普段着だ。

 洗いざらしのTシャツに、少々くたびれてきたGパン。


「ま、でも男はみんなこんなもんじゃないの?」

「そう言われれば、確かにね。二人で浴衣着て歩いてる……なんて、考えてみたら友達同士でやることじゃないかもね」


 よかった、あんたが気合い入れて浴衣とか着て来ないで。

 遠慮会釈もない台詞に、友成が思わず苦笑する。


 そうやって、互いに軽口をたたき合っている間に、早くも最初の花火が打ち上げられる時刻となり、すっかり薄暗くなった川べりに、点々と等間隔で下げられた提灯にも、ぽつりぽつりと灯りがともり始めた。


「さて、そろそろ始まるし移動しようか」


 小気味いいくらいに晴れていた空には、この時間になっても雲ひとつない。

 時期的に言えば、もっと蒸し暑くてもおかしくはないだろうに、妙にからりとした空気も、肌に心地よく感じられる。その所為か、例年より人も多いようだった。

 実際、これ程の見物日和は数年ぶりだったらしく、周囲からちらほらと、そういう会話も聞こえてきていた。


 人並みに行く先を委せて、二人並んで歩きながら、夜空を彩る大輪に時折歓声をあげる。

 線香花火など、数人で集まって楽しむようなものも、それなりの風情はあるのだけれど、見応えのあるものといえば、打ち上げのそれに勝るものはない。


 昔ながらの菊花や枝垂れ、新しいものが次々生み出される仕掛け物――さまざまな工夫がなされたそれらは、人々の目を魅了してやまない。

 結や友成も例にもれず、この地区では年に一度しか見られない華やかな夜空を、ただ無心に見上げていた。





「こういうのって、終わった途端に腹が減るんだよな」


 短い夢のような時間が過ぎてしまうと、次に来るのが余韻を楽しむことより食欲というのは、やはり人間『花より団子』ということなのだろうか。まあ、だからこその夜店なのだろうが。

 最後の一輪が、辺りの暗闇に溶けてしまうと、友成は早速空腹を訴え始めた。


「友成、あんたね……」


 なんて風情のないヤツなの、とぼやこうとした結だったが、自分も同じであることに気付き、結局素直に肯いた。


「ま、夜店も沢山あることだし、適当に歩いていても何かは手に入るでしょ」


 とりあえず、人の流れに逆らわずに歩きながら、少しでも人の列が空いている場所を目指して進む。

 お好み焼きなどのソースの匂い、綿菓子や氷の甘い匂い、焼きトウモロコシの香ばしい香り……。

 この時ばかりはと童心にかえって、興味の向くままふらふらと覗いていくうち、そこそこに空腹も満たされる。


「お腹苦しい、浴衣着て来たの間違いだったかも」

「単に食べ過ぎだろ、お前の場合」

「だって、この状況で食べるなって方が……うぅ」

「どうでもいいけど、その手はやめろって」

「だって……」


 帯に手をかけ、少しでも緩めようとしている結に、呆れ眼を向けながら、イカを頬張りつつ歩いていた友成が、唐突に反対側の流れを指さした。


「――おい、あれ」

「え?」

「あそこにいるの、柴垣じゃないか?」


 指のさす方に視線を向けると、見慣れた横顔と華奢な肩が視界に入った。


「菜穂……」


 見知らぬ少年と歩いているその少女は、紛れもなく予備校で励んでいる筈の菜穂だった。


(なんで彼女がここに?)


 結の思考がぐるぐると空回る。


(遊べないって、言ってたのに――)


 どうしてこの場所に菜穂がいるんだろう。


(今日も予備校で忙しいんじゃなかったの?)


 だから会えないんじゃなかったの?

 この時、結の脳裏に、先日菜穂と電話で交わした会話が思い浮かんできた。


(隣にいるのが……あの時話してたヤツ?)


 微笑む菜穂の顔は、いつもとまるで変わらない筈なのに。

 どうしてなのだろう。


(私といるより、楽しそうじゃない)


 結の顔が僅かにゆがむ。

 あれから一度も電話をくれない。

 私といる時が、一番楽しいって言っていた癖に。

 胸の中に湧いてきた、灼けつくような感情。

 叫びだしたくなるような衝動に、結は必死で耐えた。


(――せめて今、私に気付いてくれたら!)


 けれど。

 隣を歩く少年の話に耳を傾けながら、時たま笑顔を浮かべている菜穂は、こちらになど気付きもしない。


「菜穂……っ」


 たまらず結は声をかけた。

 ここで気付いてもらえなかったら、どうしていたか。

 それは結自身にも分からなかったが、幸いにも結の声は耳に届いたらしく、菜穂が振り返った。


「……結……友成くんも……」


 どうしてこんな人混みの中なのに、会ってしまったのか。

 そう言いたげな顔で、凍りついている菜穂を、結はただじっと見据えた。


 隣にいる相手が、どこの誰なのかなんて、もうどうでもいいことだった。

 先刻まで、自分の胸にあれ程吹き荒れていた嵐は、不思議なほど収まっていた。


「――来られないんじゃ、なかったんだ」


 麻痺してるだけなのかも知れない。

 静か、というより冷めた声で問いかけながら、結はそんなことを考えていた。


(だって変。こんなの、自分の声じゃないみたい)


 感情のこもらない結の声音を、怒りの為によるものと受け止めたのか、菜穂はおどおどと視線を泳がせる。

 それがまた結の癇に障る。

 周囲はまだ、お祭り後の興奮覚めやらぬ中。

 二人の間に緊迫した空気が流れた。


「結、ちが……これは今日急に」

「何を慌ててるの?」


 毎年恒例にしていたものを、いきなり崩されたことに気を悪くしている訳じゃない。


(じゃあ、何に怒ってるんだろう)


 怒ってる?


(怒ってるのかしら、私)


 分からない。

 分からない、けれど。


(でも……)


 彼女のことを、誰より分かっていると思っていたから、知らない一面を……それもこんな状況下で見せつけられて、それに苛立ってるのだろうか。

 ――冷静なのか、暴走しているのか。

 相反する二つの感情が、自分の内でせめぎ合っているような感覚を覚えながら、結は菜穂に向かって、その嵐をそのままぶつけていた。


「私たち、ずっと一緒だって菜穂が言ってたんじゃない」


(これ以上、口にしちゃいけない)


「誰よりも過ごした時間だって長かったのに」


(いけないと思うのに)


「なのに、私より彼の方が……」


 貴方は大事だっていうのね――と。

 危うく、そう口走りそうになった結を止めてくれたのは、傍で黙って一部始終を見ていた友成だった。


「おい、話はまたの機会にしろよ」


 二人の間に強引に割り込んでくると、彼は空を見上げながら端的に言った。


「――雨だ」





*** 雨上がりの空-6 へ***