「――ごめん」
闇雲に飛び出してから、どれくらい経った頃か。
二人、家へと戻る道すがら。
少し離れて歩いていた操生が、何の前置きもなく呟いた。
謝られる覚えもないのにどうして、と首を捻り、彬文はふと思いついたことを口にした。
「そういや僕を引きとるって話――あれ、操生の嘘だって」
操生はあっさり肯いた。
「……そうさ、冗談だよ。もしかして気づいてなかったのか」
「悪い冗談だ」
上目遣いで恨めしげに相手を見遣り、彬文はぼそりと非を鳴らす。
操生はからからと笑って云った。
「引っかかるお前が莫迦なのさ」
その電話は久江からだった。
帰宅してから一週間も経っていなかった。
挨拶も抜きに語られた、その思いもかけぬ内容に、彬文はただきつく受話器を握りしめた。
「嘘だ……」
否定の割に力がこもらなかったのは、そう考えれば全ての不自然さに対する辻褄が、ぴったりと合うから――だったからかも知れなかった。
「明晩、通夜だって……操生の」
夜遅く帰ってきた父親に、彬文は伯母に云われたままを告げた。
思ったとおり、父親は軽く頷いただけだった。
翌朝早く、彬文は父親と共に逢沢家へと向かった。
泣き腫らした目で二人を出迎えた伯母は、虚ろな表情の彬文に向かって幾度も詫びた。
逢沢家のものも、彬文の父親も――皆、操生に固く口止めされていたのだと、忍び泣きの合間に久江は漏らした。
祖母が死んだ翌年から、ずっと身体を壊していたのだと聞かされても、二日目の夜から、操生が食事の時刻に出てこなかった理由――彬文を避けていた訳ではなく、突然具合が悪化した為らしかった――を聞かされても、彬文にはまるで実感が湧かなかった。
今にどこからか「お前を担ぐのなんざわけないね」と、笑いながら出てくるのではないか。
そう思ってしまう程、本当に唐突すぎる別れだった。
棺の中で眠る操生の顔はあどけなく、早過ぎる彼の死に、誰もが涙を誘われていた。
だが、彬文の目に涙はなかった。
通夜の席をふらりと抜け出し、彬文は心の赴くままに、あの誘蛾灯の下へと向かった。
そこに操生がいるような気がしたのだ。
しかし、たどり着いた場所に、彼の姿のあろう筈もない。
そこには蛾の骸が散らばるばかり。
「……して」
何一つ変わらないのに、求める存在だけがない。
思い知らされた瞬間、彬文の頬を熱いものが伝って落ちた。
「どうして……いつもそんな勝手に……」
掴まれた肩の痛みも、温かさも。
「何一つ……僕は、何一つ聞いちゃいない……っ」
まだ昨日のことのように覚えているのに。
夢でもいい、幻でもいい。
今一度彼に会いたい。
彬文は、ただそれだけを強く思った――その時。
瞳に映る景色が、急に遠のいた。
周囲の色という色全てが反転する。
目眩に似た感覚に襲われ、彬文は思わず傍らに立つ木の幹にすがった。
モノクロ映画の如く、色褪せた彬文の視界に、ただ一つ飛び込んできた。
くっきりと色をもって現れた――鮮やかな幻影。
「……操生」
面影は、声を放った刹那かき消え、伸ばした指先は虚しく宙を掴んだだけで終わった。
風が、彬文の髪を撫でては通りすぎてゆく。
はたして現実だったのか――それともやはり、己の願いが見せた単なる幻か。
小さな疑問が脳裏を掠めたが、それはもうどうでもいいことのように思われた。
垣間見た顔は、恐らくあの日に見たものだ。
三年ぶりに再会したあの日――窓から射し込む光に晒された、仄白い横顔。
この残像は、きっと一生消えることはない。
何故か、そんな気がした。
……もうすぐ、夏も終わる。
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