「――ごめん」


 闇雲に飛び出してから、どれくらい経った頃か。

 二人、家へと戻る道すがら。


 少し離れて歩いていた操生が、何の前置きもなく呟いた。

 謝られる覚えもないのにどうして、と首を捻り、彬文はふと思いついたことを口にした。


「そういや僕を引きとるって話――あれ、操生の嘘だって」


 操生はあっさり肯いた。


「……そうさ、冗談だよ。もしかして気づいてなかったのか」

「悪い冗談だ」


 上目遣いで恨めしげに相手を見遣り、彬文はぼそりと非を鳴らす。

 操生はからからと笑って云った。


「引っかかるお前が莫迦なのさ」





***





 その電話は久江からだった。


 帰宅してから一週間も経っていなかった。

 挨拶も抜きに語られた、その思いもかけぬ内容に、彬文はただきつく受話器を握りしめた。


「嘘だ……」


 否定の割に力がこもらなかったのは、そう考えれば全ての不自然さに対する辻褄が、ぴったりと合うから――だったからかも知れなかった。


「明晩、通夜だって……操生の」


 夜遅く帰ってきた父親に、彬文は伯母に云われたままを告げた。

 思ったとおり、父親は軽く頷いただけだった。




 翌朝早く、彬文は父親と共に逢沢家へと向かった。

 泣き腫らした目で二人を出迎えた伯母は、虚ろな表情の彬文に向かって幾度も詫びた。

 逢沢家のものも、彬文の父親も――皆、操生に固く口止めされていたのだと、忍び泣きの合間に久江は漏らした。


 祖母が死んだ翌年から、ずっと身体を壊していたのだと聞かされても、二日目の夜から、操生が食事の時刻に出てこなかった理由――彬文を避けていた訳ではなく、突然具合が悪化した為らしかった――を聞かされても、彬文にはまるで実感が湧かなかった。


 今にどこからか「お前を担ぐのなんざわけないね」と、笑いながら出てくるのではないか。

 そう思ってしまう程、本当に唐突すぎる別れだった。




 棺の中で眠る操生の顔はあどけなく、早過ぎる彼の死に、誰もが涙を誘われていた。

 だが、彬文の目に涙はなかった。


 通夜の席をふらりと抜け出し、彬文は心の赴くままに、あの誘蛾灯の下へと向かった。

 そこに操生がいるような気がしたのだ。

 しかし、たどり着いた場所に、彼の姿のあろう筈もない。

 そこには蛾の骸が散らばるばかり。


「……して」


 何一つ変わらないのに、求める存在だけがない。

 思い知らされた瞬間、彬文の頬を熱いものが伝って落ちた。


「どうして……いつもそんな勝手に……」


 掴まれた肩の痛みも、温かさも。


「何一つ……僕は、何一つ聞いちゃいない……っ」


 まだ昨日のことのように覚えているのに。


 夢でもいい、幻でもいい。

 今一度彼に会いたい。

 彬文は、ただそれだけを強く思った――その時。

 瞳に映る景色が、急に遠のいた。




 周囲の色という色全てが反転する。

 目眩に似た感覚に襲われ、彬文は思わず傍らに立つ木の幹にすがった。


 モノクロ映画の如く、色褪せた彬文の視界に、ただ一つ飛び込んできた。

 くっきりと色をもって現れた――鮮やかな幻影。


「……操生」


 面影は、声を放った刹那かき消え、伸ばした指先は虚しく宙を掴んだだけで終わった。


 風が、彬文の髪を撫でては通りすぎてゆく。

 はたして現実だったのか――それともやはり、己の願いが見せた単なる幻か。

 小さな疑問が脳裏を掠めたが、それはもうどうでもいいことのように思われた。


 垣間見た顔は、恐らくあの日に見たものだ。

 三年ぶりに再会したあの日――窓から射し込む光に晒された、仄白い横顔。

 この残像は、きっと一生消えることはない。

 何故か、そんな気がした。


 ……もうすぐ、夏も終わる。





- 了 -




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