母が死んだ年の夏。

 自分はまだ小学生になったばかりで、母との突然の別れが、ただもうひたすらに哀しくてならなかった。


 特に母親っ子であった記憶はないけれど、まだ何だか明確に分かりもしない、死という薄気味の悪い代物によって、有無をいわさず引き離されたことが口惜しかったのかも知れない。


 自棄になったように泣き暮らす、自分の気を紛らそうとしてか。

 その年、父親は彬文だけを先に逢沢家へと預けた。

 それでも彬文は、来てからも部屋に閉じこもり、しつこく泣き続けていた。


 そんな日が幾日か過ぎた夜。

 彬文のいる奥の間に、操生が顔を出したのだ。


『いつまでそうしている気だよ』


 一つ年かさの彼は、二年に進級して少し経ったところとは思えぬ程、年に似合わぬ落ち着きを見せていた。

 私服校の彬文と違って、このあたりの小学生は皆制服である。

 夏期休暇中ではあったのだが、水泳の夏期授業でもあったのだったか。

 制服姿だった彼は、やけに大きく見えた。


『来年は彬だって二年だろ。いい加減、小さな子みたいな真似は止めたら』


 この頃は、操生はまだ自分のことを「彬」と呼んでいたのだ。

 彬文はしゃくりあげそうになるのをぐっと堪えた。


 子供扱いされたくない年頃に、そろそろ差し掛かりつつある時分だ。

 そこへもって、一つしか違わぬ従兄から、小馬鹿にしたように云われたものだから、反発心も並ではない。

 泣きすぎで腫れぼったくなった顔を上げて、彬文は相手をきっと睨んだ。


『放っておいてよ。僕が何をしようが、操生の知ったことじゃないだろう』

『そうは云われてもね、こうも毎日夜中まですすり泣かれたんじゃ、煩くてとても眠れやしないよ』


 羞恥心に、彬文の顔がかっと熱くなる。


『いくらなんだって、そんな時刻まで泣いてなんかないや』


 操生は大仰に肩を竦めてみせる。


『さあて、どうだか……どっちにしたって幽霊もかくや、って顔して口にする台詞じゃあないね』

『誰がお化けだよ』

『そっくりじゃないか。何なら外で立っていてご覧よ。彬を目にした酔っぱらいが、腰を抜かす情景を見られるかも知れないぜ』


 己を軽くいなす操生に、彬文はいつしか泣いていたことも忘れ、本気で突っかかっていた。


『驚いて腰を抜かすのは、案外自分なんじゃないの』

『莫迦云え、彬じゃあるまいし。そんなもの、この僕が怖いもんか』


 そんなの分からない、と彬文がはねつける。

 真っ白いカッターシャツに包まれた薄い胸を反らして、操生がくっと喉で笑った。


『じゃ、試してみるかい』




 ――こうして、鶴ならぬ操生の一声で、夜更けに肝試しをすることが決まった。

 数歩分だけ離れて前後を歩き、先に相手を求めた方の負け。

 ただ、お宮までの道を往復するだけの、単純なものだ。


 行きは何事もなく終え、その帰り道。


 距離まできちんと計算に入れていなかったのが、拙かったのだろう。

 丁度、半ばあたりに差しかかったところで、相次いで二人が手にした提灯の灯が消えた。

 彬文の住む街中と違い、この辺りには、月があることを忘れさせてしまう程の外灯など存在しない。

 しんとした中に、虫の声だけが響いていて、それがかえって周囲の静謐さを露にしていた。


 照らすものを失った二人の足元から、闇がとろりと立ちのぼる。

 思わず立ち竦んだ彬文の脇を、背後にいた操生は、躊躇いもせず駆け抜けた。


 操生の向かった先――五◯メートル程先に、ぽつんと寂しげな光が見える。

 慌てて駆け寄ろうとした矢先、ひらひらと視界を何かが掠めた気がして、彬文は足を止めた。

 従兄の傍にある、光が何なのかを認めたからだ。


 光を求めて、暗闇から寄り来る虫たちを、誘い寄せては殺す。

 無残にも、灯下に散らばる蛾や羽虫たち。

 そして、同胞が命を落としていることにも気づかず、光を囲んでは舞い狂うそれら。


 昼間なら、気にもかけず何度も目にしていた誘蛾灯。

 まして、吸い寄せられて死を迎えるのは、人ではない――虫だ。


 ある筈がないと分かっていながら、彬文は青白い灯りを前に、後退りたい気分に駆られていた。

 近寄ったが最後、己もあの虫たちと同じ運命を迎える気がしてならなかった。


『なんだ、やっぱり怖いのか』


 硬い表情の彬文を見て、操生がくつくつと笑った。


『そんなこと……あるもんか』


 精一杯の虚勢を張ってはみたものの、足は凍りついたように動かない。

 遠巻きに眺めるばかりで、決して己の傍に寄ろうとはしない彬文を、操生は「ほら臆病だ」と云って、大笑いしてくれたのだった。





***





「僕の母は、逢沢久江だ。母と呼べる人は彼女以外にいない――ずっと、そう思ってた」


 唐突に放たれたその一言で、急激に現実世界に引き戻される。

 今まで、決して交わすことのなかった話題を、だしぬけに持ち出してきた操生の真意が読めず、彬文はぼんやりとその静かな顔を見つめた。

「物心ついた時から、僕は自分が叔父の子だってことを知ってた。うちの者は皆、隠すという言葉を知らないから」

「……」

「彬が知ったのは、お祖母さまの葬式の時だろう」


 ちらと視線を流され、彬文はこくりと無言で肯いた。

 操生は口元を微かにほころばせる。


「幼い頃、彬がいつも後ろをついて来るのが、僕はとても楽しかった。本当は弟なんだ、って思えば余計に嬉しかった。だから叔母さんが亡くなられた時、僕は産みの母が逝ったことより、君が泣き止まぬことの方が余程辛かった」


 一息に云って、操生はほうと息をついた。


「けれどあの時――僕は、何も知らされていなかった彬文を、ただただ憎いと思った」


 操生の台詞で、彬文の脳裏にあの烈しい眼差しがよみがえる。


「自分だけが知らされていたなんて、僕は思っていなかったんだ。だからこそ……」


 途切れた言葉の続きを、彬文はじっと待った。

 けれど、それが口にされることはなかった。

 伏せられた長い睫毛が、なめらかな白い頬に蒼い影を落とす。


「せめてその事実さえ知らなければ、ずっと心穏やかにいられたのに。そう思えば尚更恨めしかった」


 自嘲めいた笑いを浮かべる操生を、彬文は声もなく見遣った。

 返す言葉の、あろう筈もない。

 十年か、それ以上か――たった一人で現実と向き合っていた操生の胸の内を思えば、己の葛藤など、なんと幼稚なものだろう。

 恥じ入るように俯いた彬文に、操生は笑みを含んだ声で云った。


「……もう一つ」


 操生は、あるかなしかの微笑みを浮かべていた。


「あの時、僕は彬文のことを臆病だと笑ったけれど、本当は僕も夜の闇が怖かったんだ」

「え――」


 聞き返した瞬間、ぐいと強く腕を引かれよろめいた彬文に、操生が思いもよらぬ力でしがみついてきた。


「操……」


 完全に不意をつかれた彬文は、状況についていけず目を見開く。

 相手の唐突な行為への戸惑いは、ふわりと頬を掠めた、柔らかな髪の感触に一層大きくなった。


「……どうして、何もかも変わってしまうんだろう」


 自分の肩を掴む、操生の指に力がこもる。

 そのことによる痛みより、見た目より更に薄い肩や、想像以上の羽のような軽さに対する、驚きの方が強かった。


「操生――」


 何にどう応えてよいのか分からず、彬文はただ所在なげに相手の名を呼んだ。


「どうして、このままでいられないんだろう」


 繰り返し、囁くように操生が云った。


「今のままでいいのに……他に何にも、望んでやしないのに……」


 薄手の服を通して、じんわりと伝わってくる従兄の温もりを受け止めながら。

 彬文は、初めて操生を兄さん――と、そう呼んでみたい衝動に駆られていた。


 しかし結局、その言葉が口にされることはなかった。

 肩越しに眺めた空では丁度、流れてきた雲に月が隠されてゆくところであった……。




*** 第四章-幻影_4 へ続く ***