昨晩の夕食時、操生の姿はそこになかった。

 彼の姿がないことに対して、彬文には、誰も何も云わなかった。


 多分、一人で夏祭りへと出掛けてしまったのだろう。

 そう思う反面、彬文は何故か縁側で別れた時の、相手の態度が妙に気になって仕方がなく、結局ろくに食事もとらず、部屋へと引き上げてしまった。


 そして一晩経った次の日。

 朝食の席に操生の姿は見えなかった。


 こんなにも長いこと、臍を曲げられるような言葉を、自分は口にしたのだろうか……。


 考えてみても、思い当たる節はなかった。

 機嫌をとるような真似は御免だと思いつつも、胸中に拭いきれない何かが残る。


 食後、彬文はまっすぐ操生の部屋へと向かった。

 せめて出てこない理由を訊きたい――しかし、彬文のそんな思いとは裏腹に、平生開け放たれている操生の部屋は、今朝に限ってぴたりと襖が閉められており、声をかけても応答がなかった。


 勝手に踏み込むのも躊躇われ、結局諦めて奥の間に戻る。

 つくねんと庭を眺めていると、縁側に面した廊下から、久江が現れた。


「昨夜は、お祭りに行かなかったのね」


 彬文が聞いているかどうかにも構わず、久江は一方的に話しだす。

 取ってつけたような、どこか不自然な伯母の様子に、彬文は内心で首を傾げた。


「珍しいこともあるものね、と思っていたのよ。以前なら、率先して出かけていたじゃない。やっぱり大きくなると、落ち着いてくるものなのかしらね。その割にあの子はちっとも変わらないんだけど……それとも、もしかしてお祭りのこと、操生が伝え忘れていたのかしら。忘れっぽい子だから」


 花切り鋏を手にした久江は、珍しくやたらと饒舌だったが、彬文を意識しているにしては気もそぞろであった。

 まるで心配事でもあるかのように。

 床の間に生けた花を、新しいものに替えながら、彬文の方など見もせずに話し続ける。


「僕が誘うからって云うから任せたのに、仕様のない子。今だって用事を頼もうとしたら、肝心の用件もろくに聞かずに、飛び出してったきりの鉄砲玉なんだから……」


 彬文は軽く目を見開いた。

 では操生は部屋にはいなかったのか。

 道理で、何度呼んでも応答がなかった筈だ――当人がいないのなら、ある訳もない。

 自分の行動を省みて、彬文は含み笑いを漏らした。


「ちゃんと来ましたよ。僕が一緒に行かなかっただけで」

「そうだったの」


 心なしか、ほっとしたような表情を久江が見せた。

 同じ表情をどこかで見た――強い既視感につき動かされた彬文は、記憶を探り。

 そして思い至る。


 ……そうだ。


 昨晩、自分が居間から早々に引き上げようと席を立った、あの時だ。


 ……何かがおかしい。


 祖母の仏前で手を合わせた折にも感じた、微妙な違い。

 それは、単に物の配置の変化などではなく、もっと抽象的なもの――例えば、この家に漂う空気といったような――の所為かも知れなかった。

 ただ単に、三年も離れていたから、といったことではなく。


 気になり始めると、幾つも思い当たる違和感。

 穏やかな笑みの合間に、時折のぞく伯母の浮かない表情。

 以前より寡黙に感じられる祖父。

 今までなら、彬文の来訪に合わせて有休を取り、必ず単身赴任先から戻ってきていた筈の伯父の不在。

 そして昨日の操生の台詞の数々。

 はたして、本当に自分のことが原因なのか。

 それとも……。

 いくら思いを巡らせてばかりいても仕方ない。

 意を決して、彬文は口を開いた。


「僕がこの家に引き取られる――って話は、本当ですか」


 途端、久江がはじかれたように振り返った。

 向けられたその顔には表情がない。


「それ、操生が云ったの」

「他にこんなこと、僕に云う奴はいないよ。それより本当のことなのか、僕は当事者なんだから、教えてくれたっていいでしょう」


 詰め寄る彬文に、久江がようやく視線を合わせた。


「あの子が、何のつもりでそんなことを吹き込んだのかは分からないけど……それは嘘よ」


 嘘をついている目ではない、と思う。

 けれど、嘘を口にしない代わりに、もっと重大な何かを自分から隠そうとしているようにも見える。

 それに、本当に操生の出任せなのだとしたら、彼は何故あんなことを云ったのだろう。


「本当に」

「こんなこと。嘘を云ってどうなるの」


 云って久江は笑ったが、その笑みはどこがぎこちないものだった。


「……そうですよね」


 合わせて笑いながら。

 彬文は自分の中で、謂れのない不安がどうにもなく膨らんでゆくのを、抑えることが出来なかった。




*** 第四章-幻影_1 へ続く***