「それにしたって、ちっとも伸びちゃいないじゃないか。あんまり食わないからだぜ」
促されるまま操生(みさお)の部屋へと向かいながら、彬文(あきふみ)は不貞腐れていた。
たった一つしか違わない癖に、口争いで彼には勝てたことがない。
いや、口だけでなく、勉強面でも運動面でも、行動的なこの従兄に、彬文が勝てた例はなかった。
それがなおさら気に障る。
「大きなお世話だよ。操生だって偏食ばかりしてるから、そんな痩せぎすなんだ」
色白で、端正な顔立ちをした操生は、実際よりも華奢に目に映る。
色素が薄くまっすぐな髪や、鳶色に近い双眸とあいまって、幼い頃はよく周囲の大人たちから、西洋人形のように見えると云われたものだった。
……しかし。
「お生憎さま」
彬文の精一杯の抗弁も、操生にかかっては豆腐にかすがい、糠に釘。
「身長は時期を越すと伸びなくなるけど、体重は幾らだって後から増やせるんだから、構わないのさ」
言外に、お前はもう伸びないと云われているようで、腹が立つ。
大体、この口達者な従兄との思い出に関しては、ろくなことがないのだ。
やはり来なければよかった。
後悔の念が、彬文の脳裏を掠めた。
日当たりのいい奥の間と、ほぼ対称な位置にある為、操生の部屋はいつも少し薄暗い。
外の光に左右されない為、明るさが一定に保てるらしいのだが、始終こもっていたくなるような部屋ではない。
それを、いかにお気に入りの部屋にするか――が、きっかけだったように思う。
「また随分変わったもんだ」
何にする、と二人で頭を絞り、彬文が「いっそ暗いのを利用できないか」と提案したところ、星好きの操生が「それじゃ天井を夜空に見立てよう」と言い出した。
手持ちの星図では小さすぎる、と自ら図を描いて天井に貼り付けたのは、まだ互いが小学生の頃。
それからというもの、毎年創意工夫を凝らしては、訪ねてきた彬文に、操生が自慢するのが常だった。
年齢不相応に世知に長けた、ひとつ上の従兄に揶揄われ、むかっ腹を立てることもしばしばあったけれど、今よりはもっと近かった。
あれから数年――天井を飾る星々は、夜空のそれに近づいているのに、自分と操生の心の距離は、なんと離れてしまったことだろう。
「時間が経ってるからな。だって、三年も来なかったじゃないか」
わずかに含まれた、拗ねたような響きに驚いた。
操生は、彬文が己を避けたがっていることを、間違いなく感づいている。
それを逆手にとって、いらぬちょっかいを出してくるから始末におえないのだが、よもやここしばらく自分が逢沢家を訪れなかったことそのものに、どうこう云われるとは思ってもみなかった。
「それは、色々と忙しかったから…来年の受験のことだってあるし。操生だって、今年受験だろう」
取り繕うように弁明をはじめた彬文を見やり、操生はさらりと本音をついた。
「なんだ、僕に会いたくないんじゃなかったのか」
一瞬呼吸がとまりかけたが、図星をさされて、はいそうですと肯く奴はいない。
「誰がそんなこと。僕は」
「まあいいよ、どうだって。それよりちょっとそこのカーテンを閉めてみてくれよ」
どうだっていい。
それは、僕が会いたがろうが会いたかなかろうが構わない――という意味なのだろうか。
相手の他愛ない台詞に、自分ばかりが惑わされる。
先に態度を変えたのは、確かに彼の方だったのに。
釈然としない思いを抱えながらも、彬文はしぶしぶ云われたとおり動く。
「今の奴は、ちょっと凝ってるんだぜ。そら」
得意げに笑んで、操生が照明を落とす。
部屋を照らすものが、何もなくなった途端。
星に模られたそれが、自らの存在を主張するように、淡く光を放ちはじめた。
それぞれの配置だけでなく、青白、白、黄色、赤――と、色までを忠実に模しているのは、流石というべきか。
この少年は折りにふれ、こうした神経質なまでの几帳面さと、抜きん出た技量を見せる。
実際、彼の才は、臍を曲げかけていた従弟すら感嘆させるものだった。
「へえ……洒落てるじゃないか」
「だろ。わざわざ街まで蛍光板を買いに行ったんだ」
直接書いた方が楽なんだけど。
取り払うなら、こっちの方が断然便利だし、蛍光塗料なんかで天井に落書きしたら、母さんにこっぴどく叱られるからな。いい加減年齢を考えろってさ。
「でも、もうそろそろお遊びも終わりだな」
窓辺に寄ると、操生は何かを振り切るようにカーテンを開けた。
彼にしては乱暴な仕草。
けれど、それよりも彬文は、操生の口にした言葉の方に気を取られていた。
「終わり……」
「だってそうだろ。いつまでも、このままでいられる訳じゃないんだし」
陽の光にさらされたその横顔が、思いのほか青白く見える。
彬文の心の琴線に、何かが触れた気がした。
「――操生」
「なんだよ」
呼びかけに振り返った彼の顔は、どうみても普段どおりだ。
操生の色の白いのは元からだというのに、何が気になったのだろう――結局、彬文は首を横に振った。
「……何でもない」
「可笑しな奴だな」
彬文が不機嫌になるのも構わず、操生はなかなか笑いを収めようとはしない。
「そういえば……」
あと一歩遅ければ食ってかかっただろう。
絶妙な頃合いの見計らい方は、要領のいい彼らしかった。
「何」
答えが返ってくるまでには、何故か一瞬の間があいた。
操生にしては珍しい。
彬文がどれだけ口を尖らそうと、そんなことで云い淀むような性格ではないのに。
もっとも、その疑問はすぐに解けた。
「叔父さんは、元気」
ことのついでのような問いかけ。
そこには何の不自然さも見当たらない。
――ただ、相手が決して自分と目を合わせようとしないことを除いては。
己が人の感情を逆撫でしているということに、彼は気付いていないのだろうか。
「まあ死なない程度にはね」
我ながら、人を食った返事だと思う。
案の定、操生が眉を顰めた。
しかし彬文は、あくまで無視を決め込んだ。
この話題には触れられたくなかった。
そしてその理由は、彼自身、重々承知のはずなのだから。
戸籍では従兄――が、操生は血縁上では、歴とした彬文の兄である。
伯母の久江が子供ができない体質だったことと、彬文の母である操生の実母が、彬文を産んだ時に身体を壊したこと、跡継ぎであった筈の父が、跡をとらず家を出てしまったことなどから、逢沢家の跡取りとして、操生は養子にもらわれていったのだった。
といっても、両家の間で話し合いがもたれ、操生がこの逢沢家に引き取られていったのは、彬文が生まれて半年くらいのことだったから、実感はないに等しいのだが。
彬文がそのことを知ったのは、祖母の葬式の直後だった。
窓辺に立つ、操生のすらりと伸びた背を眺めながら、彬文は久江から「彬久に似ている」と云われた時のことを思い返していた。
何故あの時、あんなにも父に似ていると云われたことに、拒否反応を覚えたのか――。
今なら分かる。
首筋から肩にかけてのなだらかな線といい、目を伏せた横顔といい、操生はなんと父に似ていることだろう。
久江はああ云ったけれど、彬文は誰から見ても完全に母親似であった。
―もし、本当に自分が少しでも父に似ているのなら、どこかしら操生とも似ているのだろうか。
とりとめもない事柄を考えながら、彬文は軽い目眩に襲われていた……。
*** 第二章-葛藤_2 へ続く***