「ヘイトスピーチ」

ご存じだろうか。

欧州では、その扱いに法的規制を設けている国が多いが、ようやく、この日本でも
論議が進められているものである。

その意味を辞書で調べてみると、こうある。

「特定の対象(人物や集団)に対する敵意や憎悪を、過激な表現を用いて直接に示す言動
の総称」と。

ある意味「差別」と同じ意味合いである。

私も「ヘイト」や「差別」は知識人として、当然 反対であるが、人間と言うか生き物で
ある以上、「どうしようもない衝動」の一つではないかと考えてしまう。

元来、生き物は、自分と同じ種とは集団で、違う種は排除するという、自己種の保存の
ための「本能」とも言うべき習性がある。
こと人間に至っては、その習性を発展させ、同じ種でありながら「種族」「同族」「宗教」
単位での集団を形成し、それ以外を力づくで排除してきた歴史がある。
と言うか、世界目線でみれば、いまだにこの習性は続いている。
だからこそ、「ヘイトスピーチ」などと言う言葉が生まれたのだ。

では、その「ヘイト」と言うか「差別」の最たるものは「人種差別」だと言われるが
私は違う思いがある。

人間が作った最大の「差別」は「国」である。

地球上の他のどんな生物でも「国」などと言う「差別」的な集団は形成していないし
例え、それに類似する集団が構成されていたとしても、相手を滅ぼそう、侵略しよう
などと言った行動は起こさない。
人間は他の生き物と比べ知能的だと言うが、果たしてそうだろうか。
この「国」と言う差別的な行動とその他の生き物の行動を比較した場合、どちらが
知能的だと考えるのか。

「ヘイトスピーチ」や「差別」は社会道徳から見ても許される行為ではないことは
十分に理解するが、やはり「本能的」な意識のほうが強く、ついつい行ってしまう
のではないだろうか。
もし、「ヘイト」や「差別」と言った行為が稀にしか行われないのなら、「ヘイトスピーチ」
や「差別」などの言葉は生まれない。
日常的に行われているからこそ、法的手段にまで頼っているのだ。
そういう意味では、欧州は「差別」意識が凄い地域だということだろう。

しかし、「ヘイト」はともかく「差別」自体は私たち日常生活には当然のように
存在する。
例えば、会社。
入社は皆一応に新入社員だが、そのうちその肩書や地位に「差」が生じる。
また官公庁などは、その「差」が更に顕著であり、警察組織などではよくテレビドラマ
などに出てくる「キャリア」と言われる国家公務員試験に受かった者が実績がなくても
警察官になれば、警部補から肩書が始まる。

また、先祖代々の地主や金持ちは、生まれた時から「財産」を保有し、お金で苦労する
ことがあまりない。

これらは全て間違いなく「差別」である。
しかし、この「差別」が不公平だとして法的に規制しようと言う動きはない。

「ヘイト」については、韓国や中国が公に日本または日本人に対し発言している
内容は「ヘイト」そのものだと思うのだが、彼らは自分に同じような発言が向けられると
「ヘイト反対」と叫ぶ。

確かに「ヘイト」や「差別」は個々の尊厳を貶める行為であり、許されない。

しかし、現実には立場や状況によって容認されていることも、いいように使われている
ことも事実である。

やはり、時代が進んでも、また法的規制をしようが「ヘイト」「差別」はなくならないの
である。
その行為は生き物として、人間として「本能的」な行為なのだから無くしようがないので
ある。

おかしいものはおかしい。
嫌いなものは嫌い。
排除したいものは排除する。

致し方ない行為である。
新しく米国のTopが変わり、今までの世界情勢が大きく変わってきているような
感じがするのは私だけだろうか。

新しい米国のリーダーが掲げるのは「自国優先」「世界のTop」である。
自国の利益を阻害する制度や国は容赦なく変化を促すようだ。
 
まぁ、元々米国はそう言う思想の国であり、過去から自国の利益を守るため
とうでもない保護貿易や他国を攻撃してきた。
それが、ここ何代かのリーダーが「世界との協調、共存」と言う路線で米国の
かじ取りをしてきた。
しかし、やはり国の本質は変わらず、協調路線がもたらす弊害に、国民も我慢の限界が
きたのだ。
それが、今の新しいリーダーが生まれた理由だと思う。

他の報道でも報じられたが、新しいリーダーは「政治家」ではない。ましてや「軍人」
でもない。
あくまでも「ビジネスマン」であり「経営者」である。
その本質は「競争」であり、「利益(勝利)」の追求である。
これから恐らくは米国国民は、今までとは違った恩恵を与るだろう。
より国民の希望に沿った形で。

しかし、そうなると米国が受ける利益と同等の損失を米国以外が被る形になることは
必定。
要は、今までの米国内の歪を米国以外に持っていくのだから当然である。

今、米国に重要なのは自国の利益である。
そのためには、米国に歯向かう、または言うことを聞かない国や指導者は除外する
必要がある。
それが、先日のシリア国への巡航ミサイル攻撃である。
これは、露国や中国へのけん制と北朝鮮への警告だと言われている。
なぜ、米国はシリア国を攻撃したのか。
それは簡単だ。化学兵器使用によるルール違反で米国に「大義名分」を与えたからだ。
元々、攻撃したくてうずうずしていたのだから、兎に角 「言い訳」がほしかったのだ。

今、朝鮮半島沖合に米国は空母を派遣している。
これは米韓による軍事演習と言う名目だが、シリア国同様、ルールを北朝鮮が破れば
恐らく何らかの仕掛けを行うだろう。
ご存知のように朝鮮半島は元々「休戦」状態で、北朝鮮と韓国の戦争は終わっていない。
いつ何の原因で戦争が再開してもおかしくない。

米国が「ルール」違反として考えているのは、「核実験」とICBMの発射実験だろう。
北朝鮮がもし米国を刺激するような行動に出たら。
そして、米国が北朝鮮に何かしかけたらどうなるか。

恐らく北朝鮮の報復行動で、まず韓国が大きな被害を受けるだろう。
そして、我が国 日本も例外なく大惨事となるだろう。
それに北朝鮮には「核兵器」がある。
仮に報復行動に「核」を使用したら。考えてもない想像である。
しかし、私には「核兵器」を使うかどうかには疑問が残る。

現代において「核兵器」使用は使用した国自体の滅亡も意味する。
確かにTopはボンボンで世間知らずの独裁者で、追い詰められ激情にかられ「核」
使用の命令を出すかもしれないが、恐らく周りが見限り「核」までは使用
しない可能性があると思っている。
親子三代に渡り、恐怖政治で粛清を繰り返してきた一族には、もうヘキヘキしている
と思う。
取り巻きの中にも本心では恨みを抱くものも少なくないと思う。
その理由は、これまでの歴史が物語っている。シーザーしかり織田信長しかりである。

とは言え「核兵器」を保有している事実は事実。
トランプ大統領も馬鹿ではない。
米国は仕掛ける前に、用意周到に進め、「核」使用を無効状態にしたうえで
仕掛けるだろう。

米国に逆らえばどうなるか。
その「意味」でも北朝鮮制裁は行う可能性が高い。

これまでは露国や中国に対し、柔和路線での外交を進めてきたが、その為米国は
「眠れる獅子」と侮られてきた。
だからこそ「強い米国」を目指す現大統領は復権をかけ出来る行動はすべて行うだろう。

私は基本的にどんな理由があろうと「人の殺し合い」に過ぎない戦争行為は
認めないが、どこかの馬鹿な野党先生たちと違い、「防衛」のための戦闘行為は
当然だと思っている。
だから、米国の北朝鮮への行為が、日本に危険を及ばない限り、加担するべきでは
ないし、恐らく何か行動を起こしたとしても安保上、後方支援程度だろう。

仮に朝鮮半島で有事が起きた場合、今まで馬鹿で愚かな言い分で国防を否定して
きた野党たちは、初めて自分の愚かさを知ることになるだろうと思う。
またあれだけ反日を掲げ、言いたい放題だった韓国も日本が支援しないことに
今までの態度を反省することになるだろう。

朝鮮半島有事に対し、朝鮮戦争休戦後 最大級の緊張状態なのは間違いないが
日本人のその殆どは、くだらない芸能ネタにしか関心がないように見えるのは
私だけだろうか。

私たち人間の日常生活にとって「時間」とはある種の「基準」であり、ある意味
「普遍的」なものだと感じているのではないだろうか。

「時間」を言葉で説明すれば、「変化や出来事を表す概念」だと言う。

恐らくだが、この地球上で「時間」と言う概念を持ち合わせているのは「人間」
だけではないだろうか。
他の生き物には、このような「概念」はないような気がする。

他の生き物、特に動物などは人間同様、夜がくれば眠るし朝がくれば起きて
活動する。
しかしこれは、人間のように「時間」を基準に行動しているとは思えない。
ただ、自分の周り、空間事象の変化で行動しているにしか過ぎないのではないか。

「時間」と言うものに突き動かされているのでなく、事象の変化に合わせている
のだ。
人間のように「22時は夜」「8時は朝」などと言うことは全く認識していない。
ただ、「暗くなった」「明るくなった」等の事象を感じて生きているのだろう。

これは動物を馬鹿にしているのではない。
本来の姿を言っているのだ。それには人間も例外ではない。

ただ人間はある時期、「時間」と言う概念を持つようになっただけだ。

かの天才物理学者、「アインシュタイン」は、それまでの「時間」に対する
考え方を根本的に変えてしまった。
今までは、「空間」と「時間」は別物と捉えていたが、「アインシュタイン」は
「時空」と言う概念を発見した。
更に「時間」は普遍的なものや絶対的なものではなく、相対的に変化するものと
位置づけたのだ。

それが「相対性理論」である。
この「相対性理論」から導き出される「時間」に対する考え方は、「時間」は「観測者」
によって変化すると言うことである。
有名な説に「光速で移動する物体の中の時間はゆっくり進む」と言うものがある。
これが示唆するものは「光速の物体の中の時間」と「その外」では時間の進み方が違う
ため「光速で移動すれば、未来にいける」と言うことになるのである。
詳しくは、「相対性理論」の解説書を読んで頂きたい。

更に最近の研究者の間では、新たな「時間」に対する「説」がある。

マサチューセッツ工科大学のある博士は、「時間は流れていない。むしろ止まっている」と
の説を唱えている。
これは、「相対性理論」をもとにすると、「現在・過去・未来は同じ時空間に広がっていて
それが散在しているといる状態にある。だから、流れるという表現は間違いだ」。という
ことだそうだ。

その博士は「ある出来事」が過去になるという現象は間違いであり、時空間は「未来・現在
・過去」を同時に内包していると考えている。

博士は「私たちはある特定の時間(現在)にのみ存在しているのではなく、全ての時間に
同時に存在しているのだ」と語っている。

勿論、この場合、「過去・現在・未来」は同じ空間という舞台に同時に存在しており、決して
過去が消えたり、未来が現在の場所を取ったりするわけではない。
この説は「相対性理論」と矛盾を生じる事がない時間理論の一つだそうだ。

では、どのようにして「時間の流れ」などと言う感覚を覚えるのか。
それは、空間に、過去、現在、未来が同時に存在するが、認識できるのは一つに限られる。
まるで、舞台のある役者にスポットライトがあたり、その時点では舞台上の他の役者を認識
出来ないが、スポットライトが次に移動して認識出来る役者が変わるのと同じである。
この理論ではスポットライトから外れた「過去」は決してなくなったわけでなく、スポット
ライトが「現在」に移動したため「過去」に触れられなくなったのだ。

今まで通りの説で「過去から現代そして未来に時間が流れている」のであれば
「過去」は消え去り、未来も予測できない。
しかし、現実には遥か太古の「過去」の記憶をもっていたり、「未来」が見える人が存在する。
これはやはり、「過去、現在、未来」がこの空間に散在してはいるが同時に存在しているから
ではないだろうか。

まぁ、この説が正しいかどうかは判らないが、「事象の変化や出来事」を時間と捉える
ならば、この説も間違いではないと思う。
ただ、どのようにして「スポットライト」が変わるのか、またあてる「未来」のルールは
など判らないことばかりではあるが。

私見だが、そこには偶然などは存在せず、必然と言うルールが存在する気がしてならない。
そう「見えざる手」によって。