天国の作り方の題するからには「天国」がどんなところか提示する必要もありましょう。
まだ書いていなかったの?という感じですが…。
昔、統一教会では「地上天国」というのを目指していました。
それは万民が生きて神と父母の御心に沿って幸福に暮らすことができる世界というものでした。
残念ながら、今となっては見る影も無いようです。
ついでに言うならば、中心にあるものが何であれ、
万民が喜びに満ちて永続的に暮らす世界が出来上がるなら、
その中心に立つものを私は神と呼びたい。
どこかから持ち出してきて
これが神様なんだから、これが中心なんだと押し付けられるのは真っ平な話である。
聖書には
「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。
神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。
実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ福音書17:20~21)
聖書はややこしい。
神の国、天国、楽園、アブラハムの懐、千年王国…色んな表現があってそれぞれ解釈されている。
ただ、ここで表現されている人々の間にある神の国が、このブログで目指している天国にあたる。
とにかく、生きた肉体を持ったまま、暮らすことが出来る幸福な世界を築きたいのである。
桜葉のように臆病な人間は、
天国に入る資格を得るための競争に勝ち残る自信など無いし、
天国に入れたとしても、
何時そこから追い出されるのではないかとびくびくしていては幸福とは言えない。
だから天国とは、選ばれた一握りの人間にのみ許されるものであってはならない。
誰でもがそこに暮らすことができる世界でなくてはなない。
家族や、親しい人が苦しい生活をしていて、自分だけが天国にいたら
やはり心配で心安らぐことが無いのではなかろうか。
誰でもが、誰かの家族であるから、
やはり、一人残らず天国の幸福に浴さなければ完成しないのが天国なのである。
臆病者は桜葉一人に限らない。
幸福はどのように得られるのか、あるいはどのような状態を幸福と呼ぶのか?
再び統一教会から引用する。
これは、原理講論の冒頭の文章である。
「人間は、何人といえども、不幸を退けて幸福を追い求め、それを得ようともがいている。個人の些細な出来事から、歴史を左右する重大な問題に至るまで、すべては結局のところ、等しく、幸福になろうとする生の表現に他ならないのである。
それでは、幸福は如何にしたら得られるのであろうか。人間は誰でも、自己の欲望が満たされるとき、幸福を感ずるのである。しかし欲望などといえば、ややもすると我々はその本意を取り違えがちである。というのは、その欲望が概して善よりは悪のほうに傾きやすい生活環境の中に、我々は生きているからである。しかしながら、我々をして不義を実らせるような欲望は、決して人間の本心から湧き出ずるものではない。人間の本心は、このような欲望が自分自身を不幸に陥れるものであるということをよく知っているので、悪に向かおうとする欲望を退け、善を指向する欲望に従って、本心の喜ぶ幸福を得ようと必死の努力を傾けているのである。」
四つ目の文までそのとおりであると共感できる。
しかし、五・六番目の文から二元論の展開を始め、欲望=悪という図式を立ててゆく。
「しかしながら、有史以来、
ひたすらにその本心のみに従って生きることのできた人間は一人もいなかった。」
と書きながら、
「しかし、悲しいかな、我々は、その究極において、
善と悪とがそもそも如何なるものなのかという問題を解くことができずにいるのである。」
と続くのである。
善悪が分からないのに善人はいないと言い切っているのです。
無責任極まりないが、この文章を書いた著者は弟子の一人として書いており、
原理講論というこの本自体、完全な真理を表すものではないことを記している。
特にこの冒頭部分は「総序」といって、著者の感情が多く書き出されているところで、
彼の「願い」について共感こそすれ非難するつもりは無い。
ただ、この本の取り扱いを誤ることで、却って多くの不幸をもたらしている現実がある。
「幸福は如何にしたら得られるのであろうか。
人間は誰でも、自己の欲望が満たされるとき、幸福を感ずるのである。」
これだけでいいのです。
シンプルにいきましょう。
そして、善悪の概念は用いず、幸、不幸で考えたいと思います。
心理学からの引用をしたいのでそちらの用語に置き換えます。
欲望は、欲求
幸・不幸は、快・不快
望はのぞみであり、のぞみはのぞむものなので、
のぞむ対象は遠くにあるもので近くのものはのぞみません。
人の欲は遠くのものもありますが、近くのものも沢山あります。
欲求という表現は、近くの欲と遠くの欲の両方をカバーします。
快・不快は瞬間的な状況を表しますが、
幸福は継続的な快であり、
不幸は継続的な不快です。
ちょっと刹那的になりますので、展望を加味しながら考察すべきでしょう。
人の欲求には成長的段階と必須度階層があります。
一個人の中にも必須度階層が同時に存在しますが、
複数人集まれば個性と成長的段階も加わって更に多様な欲求が存在します。
これらの欲求が互いに対立するように見えます。
すると、万民の幸福なんてありえないと感じられるのです。
「全部が満足なんてできるわけがない!」と、思えるのです。
だから天国を目指すためには欲求についてよく知る必要が在ります。
手元に「面白くてよくわかる!心理学入門」(立正大学教授・齊藤勇)
という本があるので、そこの欲求心理学の章から引くと
マァレーという心理学者の説で「一次的欲求」「二次的欲求」というのが紹介されている。
一時的欲求は生理的であり、二次的欲求は社会的なものと分類される。
生きるための欲求と、対人関係の中での欲求ということでしょう。
そしてこの2つに分類されない「内発的欲求」という分類があるらしい。
〈好奇欲求〉〈感性欲求〉〈操作欲求〉〈接触欲求〉ということだが、文字から想像してみてね。
次に欲求の分析としてもっとも有名なのがマズロー。
○生理的欲求
○安全の欲求
○愛と所属の欲求
○承認と尊敬の欲求
○自己実現欲求
○自己超越の欲求
先にかいてあるものが下位欲求で、後に行くほど上位欲求です。
下位欲求が満たされるごとに次の欲求を持つようになるという説。
次に先述の本には無いが、アドラー。
彼は「嫌われる覚悟」というので最近知られるようになってきたが、
これ以上に重要だと感じているのが「共同体感覚」である。
アドラーの場合、著作によって考えを表したのではなく、
多くの講演のなかでその説を展開した人なので、なかなかうまい資料が見つかりません。
共同体感覚と言うのは、自分が所属する集団の利益を望む感覚をさします。
打算的にではなく、集団の喜びを自分の喜びと感じる感覚です。
最初は「自分自身」→「家族・職場」→「地域全体」→「国全体」
→「現在の人類」→「未来の人類」→「地球環境」→「宇宙全体」
という具合です。
次に、これは心理学ではなくスピリチュアル系の本から
チョプラ「内なる神とつながる方法」より。
人は歴史的に、自分に善いことをしてくれる存在を「神」と呼んでいます。
この本では神の7つの段階として分析していますが、
7段階の神がそれぞれ対応する人間の願いがあるわけです。
それが「人生における挑戦」という言葉で表現されています。(挑戦=目標と考えられます)
1・生き残り、守り、維持すること(生理的欲求に近い)
2・最大の達成(個人の成しうる成果の達成)
3・従事しながら手放している(外的成果に捕らわれることの無い平穏)
4・二極性を越えること(一般の価値観を超越する)
5・創造者と提携すること(望むがままに実現する)
6・解放されること(悪存在からの解放)
7・自分自身であること(もはや望むものも無い)
超越していますね。普通には2か3までしか理解できないと思います。
( )内は桜葉の注釈ですが、正しく的を射ていないかもしれません。
お釈迦様は欲求としては残しませんでしたが、「苦」について語っています。
「苦」から逃れることが欲求でありました。
以下は「初転法輪 苦聖諦」
「生・病・老・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦」
「生・病・老・死」は生命維持に関わる問題で、マァレーの言う一次的欲求が苦難にさらされる状況。
「愛別離苦・怨憎会苦」は対人関係の問題だから、マァレーでは二次的欲求の問題。
「求不得苦・五陰盛苦」は内発的欲求が満たされない状態にそれぞれ該当するでしょう。
お釈迦様とマァレーは、刹那的分析をし、
チョプラと、アドラーと、マズローは成長に着目した分析をしています。
マズローは刹那的分析に引きずられているところもありますが…。
このブログの最初に書いた成長段階の分析はチョプラやアドラーと通じている。
二年前の表も書き直さないといけないね。
次回は刹那的分析から考えて生きたいと思います。
成長は刹那の積み重ねによって成されます。
四位基台的分析方法をうまく取り入れられると善いのですが、どうなるか。