天国の作り方

天国の作り方

the Study of Albert, a eccentric scientist
変人博士 と 助手・桜葉佳代

Amebaでブログを始めよう!

私はこの御言葉は読んでいませんでした。

教会で「絶対信仰・絶対愛・絶対服従」と言われていることは聞いていましたが、

個人の主体性を立てなければならないと感じていた私には誰にも彼にも服従を命じるこの御言葉は???な感じがしていました。

これが必要なのは、女性が主体者に対してであれば納得がいくかなとは思っていましたし、

主体者に対するにしても女性が男性を育てなければならない期間があるとも聞いていましたから、立場期間がある程度限定されなければ成立しないものだと思っていました。

ここに紹介されているみ言葉は、その限定される部分を示しています。

紹介してくださったパシセラさんに感謝です。

 

パシセラさんは韓お母様の立場ににあてられたものとして紹介しているようですが、これは個人だけではなく、

心情の八段階を歩むうえで、実子に続く『母』→『父』の流れを示してくださっています。

心情八段階については『実子』→『母』→『父』→『神』とする話と別に、『実子』→『夫婦』→『父母』→『神』というものがあると言われます。

私は母→父が重要と考えているので、この御言葉はそれを裏付けてくれるものにもなります。

 


『ネアンデルタール人に霊人体はあるのか?』

おーばのつぶやきblogを更新したけどブログ村に反映されないためか、読みに来てもらえない。。。

けっこう、むら頼りだったんだなぁと実感。

 

http://blog.o-baka.com/?eid=423

 

アメブロは反映するのかなぁ?

JUGEM以外にも反映してないブログはあるみたいで、ランキングにブログタイトルしか表示されていないのがけっこうありますね。

そしてマイページからチェックできたフォローしているブログの新着記事も出てこなくなった。

改善されるのでしょうか?

時間は存在しないとかいう表現を見かける。

何を持って存在としているのかがそもそも問題なのだ。

 

過去・未来の物理的空間は、現在には存在していないと表現すれば的確ではなかろうか?

 

時間の正体は運動である。

 

変化もまた、運動の結果表現が変更されることなので、変化の正体も運動なのです。

 

 

時間が速く進むとか、遅く進むとか表現される。

これは運動速度が速いか遅いかである。

 

一日という単位は地球の自転速度を基準とする。

地球上にいる限りは共通して一日をカウントすることができる。

時計と言うものは、物質の振動数を基準として時を刻む。

振動数が一定であることが前提なのだが、何に対して一定かと言えば、地球の自転速度と一定比率なのだ。

 

だからもしも地球が失われ、生き残った人類がいた場合には、

地球の自転速度と一定比を保つと考えられる存在の、振動数なり、回転数なりを基準として人は標準時を決定するようになるだろう。

しかしそれも地球がある太陽系と同一条件下でなければ信頼性は置けないことになる。

 

地球が誕生する以前の歴史的時間を科学者は測定している。

物質の崩壊速度とか、光の到達速度とかを基準に判断しているのかな?

しかし、重力によって、あるいは速度によって、時間が速くなったり遅くなったりするならば、

この判定基準はかなり怪しいことになると思うのだがいかがなものか?

『知』が先か『情』が先かと問われれば私は『情』と答える。
 
過去記事にコメントをいただきましたのでリブログして、これは応答記事でもあります。
 
原理講論総序にはこうある。
「無知からは如何なる情緒をも生じ得ない。 また、無知と無情緒からは如何なる意思も生ずることはできないのである。」
ここでは『知』→『情』→『意』の順序が示されています。
確かに、一見そのように感じるものです。
これはコメントをくださったポンタ・D・アズナブルさんのおっしゃる通りです。(以下コメント)
 
 

>例えば、車が好きな人で、特にスポーツカーとかでTOYOTAの「ハチロク」が好きで、それが目の前を通れば、「オオッ!!Σ( ̄□ ̄;)カッコエエ!」と「嬉しい感情」がわいて来ますが、
>その同じ状況でも「車にはほとんど興味ない人」は、「意識下にない」ので、その車が通ったことすら気づかないのです。
>当然、「何とも思っていない・感じていない」
>「感情が発生していない」わけですね。
 
 
 

では、車好きと車に興味がない人との違いはどこから来るのかという問題です。
一つは、車を好きになるきっかけとなる経験の有無が考えられます。
車にまつわる楽しい経験を持てば車好きになるでしょう。
一方、車で嫌な経験を持てば車嫌いになるかもしれません。
又、取り立てて印象に残る経験がなかった場合には関心が生まれないかもしれません。
 
経験=記憶となります。
 
記憶とは知性的分野と考えていいのですが、上の文章で注目していただきたい文言があります。
『楽しい経験』『嫌な経験』です。
『楽しい』『嫌』は感情的評価です。
 

一つの経験が楽しいものになるか、不愉快なものになるかを決定するには多くの要素が絡み合います。
話を単純化するために例えを変えます。
 
初めて大きな犬を見たとき、興味をもって近づいていく子供と、見るなり泣き出してしまう子供がいます。
この差は何でしょう?
 
子供の元々の性格でしょうか?では、その性格は何で決まるのか?
たまたま、その時の機嫌の良し悪しでしょうか?
 
これは明らかに感情の問題ではないでしょうか?
 

知と情は綿密に授受作用を持ち、情は記憶というデータベースの情報と現在進行形の経験値を比較しながら『快』『不快』の評価をしています。
知的蓄積のように見える記憶のも、実は情緒的評価に基づいて整理されています。
 
好ましいものの情報は重く扱い、好ましくないものは軽く扱います。
好ましくないものでも、危険を伴うものは一定の重きを置いてはいます。
重要な扱いを受ける記憶はさらに情報収集が進められますね。
 
これ等の記憶は性格の形成にも大きな影響を持ちます。
楽しい記憶が多ければ、行動は積極的になることでしょうし、好ましくない経験が増えれば慎重にもなるでしょう。
 

性格の決定がなされるまでの赤ん坊にはご機嫌に暮らしてほしいものですね。
お母様方は大変なことだと思います。
だから乳幼児を抱えるお母さんたちは保護されてしかるべき。
お母さんの不安が赤ちゃんを不安にさせ、お母さんの喜びが赤ちゃんに楽しさを与えます。
 
 
 

これは人間の場合ですが、神様の場合にはどうなのでしょうか?
 
これは『知る』とはどういうことなのかという問いでもあります。
『知る』ために必要なのは経験です。
しかし、創造の初めには何もない状況でしたから知るべき対象がないのです。
ご自身のことを知るにしても、ご自身を対象化して観察するということですがその時に、神は五感をお持ちでしたでしょうか?
五感なくして知るというのは一体どんな感覚でしょうか?
創造するということは概念世界を創造することから始めなければならなかったはずです。
概念とは、それ自体が『知』を表します。
『無知』からスタートするときに先立つことが可能なのは『情』と結論せざるを得ません。
『知』を構築したという『情』的な力が働いたからこそ世界は構築され始めます。
一旦始まれば、そこからは『知』から帰ってくる刺激(美)によって『情』はさらにエネルギーを得ますから、授受作用は加速していったことでしょう。
 
 

科学と宗教の間に哲学という分野があります。
宗教は時に理屈を無視しますが哲学は理屈を追求します。
論理的矛盾と飛躍を避けて整合性を求めます。
中世ヨーロッパではスコラ哲学と言われるものをキリスト教がけん引していました。
もっとも、宗教色が強かったので、理論には飛躍も多かった様ですがそこそこの実績は上げています。

 

哲学と科学の違いはどうかというと、検証能力の違いではないかと思います。
哲学では、理論の中に整合性が保たれていればそれでいいのでですが、
科学になると、検証できることが大切になります。
『一定の条件が整えられれば誰でもが同一の検証結果を得られる理論』でなければなりません。
同一の結果を得るためには曖昧さを排除して同一の条件が整えられる必要があります。
曖昧さの排除のために、科学は数式で語られています。

 

 

 

 

言語が曖昧さを持つのには理由があります。

 

言語にはシニフィアン(記号)とシニフィエ(内容)があります。
人間は生活するうえで様々な経験をするのですが、その経験は言葉で記述されます。
誰かと会話してみたり、日記やSNSに綴ったりする中で経験を言語化していきます。
個人が発するシニフィアンには、『個人的経験の記憶』がシニフィエとして結び付いているのです。
個々人が経験する内容は百人百様で、同じものなど一つもありませんが、
限られたシニフィアンにそれらは乗せられていくので、そこにはある程度の許容力が必要とされます。

 

個人はその経験が特殊で有ったり強烈であったりする場合、既存の記号では満足できずに新しい記号を作り出します。
新語・造語は日々生まれています。
しかし、その言葉は通じる範囲がとても狭いところから始まります。
グループ内でしか通じない言葉というものもありますが、個別的な言葉が別なグループに波及して大きな勢力になったり、
影響力を持たずに消えてしまったりもします。

 

この曖昧さがあるが故に、個人は自由さと創造性を持ちえます。
全体としても文化としてのバリエーションの豊かさの可能性がここにあります。

 

 

 

 

記号と言われれば、数式には多くの記号が登場します。
言語生活の記号は複数の文字列で記述されていますが、数式の中での記号はズバリ一文字で表されます。
そして、その内容=シニフィエは、厳密に特定されます。

 

自然言語は語られれば語られるほどにシニフィエは膨らんでいきます。
語る人が増えるほどに、少しずつ異なる経験記憶が乗せられていくからです。

 

しかし数式の場合、新しい数式が書かれるほどにそのシニフィエは削ぎ落されていきます。
数式が語るのは、その記号の内容の条件として語られるからです。
語られれば語られるだけ、その記号の振る舞いが限定されてゆく仕組みです。

 


数式には、エネルギーとか、力とか、距離とかを表す記号と+-×÷などの演算子などあります。
名詞と動詞みたいな関係ですね。
等式の左翼が主語で右翼が述語でしょうか?

 

例えば、有名な E=mc^2 などは、
エネルギー(E...主語)は質量(m)と光速(c)の二乗(述語)を、掛け合わせた(動詞)値と等しい(=)ということになります。
演算子の“×”の記述は通常省略されてますから見えにくいですね。
エネルギーの量は質量に比例する。
これは物理の授業で先生が翻訳して教えてくれました。

 

物理学の公式はエネルギー、質量、速度、距離、時間...と、それぞれを関係式で記述した公式があります。
その関係式の全てが大きなシニフィエを構築して一つの名詞のシニフィエを限定してゆきます。
ですから、語られれば語られるほどに一つの名詞のシニフィエは研ぎ澄まされてゆき、
時々その記述を検証するための実験が行われて現実世界から乖離することを免れます。
実験結果と整合しない場合には、時々新しい登場人物が想定されてその検証を繰り返すという事をしています。

 

 

 


ここまで整理して初めて理系ではない人間が、数式で表された真理の記述に向き合うことができそうです。

 

 

「宗教が探し求めてきた内的真理と科学が探し求めてきた外的真理とを、統一された一つの課題として解決し、それによってすべての人々が、内外両面の無知を完全に克服し、内外両面の知に至ることができる」

 

ここは原理講論に書かれたなかでも有名な部分だと思います。
詳細は覚えていなくても、多くの食口は「宗教と科学の統一」と、端的に記憶していらっしゃるでしょう。
そして多くの食口が誤解しています。
「原理は新しい真理なので、科学的な内容だから原理の内容で宗教と科学が統一できるものだ。」
と、信じているのですね。
これは信仰でしかありません。

 


そもそも、科学とは何でしょうか?
原理講論では「外的な真理を探究する」と書かれています。

 

科学的な外的真理とは、
『物質の根本は何か?物質の振る舞いの原理とは何か?物理世界はどの様に成り立っているのか?』
というような問題を
『一定の条件が整えられれば誰でもが同一の検証結果を得られる理論』
であると私は位置付けていますが、いかがでしょうか?

 

一方で宗教的な内的真理とは、
『神とは?人生の目的とは?幸福とは?愛とは?死後の世界はあるのか?あるとすればどうなっているのか?奇跡はあるのか?』
というような問題を
『誰しもが納得して受け入れることができる理念』
というところでしょうか。

 

一方は人間の暮らしを便利に豊かにするための技術的な理論であり、
一方は人間が豊かさを感じるための価値についての理念です。
扱う対象が異なっています。

 

何故科学が人生の価値論を扱わないかと言うと、
これは個々人での差が大きく、検証するための条件を整えることが不可能であり、同一の結果を得ることは不可能だからです。
宗教の方は、検証ができなくとも納得ができればいいのでこれを扱うことが可能になります。
だから理論ではなくて理念と表現しました。
そういう検証不能なあやふやなものが宗教なのですが、人々にはそれが必要な事だったので、
人類の歴史の最初から今に至るまで宗教が途絶えることはありませんでした。

 


科学が未だ発達していなかった時代において、
現在は科学が担当している分野でも宗教が担当している部分がありました。
病気、気象、生物化学などの分野です。
まじない、祈祷でもって病気の治癒や雨ごい、豊作祈願などをしてきたわけです。
これらは科学によって克服されてきましたので、
「何事も宗教に頼ることは時代遅れの迷信である」と考える人たちが多数を占めるようになってきたのです。

 

現在科学が担当している内容も、
人間が幸福になるために求めてきた内容です。
人間は幸福になりたいが故に神様という絶対的な力を求めました。
幸福追求の営みに、科学がやっと追いついてきたということなのです。

 

目に見えない、観測不能な世界についても、心理学や統計学、社会学などの『学』が進出を始めていますので、
今後科学が担当する分野はまだひろがっていくかもしれません。
もともとが人間の幸福追求のために存在している両者です。

 

科学においては、『一定の条件が整えられれば誰でもが同一の検証結果を得られる理論』であることが必要です。
技術の発達によって、観測・計測・計算することができる精度が高まり量が大きくなってきました。
このことが科学の担当分野を拡大しています。
科学はどこまで迫ることが可能なのか?
そして科学が最高度に発達したならば宗教は全くの不要の長物となるのか、
はたまた余計なことに煩わされずに本来的な価値を発揮するようになるのかという事になるでしょう。

 

 

思考回路のモード切り替えが必要な様ですので、博士のアカウントでやりましょう。
こちらのアカウントは3年近く放置してしまいました。
博士のアカウントでも、彼を呼び出してというわけにはいかないのでしょう。
気が向けば、或いは必要ならば手伝ってくれるかもしれません。

 

ここのところ、愛することを中心に考え、母になることを意識しながら来たからでしょうか、
知性的な面はチョットぼんやりしています。
勝共・頭翼思想をやろうとした時も散漫でしたし、最近ブログの更新が滞っているのもそんな感じです。

 

今回は、Twitterで知り合ったもふれおさんの理論について考えるわけですが、
もふれおさんの、と、言うよりは、力学的な思考についてまで、視野を広げて考えたいと思います。

 

もふれおさんも、アメブロを使っていらっしゃる(アメブロ名はポンタ・D・アズナブルさん)ので、リブログ機能を使って考えていきたいと思います。

 


原理講論・総序には新しい真理の使命として
「宗教が探し求めてきた内的真理と
科学が探し求めてきた外的真理とを、
統一された一つの課題として解決し、
それによってすべての人々が、
内外両面の無知を完全に克服し、
内外両面の知に至ることができる」
とあります。

 

多くの食口達はこの文章によって
「宗教と科学が統一される」「統一原理は科学的なもの」と、信じていますが、
そもそも宗教の何たるか、科学の何たるかについてよく検証したわけでもなく、原理だからその通りなんだと信じているだけなんですね。

 

原理講論に書かれていることに、科学的な内容はほとんどありません。
書かれていることの多くは聖書に基づいた解説です。

 

もふれおさんは、ご自身の研究によって『無限理論』を立ち上げて、それが出来たといっておられます。
愛について、科学的に数式でもって表現出来た、整合性がとれたそうです。
彼は統一原理とスミノルフ学派(以降「S科学」)でもってそこに到達したと主張します。
S科学については、アカデミックに承認されたグループではありません。
アカデミックであるかないかは真理性についての判断材料にはなりません。
しかし、数式での表現は私には少々荷が重く、内容を検証する事はできません。
もふれおさんはS科学を勉強して、これは統一原理とつながる真理であると確信を持たれたそうです。

 

心の仕組みを通して、宗教と科学の間を自由に行き来できるという事です。
読んでいて面白いと思いました。
ただ宗教観が、私の持っているものと少しずれがあるので検証させていただきたいかと思います。

 

天国の作り方の題するからには「天国」がどんなところか提示する必要もありましょう。


まだ書いていなかったの?という感じですが…。


昔、統一教会では「地上天国」というのを目指していました。
それは万民が生きて神と父母の御心に沿って幸福に暮らすことができる世界というものでした。
残念ながら、今となっては見る影も無いようです。
ついでに言うならば、中心にあるものが何であれ、
万民が喜びに満ちて永続的に暮らす世界が出来上がるなら、
その中心に立つものを私は神と呼びたい。
どこかから持ち出してきて
これが神様なんだから、これが中心なんだと押し付けられるのは真っ平な話である。



聖書には
「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。
神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。
実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
ルカ福音書17:20~21)


聖書はややこしい。
神の国、天国、楽園、アブラハムの懐、千年王国…色んな表現があってそれぞれ解釈されている。
ただ、ここで表現されている人々の間にある神の国が、このブログで目指している天国にあたる。



とにかく、生きた肉体を持ったまま、暮らすことが出来る幸福な世界を築きたいのである。



桜葉のように臆病な人間は、
天国に入る資格を得るための競争に勝ち残る自信など無いし、
天国に入れたとしても、
何時そこから追い出されるのではないかとびくびくしていては幸福とは言えない。
だから天国とは、選ばれた一握りの人間にのみ許されるものであってはならない。
誰でもがそこに暮らすことができる世界でなくてはなない。
家族や、親しい人が苦しい生活をしていて、自分だけが天国にいたら
やはり心配で心安らぐことが無いのではなかろうか。
誰でもが、誰かの家族であるから、
やはり、一人残らず天国の幸福に浴さなければ完成しないのが天国なのである。


臆病者は桜葉一人に限らない。





幸福はどのように得られるのか、あるいはどのような状態を幸福と呼ぶのか?
再び統一教会から引用する。
これは、原理講論の冒頭の文章である。


「人間は、何人といえども、不幸を退けて幸福を追い求め、それを得ようともがいている。個人の些細な出来事から、歴史を左右する重大な問題に至るまで、すべては結局のところ、等しく、幸福になろうとする生の表現に他ならないのである。

 それでは、幸福は如何にしたら得られるのであろうか。人間は誰でも、自己の欲望が満たされるとき、幸福を感ずるのである。しかし欲望などといえば、ややもすると我々はその本意を取り違えがちである。というのは、その欲望が概して善よりは悪のほうに傾きやすい生活環境の中に、我々は生きているからである。しかしながら、我々をして不義を実らせるような欲望は、決して人間の本心から湧き出ずるものではない。人間の本心は、このような欲望が自分自身を不幸に陥れるものであるということをよく知っているので、悪に向かおうとする欲望を退け、善を指向する欲望に従って、本心の喜ぶ幸福を得ようと必死の努力を傾けているのである。」


四つ目の文までそのとおりであると共感できる。
しかし、五・六番目の文から二元論の展開を始め、欲望=悪という図式を立ててゆく。


「しかしながら、有史以来、
ひたすらにその本心のみに従って生きることのできた人間は一人もいなかった。」
と書きながら、
「しかし、悲しいかな、我々は、その究極において、
善と悪とがそもそも如何なるものなのかという問題を解くことができずにいるのである。」

と続くのである。


善悪が分からないのに善人はいないと言い切っているのです。
無責任極まりないが、この文章を書いた著者は弟子の一人として書いており、
原理講論というこの本自体、完全な真理を表すものではないことを記している。
特にこの冒頭部分は「総序」といって、著者の感情が多く書き出されているところで、
彼の「願い」について共感こそすれ非難するつもりは無い。
ただ、この本の取り扱いを誤ることで、却って多くの不幸をもたらしている現実がある。





「幸福は如何にしたら得られるのであろうか。
人間は誰でも、自己の欲望が満たされるとき、幸福を感ずるのである。」


これだけでいいのです。
シンプルにいきましょう。


そして、善悪の概念は用いず、幸、不幸で考えたいと思います。



心理学からの引用をしたいのでそちらの用語に置き換えます。
欲望は、欲求
幸・不幸は、快・不快


望はのぞみであり、のぞみはのぞむものなので、
のぞむ対象は遠くにあるもので近くのものはのぞみません。
人の欲は遠くのものもありますが、近くのものも沢山あります。
欲求という表現は、近くの欲と遠くの欲の両方をカバーします。

快・不快は瞬間的な状況を表しますが、
幸福は継続的な快であり、
不幸は継続的な不快です。


ちょっと刹那的になりますので、展望を加味しながら考察すべきでしょう。



人の欲求には成長的段階と必須度階層があります。
一個人の中にも必須度階層が同時に存在しますが、
複数人集まれば個性と成長的段階も加わって更に多様な欲求が存在します。
これらの欲求が互いに対立するように見えます。
すると、万民の幸福なんてありえないと感じられるのです。
「全部が満足なんてできるわけがない!」と、思えるのです。



だから天国を目指すためには欲求についてよく知る必要が在ります。



手元に「面白くてよくわかる!心理学入門」(立正大学教授・齊藤勇)
という本があるので、そこの欲求心理学の章から引くと
マァレーという心理学者の説で「一次的欲求」「二次的欲求」というのが紹介されている。
一時的欲求は生理的であり、二次的欲求は社会的なものと分類される。
生きるための欲求と、対人関係の中での欲求ということでしょう。
そしてこの2つに分類されない「内発的欲求」という分類があるらしい。
〈好奇欲求〉〈感性欲求〉〈操作欲求〉〈接触欲求〉ということだが、文字から想像してみてね。


次に欲求の分析としてもっとも有名なのがマズロー。
 ○生理的欲求
 ○安全の欲求
 ○愛と所属の欲求
 ○承認と尊敬の欲求
 ○自己実現欲求
 ○自己超越の欲求
先にかいてあるものが下位欲求で、後に行くほど上位欲求です。
下位欲求が満たされるごとに次の欲求を持つようになるという説。


次に先述の本には無いが、アドラー。
彼は「嫌われる覚悟」というので最近知られるようになってきたが、
これ以上に重要だと感じているのが「共同体感覚」である。
アドラーの場合、著作によって考えを表したのではなく、
多くの講演のなかでその説を展開した人なので、なかなかうまい資料が見つかりません。
共同体感覚と言うのは、自分が所属する集団の利益を望む感覚をさします。
打算的にではなく、集団の喜びを自分の喜びと感じる感覚です。
最初は「自分自身」→「家族・職場」→「地域全体」→「国全体」
→「現在の人類」→「未来の人類」→「地球環境」→「宇宙全体」
という具合です。


次に、これは心理学ではなくスピリチュアル系の本から
チョプラ「内なる神とつながる方法」より。
人は歴史的に、自分に善いことをしてくれる存在を「神」と呼んでいます。
この本では神の7つの段階として分析していますが、
7段階の神がそれぞれ対応する人間の願いがあるわけです。
それが「人生における挑戦」という言葉で表現されています。(挑戦=目標と考えられます)
 1・生き残り、守り、維持すること(生理的欲求に近い)
 2・最大の達成(個人の成しうる成果の達成)
 3・従事しながら手放している(外的成果に捕らわれることの無い平穏)
 4・二極性を越えること(一般の価値観を超越する)
 5・創造者と提携すること(望むがままに実現する)
 6・解放されること(悪存在からの解放)
 7・自分自身であること(もはや望むものも無い)
超越していますね。普通には2か3までしか理解できないと思います。
( )内は桜葉の注釈ですが、正しく的を射ていないかもしれません。


お釈迦様は欲求としては残しませんでしたが、「苦」について語っています。
「苦」から逃れることが欲求でありました。
以下は「初転法輪 苦聖諦」
「生・病・老・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦」
「生・病・老・死」は生命維持に関わる問題で、マァレーの言う一次的欲求が苦難にさらされる状況。
「愛別離苦・怨憎会苦」は対人関係の問題だから、マァレーでは二次的欲求の問題。
「求不得苦・五陰盛苦」は内発的欲求が満たされない状態にそれぞれ該当するでしょう。


お釈迦様とマァレーは、刹那的分析をし、
チョプラと、アドラーと、マズローは成長に着目した分析をしています。
マズローは刹那的分析に引きずられているところもありますが…。

このブログの最初に書いた成長段階の分析はチョプラやアドラーと通じている。
二年前の表も書き直さないといけないね。


次回は刹那的分析から考えて生きたいと思います。
成長は刹那の積み重ねによって成されます。
四位基台的分析方法をうまく取り入れられると善いのですが、どうなるか。





四位基台のポイント


1・合としての結果存在、或いは変化を生み出すには、
  原因としての二者が関わりあうことが必要である。


2-1・分かつ力は分かる(認識・離散化)力であり、創造に通じる。
   特に、陽陰を分かつ基準は任意であり、

   基準は個体にゆだねられている。


2-2・性形は、全ての存在が有するものであり、
   分かつ基準を原理的に示された内容であり、重要。


2-3・個体が有するエネルギーは性相的に存在する。
   究極的には振動・波動である。


3・創造の最初に全エネルギーが万有元力として被造世界に投入されている。
  これが「在って在る者」の所以であり、「全能者」と呼ばれる所以である。
  全てと言う根拠は、何物かを残すことによって創造者は有形となるが、
  有形であることは、「全知」性の喪失に繋がること、
  完全な投入でなければ、

  世界はとうの昔に捨て去られていたであろうことである。
  創造の最初の分割は、性と形の分割でなければならない。
  これは見る主体と見られる対象である。

  最初の分割では、存在は二者でしかない。
  主体は対象を見て分割していったのであるから、

  どこまでいっても主体からは対象は唯一存在でしかない。
  人間存在が、その全体像を認識しているか否かは別な問題となる。




特に2は御言葉解明の鍵となる。
存在は他と分かたれたものであるが、
陽陰を分かつ基準が任意であるので、
その名前で呼ばれるときにはその名前の他者が暗に存在している。


男と呼べば、女の存在が前提とされ、
日本人と呼べば、それ以外の国の人が存在することを前提とする。
教会長と呼べば、教会と教会員の存在が暗示されている。
語られる言葉には、分かつ基準が表されていないことが多いが、
一つの名称の陽陰性形を意識して考えるといろいろなことが見えてくる。


例えば、天使といえば霊界の存在である。
「天使長」とは、ルーシェル・サタンという個体を指すとは限らず、
霊的存在全般を指す可能性がある。
あるいは、天使とは主管されるべき存在であるので、伝道対象者を指すこともできる。
文脈の中でそれを見出さなければならない。
分かつ基準は文脈の中に示されていることが多い。
(別なところで語られた基準を引き継いでいることも無いとは言えない。)
物語の比喩を解くときには、この観点が重要である。



意識世界は、常に物理的世界の影響を受けながら存在しています。
それゆえに、意識や心は脳の副産物であるという考え方が横行し、
脳が心を作る仕組みとしての研究が流行しています。


果たしてそうでしょうか?


実際に、無意識存在と有意識存在の関係を考察すると
明らかに有意識存在が無意識存在に与える影響の方が能動的なのです。


意識を生産することができる無意識存在は能力が優れているから、
結果としてそのようになるのでしょうか?
そうであるならば、人は何故自殺などという行為を行えるのでしょう?
自身の意識によって、自身の肉体をコントロールし、その肉体を滅ぼすのです。


意識的存在は無意識存在から影響を受けるというよりも無意識存在を吸収します。
これは肉体外の環境ばかりか、体内環境からの影響も吸収します。
環境の暑い寒いだけでなく、体調の不良快調は心持の良し悪しに大きく影響します。
何も脳内物質の影響ばかりではありません。


無意識存在から吸収した内容を、発生順に従って記録しているのが記憶です。
意識は記憶にある情報に基いて意志決定をしていますが、
この記憶が脳内にどのようなシステムで記録されているかは解明されていません。
果たして本当に脳内に物理的に記録することが可能なのでしょうか?
その情報量は膨大です。


人の記憶が物理的脳のシステムにのみ依存するもので無いとしたら、
人間は、肉体の死後もその記憶に寄添って意識を働かせることが可能になります。
これが幽霊と呼ばれる存在にあたるでしょう。

意識を持たない存在は物理法則に則らない限り自己を破壊することはありません。
無意識存在が自然に崩壊する例は、環境に対する不適合です。
エントロピー増大則に当て嵌めることができるでしょう。
このエントロピー増大則の外に置かれるのが意識的存在と解放系・複雑系です。


意識的存在が自死を選ぶのは、精神的環境に対する不適合は考えられます。
これは自身の周りにある意識的存在からの影響です。
物理的環境に対する不適合には抗う姿勢を示すのが一般的です。
だからこそ人類は地球上、暑い所、寒い所、乾燥した所といたるところに住い、
地球外にまで出て行こうとするのです。
意識的存在は他者の意識からの影響をより大きく受けとります。




結局は、「我思う故に我あり」ということになります。



デカルトは、世界を精神(意識)と物理世界(広がりを持つもの)とに分けましたが、
上記の言葉の通り、彼も精神の方に優位性を感じていたように思えます。
しかし、彼が生きた時代は自然科学の黎明期でしたので、
明確に定義することができないあいまいとも見える精神世界を研究するよりも、
客観的確実な観察が可能な広がりを持つ世界への関心が強くなったわけです。


しかしこのあいまいさにこそ自由の可能性が秘められています。
魂の自由というものです。
物理世界を基準とする人間社会の中でいくら自由の権利を主張したとしても
そこには限界があり、全ての人が物理的に自由を叶えることはできません。


人の意志は物理世界に自由に夢を描き、実現しようと試みます。
ただし、それを実現できるか否かは、
描いた夢の精度と
実現へ向けたステップを正しく踏むことができるか否かによって変わります。
そこには幾つもの四位基台を造成して到達しなければなりません。
夢の内容に応じてその複雑度も違ってきます。