逢坂冬馬さんの『歌われなかった海賊へ』を読んだ。
前作の『同志少女よ、敵を撃て』が刺さったことと、舞台が興味を持っているドイツだったことから手に取った。
ドイツ人の少年少女の目線から見る第二次世界大戦は新鮮で、考えさせられることが多く、とても面白かったし読んで良かったと思った。
導入部の舞台は現代のドイツ。
「郷土史」というテーマで高校生たちはレポートを書く。レポートの質が年々落ちていることから、教師のホルンガッハーは、もう潮時なのではないかと考える。
しかし、生徒のうちの一人、トルコ系で孤立しているデミレルのレポートの中に、気になる記述を見つける。
祖母のアマーリエ・ホルンガッハーが生涯繰り返し名前を出して危険な人物だと忠告したフランツ・アランベルガーの名前があったのだ。
近所でも変わり者として知られる老人にホルンガッハーは会いに行く。そして、アランベルガーが書き記した、1944年のこの街と少年少女の記録を渡される。
本編は1944年、終戦間際のドイツ。アランベルガーが書いた小説という体で話が進む。
主人公のヴェルナーは、父を密告されて失った。ヒトラーユーゲントも脱退させられたヴェルナーは独りで暮らしていた。
密告したカール・ホフマンを刺し殺そうとするが、エルフリーデという少女に止められる。エルフリーデに連れられて出会ったのがレオンハルト。
二人はナチスに反抗する「エーデルヴァイス海賊団」だと言う。
自暴自棄になっていたヴェルナーを、ラインハルトは「正しい殴り方を教えてやる」と海賊団へ誘う。
ヴェルナーたちの村は、新たな線路の敷設で賑わっていた。しかし、線路の先に何があるのかは誰も口にしない。
爆弾に熱意を傾けるドクトルを仲間に加え、4人は線路の先にあるものを確かめに行く。
そこで目にしたものは、ナチスの収容所だった。辺りの異臭は、人が焼ける匂いだった。途中で通っていった貨物列車だと思った電車は、人を乗せていた。
隣町に収容所があり、多くの人が運ばれ、殺されている。「見てしまった」子どもたちは目を背けない。
線路を爆破し、収容所へ来る列車の足止めをすることを決意する。
という物語だ。
私はこの話を読んで、他人の虚像を作って理解した気になることへの警鐘、無関心の恐ろしさ、文化で人は繋がり得ることへの希望を感じた。
ひとつずつ言葉にして纏めていけたらと思う。
1.他人の虚像を作って理解した気になる
この作品には、様々な子どもたちが登場する。同性愛者、ジプシーの子ども、金持ちの子ども、当時のドイツで理想とされる家の子ども、孤児など。
それぞれ抱える悩みも、考えも、目指すものも異なる。
当時のドイツは、全てを単色で塗り潰そうとしていた。金髪碧眼で異性愛者のアーリア人だけが正しいものとされた。
そして性別、家柄、民族など、様々な属性に人を当てはめ、単純化して理解した気になる。女性だから、ジプシーだから、孤児だから、同性愛者だからと人格が決めつけられる。その人がどんな思いを持っているかは気にせずに。
その価値観に子どもたちは反抗する。バラバラなままで、理解できないままでもお互いを尊重し、共にあることができると。
「私たちは、ドイツを単色のペンキで塗りつぶそうとする連中にそれをさせない。黒も、赤も、紫も、黄色も、もちろんピンクの色もぶちまける。私たちは、単色を成立させない、色とりどりの汚れだよ。あいつらが若者に均質な理想像を押しつけるなら、私たちがそこにいることで、そしてそれが組織として成立していること、ただそのことによってあいつらの理想像を阻止することができるんだ。私たちは、バラバラでいることを目指して集団でいる。だから内部が単色になることもなければ、なってはいけないし、調和する必要もないんだ」(p.149)
ヴェルナーは、父を密告したカール・ホフマンを殺そうとしていた。エルフリーデは、その理由を分からないと言った。ヴェルナーがエルフリーデに好感を持ったのは、エルフリーデが自分を分かってくれたからではない。分からないままにしておいてくれたからだ。(p.161)
人が受け取ることのできる他人のあり方などほんの断片であり、一個人の持つ複雑な内面の全てを推し量ることなど決してできない。
しかしそれができないと分かっていながら、人は、自分が受け取った他人の、断片化された一面をかき集め、空白を想像で埋め、矛盾のなさそうな「その人らしきもの」の像を組み立てる。そして自らの作り上げた虚像を眺めることで、他人を理解したつもりになる。(p.362)
私たちは今もみんな様々だ。どれだけ仲が良い友達でも、パートナーでも、家族でも、わからないことなんて山ほどある。
それでもしばしば、私たちは性別や大学などの属性で決めつけられて理解されてしまうし、相手の気持ちを勝手に想像してしまう。
理解できないものは恐ろしい。
それでも、理解できないものを、理解できるように都合の悪い部分からは目を背けて、フレームに当てはめて、わかった気になることのほうが恐ろしい。
自分が作った物語の中を生きていることに自覚的になって、理解できなくても尊重していく生き方が出来たらいいと思った。
2.無関心
エーデルヴァイス海賊団の子どもたちが収容所のことを大人たちに訴えるシーンがある。線路の先に収容所があり、その先で人が殺されていると。
しかし、周りの大人は酷く無関心で、彼らの声に耳を傾けない。本当はみな気づいていながら、見ないことに、向き合わないことにしている。
なぜなら、認識してしまった瞬間に、自分が虐殺に加担していることになるからだ。
映画『関心領域』で収容所の隣の家に住む家族を観た時にも思ったが、人の「見たくないものを見ないことにする能力」は恐ろしい。人は思っているよりも容易く現実を書き換え、見たいように世界を見てしまうのだ。
「あの場所に行くまでの俺たちがそうだったように、この村も、隣町も、市街地の人も、皆うすうす気付いてるんだよ。あそこに強制収容所があるんだと。そこで人が殺されていることも。素人の俺たちがハイキングで見破った場所だもの。でも、だからこそ気付くことを恐れている。ビラを見ても、その内容を信じないために全ての努力を惜しまない、ビラを見ればそれが本当かと尋ねる誰かはいるかもしれないけど、その人は他の誰かに嘘だと言われて、喜んで騙されるよ」(p.203)
この時代の大人たちをただ批判するのは酷だと感じる。
周りの全ての人が密告者になる可能性がある社会で、関心を持つことは処刑されることと直結していた。誰かの機嫌を損ねたら明日には生きていないかもしれない。生きるための無関心だったのだと思う。
だからといって、無関心の罪が許されるわけではない。
人間はここまで残酷になれること、こんな社会が作られてしまう可能性があることを忘れないでいたい。なってしまってから勇気を出して止めるなどということは不可能だと思う。
3.文化で人は繋がり得る
エルフリーデが歌を歌うシーンが何度もある。
エルフリーデの歌は違う村のエーデルヴァイス海賊団(国内の様々な場所で、エーデルヴァイス海賊団の名前で同じような活動をする集団が存在したそう)やドイツ女子同盟の子どもたちにも共有され、彼らの心を動かした。
辿ってきた境遇が全く違くても、同じ歌で感動し、心の繋がりを感じることができる。
歌でなくても、同じことは日々起こっていると思う。
景色を見るとき、建築物を訪れるとき、音楽を聞くとき、絵を、舞台を、映画を見るとき、本を読むときなど。生きてきた場所や経験、人種、信仰している宗教、言語、性別、年齢、全然違う人と同じものを見て感動する場面はたくさんある。そうして接点のない他人との繋がりを感じる。
私はそれが文化や芸術の持つ力なんだろうと思う。
よく文化は無駄だったり贅沢なものだと言われがちだけど、平和を作るものは文化や芸術じゃないかと思う。
私はこの本を読んで、この作品はきっと平和に繋がると感じた。
感銘を受けた箇所が多すぎて、上手く纏めるのが難しい。
今読むべきテーマだと感じたし、この重いテーマをここまで伝えやすい形にデフォルメしているところに驚いた。この内容を広く人に届けられるのは物凄い才能だと思う。
物語は良くも悪くも大きな力を持っている。こういう本を作る仕事に関わりたいと思った。
次の作品も楽しみだ。どこが舞台になるんだろう。
この本を読んですぐに大漠波新さんの「のだ」を知った。
「どんな僕、私だって愛してほしい」「本当は君の色ってないんでしょう」「誰かの期待には目を瞑ろうか」あたりに親和性を感じて、凄い偶然があるなと思った。合わせてお勧めです。