軍艦島25 改めてご紹介。魅力を求め~ | 郷土を愛そう!散策しよう♪ウォーキングブログ

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〔2012年4月22月の記事リニューアル再アップ〕

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「あれから数十年!この端島は荒れるにまかせ朽ち果てていたこの島はもう再びよみがえることはない」
端島(通称軍艦島)の66号棟鉱員合宿(啓明寮)に書かれた有名な落書き文。



1974年に端島炭鉱の正式閉山。以降島民が順次離島し、1975年には完全無人になる。

軍艦島・・・・正式には長崎県西彼杵郡高島町の沖に浮かぶ半人工島「端島」の俗称。

南北480メートル、東西160メートル、周囲1.2キロメートルのこの島、元は岩礁。



1810年に石炭が発見され、1890年に三菱の所有となり本格的な採掘が始まる。炭鉱の廃土による周囲の埋め立てが進み、現在の形となる。

その島の姿が、大正時代の戦艦土佐ににていることから、軍艦島と呼ばれるようになった。

ここで採掘される石炭は良質で、主に九州の八幡製鉄所に送られた。

人口は明治期に既に2000人。1959年には5259人に達す。
当時の世界世界最高の人口密度となる。
その為高層アパートの建設が進む。
大正5年に日本初の鉄筋コンクリート造アパートが建設される。そこから高層アパートが次々作られる。



(↑国内最古のアパート。始めは4階建て。後から増築して7階建て。長屋を積み上げたような作り。釜戸と土間が各部屋にある。)

共同風呂共同便所。プライバシーも存在しない。住民同士は助け合って住んでいた。




↑手前左端島小中学校 
奥・65号棟(報国寮)島内最大の建物で、戦時中に建設された。コの字型のアパート。

戦時中は迷彩色に塗られた。エレベータシャフト付きだが最後までエレベーターは付かなかった。


 
↑乱立する高層アパート群 

1938年に海底電話が開通し、1957年には日本初海底水道ができた。
国内初の屋上庭園もある。

また学校、病院、映画館、商店、お寺、神社などあらゆる生活に必要なものがひしめいていた。

またテレビ、冷蔵庫、洗濯機の普及も早く、島の中心地にあった青空市場は相当な賑わいをみせた。


 
 
 
最大の魅力は、島内に残された遺留物の多さ。
風化の少ない所は畳みも残っている。昭和にタイムスリップした感じだ。
ステレオ、雑誌、子供のおもちゃも、新聞もたくさん点在していた。


 
↑51号棟。島内の防潮棟の一つ。二重窓構造。

高波を防いでいた。

まだまだ紹介したい事はたくさんありますが、過去ブログを参考にして下さい。
参)テーマ:軍艦島

現在は九州・山口の近代産業遺産群の一つとして、世界遺産暫定リストに登録されている。
追記…(2015年に世界遺産登録)


また長崎港より軍艦島に上陸できる、軍艦島クルーズがあります。(伊王島からもあり!)

一度は言ってみよう。昭和を感じるこの島へ!!
日本人の象徴の島。



軍艦島へ

参考書:ワンダージャパン3 三才ブック
:小林伸一郎 NO MAN‘S LAND軍艦島 講談社:軍艦島全景 オープロジェクト


軍艦島26