Trichophilia

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掃き溜め

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所謂、箱入り娘と云うものでした。

別段、お金のある家だとか、そういうものでは無かったのだけれど、長い間子供を授からなかった両親にとって私は正に子宝であったのです。諦めかけていた子供が、それも珠のような女の子が生まれたと父と母は諸手を挙げて喜び、私を蝶よ花よとそれはそれは大切に、壊れてしまわぬよう慈しんで育ててくれました。

そのせい、と言っては厭らしい話ですが、私は世間と云うものを知りませんでした。いやはや、無知を露呈するとはお恥ずかしい行為ですが、確かに私は世間を知らずぬくぬくと育った小娘であったのです。

 

更に両親の過保護に拍車をかけてしまったのが、私の体の虚弱さでした。

高齢出産の影響か、気管支をはじめ体の器官の至る所が弱い私はこほこほと、年中のように不愉快な息を吐くのです。

咳が出る度、人様への不快感を少しでも拭おうと、袖口を口へ当てがいます。いつしかそれは癖となり、私は何でもない時にも口を袖で隠すようになりました。品の良いお嬢さんね、なんて言う方もいましたが、誰かと話している最中に口を覆うなど、まるで真実に蓋をしているようで居心地の悪いものでした。

けれど、長年染み付いたその癖は終ぞ直ることはありませんでした。ふふ、それはきっと、あの人のせいでもあるんです。だからこれは少しだけ、私なりの惚気です。

許してくださいね。

だって、お父さんとお母さんには悪いけれど、昔から体が弱く殆どを家の中で生きてきた私にとって、たった1年と少ししか一緒に過ごしていない庵さんが、彼だけが私の世界なんですもの。

 

ごめんなさいね、前置きが長くなってしましました。

これから少しだけ、私、小日向塔子が八重樫塔子として生きた時間を、私の人生のすべてを、聞いてください。

 

世間知らずの私でしたが、体調の良い日には外へ出かけ、書店に行くのが好きでした。何せ時間だけは有り余っていたものですから、たまに出かけては両親が薦めてくれた本や、気になった本を買い漁り、心行くまで読み込むのです。それこそ、暗記できるくらいにね。

さて、これもまた悪癖だったのですが、知らない作家先生の聞いたことのない作品でも、少し興味が沸けば内容も気にせず買ってしまうんです。その日たまたま目に入って買ったのは、綺麗な表紙の”八重”という方の、官能小説というものでした。

そもそも両親に薦められるままに、純文学や古典文学を読み漁っていた私にとって、それはひどい衝撃だったのです。

男女の睦み事を、情念を、苛烈なまでの愛と云う感情を、これほど生々しく、それでいて尊いものを書けるだなんて。

いやらしい話の書いてある本だとは分かってはいたのですが、それ以上に私はその作家先生の書く文章というものに、嗚呼、そうですね、恋をしたのです。顔も見えぬ、男とも女とも、若者か老人かも全く分からない人の表現したその文字のひとつひとつに、夢中になったのです。

そこからはもう、書店へ行く度に八重先生の作品を探して、新作が出ると聞けばその日の内に買いに行きたくって両親に心配をかけて。

とっても楽しい日々でした。

 

今思い返しても、私たちの出会いは世間一般で言えば最悪の部類なのでしょう。そういえば、あの人もそう言って笑っていた気がします。

だって、まさか書店の奥の官能小説の棚を熱心に漁る女に、どうしてその作家本人が求婚するだなんて誰が思うでしょう。思いませんとも。私だって、心臓が止まると思ったんですよ。

あの日は確か、そうです。八重先生の新刊の発売日だったんです。丁度その日に体調が良いというのはとても幸運な事なので、浮かれていたのです。そうでないと、あんな場所で男性と鉢遭うだなんてそんな失敗しませんもの。でも、いいえ、きっとあれは成功だったのね。おかげで庵さんと出会えたんですから。

予想外の出会いに、官能本を抱き締めてその場に立ち竦んで何も言えない私に、彼は口角をにやりと釣り上げて言いました。

「君はそういう本に興味があるのですか?」って。

馬鹿にされていると思いました。女が”そういう”本を真剣に買い込んでいるんですから、それはもう、自分でも自覚はしていました。世間の女の子達は慎ましやかで、心ときめくような純愛小説なんかを読むんです。そういうもので欲求が満たせてしまうのです。

嗚呼、見知らぬ男性にふしだらな女だと思われてしまっただろうか。

そんな気分で黙り込んでどう言い訳をしようか床を見つめ脳味噌を働かせていると、その男性は続けて言いました。

「それ、私が書いたんです。どうですか。女性の読者は貴重なので率直な感想を聞きたいのです。私の本を読んで、性的欲求は沸きますか。」

「わ、沸きません…ただ、ただ私は、あなたの、八重先生の書く文章が好きなのです。それはもう、漫画本を待ち望むこどものような気持ちで…新刊を…その…済みません。」

「変な人だ、どうして謝るんですか。しかし文章が好きだなんて作家冥利に尽きますが、官能小説家としては失格ですね。読者に興奮を与えられないだなんて。」

彼は下がり気味の、若草色の眉を寄せて残念そうにそう言うもので、何だか変わった方だと、失礼にも私は口元を緩ませていたのです。当時は私の緊張を解す為だと思っていたのですが、どうやら庵さん、やっぱり変な人でした。

「しかし貴女、矢張り女性がこういうのを読むというのは奇特なものですよ。さては嫁の貰い手が無いですね。」

「失礼な………ありませんけれど。」

「はは、ならばどうです。私が貰ってあげましょうか。」

吃驚でしょう。初対面で、こんなくだらないやりとりひとつで、私あの人のお嫁さんになったんです。冗談だと思っていましたとも。それでも良いと、是と返せば数日後には苗字が変わっていたんです。夢だと思いました。

夢のように幸せでした。