たくさんの記事の中から見つけていただき、ありがとうございます。
「バブル時代の商社OL」の物語をいくつか書いてきましたが、
実はその原点には、家族と共に病気と闘った日々があります。
幼少期、大学時代——。
私の人生の「選択」や「価値観」は、あの頃に形づくられました。
⸻
【幼少期の闘病生活】
私は5歳から10歳まで大病を患い、長い入院生活を送っていました。
その間、母も看病疲れで入院し、祖母も腎臓癌で亡くなってしまいました。
家族中が私の看病で大変だったことは、こちらの記事に書いています。
お読みいただけると嬉しいです。
【奇跡的な回復から大学合格へ】
自己免疫疾患「リュウマチ性紫斑病」。
退院時にお医者様から
「この子は17歳ぐらいまでしか生きられないかもしれない」
そう言われた両親は、私の体力を回復させようと必死でした。
食事療法、体操教室、そして費用の工面。
両親は懸命に私を支え、私はその期待に応えるように、
勉強もスポーツも一生懸命頑張りました。
【上京、そして自由の喜び】
10歳まで入退院を繰り返していた私が大学に合格。そして上京。
東京での新生活が始まりました。
当時はSNSも携帯もなく、親との連絡は「留守録機能なしの電話」だけ。
今思えば、どうやって友達と遊ぶ約束をしていたのか不思議です(笑)
それでも、春からの大学生活は輝いていました。
4月、5月、6月と、受験勉強から解放され、
新しい友達と出会い、笑って過ごす毎日。
まさに「青春」そのものでした。
【父が脳梗塞で倒れる】
そんなある日、母から一本の電話が。
「お父さんが脳梗塞で倒れて入院したの。」
私はすぐに新幹線に飛び乗りました。
どうやって帰ったかも覚えていません。
5〜6時間かけて病院に駆けつけた時、
髪を剃り、ツルツル頭になった父が手術室へ運ばれていくところでした。
「お父さん!お父さん!」と叫ぶと、
父はかすかに目を開けて「帰って来たんか。大丈夫や…」と答えました。
私はその手を握り、「頑張って、お父さん!」と声をかけながら
手術室の前まで小走りで付いていきました。
【リハビリと母の看病】
幸い一命を取り留めたものの、父は右半身が麻痺した状態に。
右手も右足も動かず、お箸も持てません。
それでもお医者様の言葉を信じ、温泉付きのリハビリ施設へ入院しました。
母の看病が再び始まります。
幼少期の私の看病だけでも大変だったのに、
今度は夫の介護。
でも、一番辛いのは父でした。
父は自分の体を嘆き、
私の学費の不安も重なって、食事が喉を通らなくなったそうです。
そんな父に、母は毎日こう声をかけていました。
「あなたが泣いてどうするの?
リハビリして良くなって、必ず仕事に戻って、
子どもを大学まで出してあげよう。
大丈夫。私が支えるから。」
けれど、夜になると母も泣いていたそうです。
「これからどうしよう…」と。
それでも朝になれば、笑顔で父を励まし続けました。
【家族の再生】
父は1年半のリハビリを経て、なんと職場復帰しました。
右半身は不自由なままでも、
会社は父のために「パソコンと電話でできる監査業務」の環境を整えてくれました。
母は毎朝、ワイシャツを着せ、スーツを整え、会社まで送迎。
夫婦二人三脚で、再び日常を取り戻していきました。
⸻
【今の私が思うこと】
当時の私はまだ若く、両親の苦労を深く理解していませんでした。
でも、仕事も子育ても経験した今になって思うのです。
「自分はまだまだ甘いな」と。
父は45歳で倒れ、60歳まで勤め上げ、77歳で亡くなるまで
約30年間、右半分が不自由なまま生き抜きました。
そして母は、父を、家族を支え続けました。
大人になって色々経験し、またその経験を書くことで、
改めて両親への感謝があふれてきます。
生きていくって、本当にすごい。
通勤時に右側が不自由な方を見かけることがあります。
「父と同じ病気をされたんだな」と、すぐ気づきます。
その方とすれ違う時、私は
「頑張って、頑張って」と必ず10回、心の中で唱えるようにしています。
不自由なままでも、父がずっと働いてくれたおかげで今の私があります。
父にはもちろん、病気を抱えて頑張っている方にその気持ちを伝えたくて、大きな声で「頑張って」と叫んでいます。
⸻
【次回予告】
次回は、
働き者の母の隠れた才能「家計簿と財テク」
そして、私の大学生活について書かせていただきます。
ここまで読んでくださって、
本当にありがとうございました🌸
#闘病
#脳梗塞
#商社OL






