のお誕生日に、Man Ray展へ行ったよ♪
記念のポストカード、頂いちゃった~(喜) でも、ピカソだった~(悲)
彼に関しては、高校時代にコクトーのポートレートを見て、すてきだなあ…と思ったのと、レイヨグラフやっぱり面白いわ、とかくらい。写真集も持っていない…
相変わらず無知ゆえ、以下に軽くまとめを。
プリントが小さいとお嘆きの向きも多い、今回の展示。
でもこれはご所蔵組織の都合上、かな。
Man Ray Trust は彼のアトリエにあった資料、身の回りのお品が母体となった所蔵品構成。(相続税物納)
なので、今回のお品は、彼が好きで手元に置いた作品もあるけれど、未完というかプライヴェートというか、カジュアルというか、そういう風情を強く持つ、という特徴が。
従って今回の展示は一般的なMan Ray展よりも、作家個人に近づくことのできる内容であり、それを活かすために時代に沿ったスタイルで展示がなされている。展示では螺旋などの繰り返し登場するモチーフについてふれ、単なる年代順の展示を補うようにしている。
作品番号:16(“セルフ・ポートレート“) 画像は
http://www.getty.edu/art/gettyguide/artObjectDetails?artobj=61252
より
こちらは元は油彩。上部の円形2つは、本物のベルを貼り付け、下部にはスイッチをつけたもの。
で、スイッチとベルは実はつながっていない…アングルのバイオリンちっくな部分もあわせ、画面から音のイメージを浮かび上がらせている。
面白いのは真ん中の手形。
手形はサインであり、分身でもある。そして”main”が、サウンド的?に”man”と響きあう。音による自己像。
彼の夢日記である“自由な手”(137)も、分身としての自己?
38(“セルフ・ポートレート”) 画像は
http://www.nact.jp/exhibition_special/2010/manray/index.html
より。
ポスターにもなっている作品。解説でもふれられているけれど、、折れ目が見え、一見古い写真に見える。けれども実はネガ(ガラス)が割れたものをそのまま使用。(ひびの入っていないヴァージョンも存在)
デュシャンを思い起こさせるダダイストとしての作品。
275(“フェルー街”) 画像は
http://www.man-ray.com/interview/ai04.html
より。
リュクサンブール近くのフェルー街。荷車に乗ったブツは磯崎新氏がご指摘のように(こちら
)、“イジドール・デュカスの謎”ちっく。
つまり、荷車を引くのはMan Ray自身?
と、彼が自己をさまざまなスタイルで描いたことが分かる。
今回は彼の映画作品も3本上映されていたけれど、みんなどうして黙ってみていられるんだろう?
あんなに彼のオブジェ愛が炸裂してるんだから、もっとほがらかに笑おうよ~
“水中のイブ”とか。男性のカラーがくるくる回転するところなんて笑いながら、このどこが“理性への回帰”なの?って、つっこみたかったなあ。
でも、コクトーやゴダール作品に通じるものもあって、参考になった作品ではあります…
みなさんがくつくつ笑っていたのは、彼の最後の妻、ジュリエットのインタビュー映像。
何に笑っていたかは、後で書くけれど、それより私が怖いなあと思ったのは、枕元にこの作品↓がかけられていたこと。
162(“天文台の時”) 画像は
http://www.man-ray.com/index.html
より。
有名なことではあるけれど、この作品はリー・ミラーに去られてから2年くらい?後に彼女の唇を描いたもの。後にアクセサリーなどにもこのモチーフを使い続けた。(しつこいね…)
この作品を枕元に置き続けた、マン・レイ&ジュリエット夫妻。
それはつまり、リー・ミラーが亡霊のように支配するカップルだということを暗示しているのではないかしら、と。
(たしかに、リー・ミラー>>>>>>>>>>>>>>ジュリエットだと思う、個人的には。それでも。)
マン・レイは後に“覗き見”をテーマとして作品を制作していったけれど、その理由が、単に写真家がレンズを通して被写体を覗く、というだけではなさそうだ、と、何となく思ってしまったり。
この夫妻は、もしかすると見られること、つまり、視線に支えられることでしか成立しない関係ではないかしらん、と。カメラマンとモデルとの関係から成立したカップルとしては、ふさわしい?ありかたかも、と思いつつ、ジュリエットがインタビューの間、何種類かのサングラスをかけたり外したりするところを、そのグラス趣味?のへんてこさ?に笑う人たちの中で、笑えないなあ…と思いつつ、わたくしは会場を後にしたのでした。ちゃんちゃん。
追記(27/09/10):
遅くなりましたが、なぜMan Rayの写真集を持っていないのか、につきまして。
たとえば「破壊されるべきオブジェ」が、自分の元を去ったリー・ミラーの写真から目を切り抜いて…という経緯で制作されていることなどが、高校生の私にはきつかったためです。
たとえ一時期であれ、好きになっておつきあいし、革新的な作品を制作した大切なパートナーを…という。で、それが代表作のひとつになって、高額で取引されている事への反発もありました。
彼自身がどう思って制作したかを私は恥ずかしながら存じませんが、(好きになった人であれ、そうでない場合であれ)相手のことをボロクソ?にすることで、自分があがれる、OKだ、という精神構造は、しばしば見られることで、それは某誹謗中傷サイトの住人たちのそれと、さして変わらないんじゃないかなあ…と、個人的には思います。
高校時代から好きなのは、ケルテス。@モンドリアン邸や@マルティニークのものなどが。こちらは大型の写真集を、出版後速攻で購入。
ディストーションも、モデルの裸形をダイレクトに撮影することに恥ずかしさを覚えたためであるところにも、一種の育ちの良さを感じます。
西脇順三郎がやはり、モデルに相対することが恥ずかしく、画業へと進めなかったことなども思いあわされます。 ではこのへんで~♪




