夕刊「らいふ」面に毎日掲載のエッセイ、
「プロムナード」はいつも面白い。


本日8月18日の佐々木敦さんの『二つの
「春の庭」』、ずきゅんときた。


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・・・記憶では世紀をまたいだあたりから、

この国の季節感は刻々とおかしくなってきた。

夏は記録的猛暑と時期外れの台風、冬は

極寒と時期外れの大雪。、春と秋はもう

ほとんど存在していないかのようだ。冬から

夏、夏から冬の変わり目は、やたらと暑い日と

むやみと寒い日が毎日のようにガチャガチャと

入れ替わって、やっとどちらかに落ち着く、と

いう感じ。昔のような緩やかな変化、グラデーション

がなくなってしまった。・・・

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芥川賞に決まった柴崎友香の小説、『春の庭』

という題名は、実際に存在していない架空の

20年以上前に出版されたという、写真集の題名。


物語の中で描かれる現在の描写は、「まだ

五月だが、真夏のような雲だった。」ということで、

写真集の中の「春」と現在の「春」が言葉は同じ

でも、内容の異なる季節であるということを

表しているのだ、というようなことで、エッセイは

終わっています。

自分たちも時々感じ、周囲の人と交わす言葉、

「この頃本当に、夏と冬しかないみたいだね~」

ということを、実にうまく書いてある~と感嘆。
そして、怖くなった。

==アメリカでは日本よりずっとたくさんの国旗を

みかける。10年前の924日、ニューヨークの

繁華街でそれまで半旗だった星条旗が再び高く掲げ

られた。同時多発テロの13日後である。==



それに対して、東日本大震災後、国会や各省庁など

多くの公共機関がずっと日の丸の半旗を掲げることを

ひいて、日経新聞一面の帯コラム「春秋」は、もう

いいんじゃないか、と提案する。



==弔意は大事だ。同時に、被災者にもそうでない人

にも、復興という名の難事が待っている。==



というわけで、「再出発の決意を高く翻る旗」を掲げよ

と論じているのだけれど、論旨のまとめ方がすごい。



==城山三郎に「旗」という詩がある。「旗振るな/

旗振らすな/旗伏せよ/旗たため……/生きるには/

旗要らず」。一人ひとりの命がいとも簡単に旗の下に

束ねられた戦争を知る世代の、痛切な思いがこもる。

それでも今は一人ひとりのため国旗を高く掲げたい、

半旗でなく。そう言ったら城山に叱られるだろうか。

201146日・水 日経新聞朝刊 一面「春秋」)



叱られずにすむものか。







==わたしは戦争には反対だが、学徒と農民を

差別することにはもっと反対である。


徴兵猶予なんて、だれが考え出したのだろう。==


安野光雅さんの「私の履歴書」14回は、初恋の君に

ついてがメインの話で、そのせいか、とっても意味が

わかりにくいんだけど、そこに戦争という時代背景が

ぴったり貼りついているので、よけいに何が何だか

わからない。


最初に引用した二文の後ろに、「この公憤としての怒りの

背後に」私憤、初恋の君の影を感じる人があったら、

凄い、と書いてこの日の文章は終わっているんだけど、

うーん???


てまあ、それも気になるけど、私は、最初に出した二つの

文に引っかかってしまった。


戦争に反対、そして、学徒と農民を差別することには

もっと反対。


ようわかる。


まっとうな、でも、それは支配される側の庶民の感覚。


徴兵猶予を考え出したのは、国を動かしていこうとしている

人、国の未来に責任を負っていると自ら自認し、周囲に

よってもそう公認されている人々じゃん。いうまでもなく。


彼らの目には、農民は「コマ」。いくらでも替わりはいる。


それに比べて、当時3%だったという大学生は、「貴重品」。

死なしたら、勿体ない。


「貴重品」を使いこなしてこその、「トップ」。


「トップ」が治めて、「貴重品」がその指示に従い要所要所で

指令を出す、それを、無数の代替可能の「コマ」が支える。


地を這うように。血を吐く思いもなめながら。


で、そういう風に為政者はするわけだ。


為政者「トップ」というものは、そういうもの。


だけど、「コマ」には「数」がある。「数」のちからを活かせば、

数の少ない「トップ」や、その配下・影響下にある「貴重品」

には勝ち目がない。


「コマ」には、「コマ」の闘い方がある。


地を這うように、血を吐く思いで、生きてきたことを、もし意識して、

自らの力をコントロールできるなら、これに向かう相手に勝ち目は

ない。


或いは、敵対するのではなく、「コマ」にもいのちがあること、

そのいのちのすばらしさを見せつけることができるなら、


「コマ」こそ、国のたから、本当の国のちからなのだと、「トップ」

も考え、無数の「コマ」の一つ一つを大切に活かせるような国づくり、

すなわち戦争からは最も遠い平和の国を作ろうと思うのではない

でしょうか。


私の場合、好みは、後者だな。


非暴力で一番低いところから、しあわせなムラ、しあわせなくにを

つくっていきたい。


とまあ、そういうことを考えているわけ。


で、今日読んで、やっぱりこれでは、甘い、と思ってしまう。


書くひとならば、本当は、もう一歩踏み出さないといけない

んじゃないのかなぁ。


ここは「言外の意味」ですませていいところじゃないでしょう? 


そんなに、怖い? 


というわけでもないよーな気がするから、じりじり~。


ロマンチック、にしてる場合じゃないでしょう???



男だもんね、しかたないのか。


「いい人」で終わり、というのは、あまりにもったいないと思うんだけど。


(日経新聞 2011年2月15日 文化・40面

『私の履歴書』 安野光雅(画家) 14回 「花ある君」から便り 

 偽手紙と分かり、夢散る  )