『詩編24章3~6節』
3.どのような人が、主の山に上り聖所に立つことができるのか。
4.それは、潔白な手と清い心をもつ人。
むなしいものに魂を奪われることなく
欺くものによって誓うことをしない人。
5.主はそのような人を祝福し救いの神は恵みをお与えになる。
6.それは主を求める人
ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。
主の山に上り聖所に立つことができるのかとは、どのような人が神の祝福を受けられるのかと言う意味です。
それに対し潔白な手と清い心をもつ人が祝福されるとかいてあります。
そのようなクリスチャンはいるでしょうか?
かなり少ないと思います。
だって私達人間には少なからず誰でも罪があるんです。
犯罪を犯していなくても、人を羨んだり、妬んだり、怒りや、恨み、たくさんの悪い思い="罪"がありますよね。
心から出てくる思いなので私達にはどうしようも出来ない罪なんです。
それじゃあ、私達は潔白でないし、清い心なんてないから神様に祝福されないじゃない!って思ってしまいますよね。
でも6節では、こう書かれています。
『それは主を求める人
ヤコブの神よ、御顔を求める人。』
"ヤコブの神よ"とかかれてます。
ヤコブって人はどんな人だったかご存知ですか?
ヤコブはとてもじゃないけど潔白な手、清い心の持ち主ではありませんでした。
ヤコブは旧約聖書の時代に生きていた人で、双子でした。
お腹から取り出された時にお兄さんの足のかかとを掴んで一緒に出てきました。
ヤコブという名前には、"かかとを掴む者"という意味があります。
その名の通り、ヤコブは兄の財産を欲しがり、自分の欲のためなら人を蹴落としてでもというような貪欲な人でした。
それからヤコブは主を求め、誰よりも私に!と、力強く主を求め、神にすごい祝福をされた人です。
あえてそのような人を聖書に書かれ、ヤコブの神よと書かれているのには、意味があります。
それは、私達のような罪人でも神様を求めれば祝福されると言うことです。
なんと素晴らしいことでしょう!
潔白な手や清い心を持っていなくても、心から主を求めれば私達のような罪人にも主は祝福してくださるのです。
この喜びに感謝していきましょう!!
神様は愛のお方です。
ハレルヤ!!
