歴史の教科書にでてくる本、著者と題名だけ覚えさせられる本、有名だけど本屋さんでは見かけない本。むずかしそうだし、つまらなさそう? そんな本、なにが書いてあるの? と読んでみました。案外おもしろいものも多かったので、ご紹介します。気が向いたらいかがですか。

 ・ハンムラビ法典

 ・旧約聖書

 ・イーリアス 

 ・オデュッセイア

 ・歴史      ヘロドトス

 ・歴史      トゥキュディデス

 ・国家      プラトン

 ・論語 

 ・老子

 ・荘子

 ・孟子 

 ・韓非子

 ・新約聖書

 ・コーラン

 ・歎異抄

 ・君主論      マキャヴェッリ

 ・九十五箇条の提題 ルター

 ・プリンキピア   ニュートン

 ・純粋理性批判   カント

 ・社会契約論    ルソー

 ・種の起源     ダーウィン

 ・資本論      マルクス著・エンゲルス編

 ・学問のすゝめ   福沢諭吉

 ・ツァラトゥストラはこう言った  ニーチェ

 ・我が闘争     ヒトラー

 

 

ハンムラビ法典  

  世界史の教科書の最初に出てくる「文書」。石碑と粘土板写本が発見されている。古代メソポタミアの発見された「法典」のなかで時代の古さでは4番目だが、そのなかで唯一、ほぼ全体が判明しているもの。紀元前1792年から1750年バビロニアを治めたハンムラビ王が定めたもの。282の条文からなる「法典」といわれているが、282も「法典(英語code)」というのも、1901年に発見された石碑を最初に翻訳したフランス人研究者がいったこと。その後の研究で282という数には根拠がなく、内容も法律というより模範判決集というべきものだとされている。

内容は、ハンムラビが神から王として正義を回復するよう命じられたという前書き、ハンムラビが定めた判決文と、後書きからなる。「目には目を、歯には歯を」という言葉が有名だが、そういった傷害に対する条文は第195条から第208条で全体のごく一部。他は結婚・家族・相続、農業・商業関係、医者など専門職の料金とその責任など、当時の生活全般にわたっている。

なおハンムラビ王の時代は、日本は縄文時代晩期、エジプトは中王国と新王国の間の第二中間期、中国は殷(商)王朝の前、夏王朝があったとされる時代。

本では『ハンムラビ法典』(国際語学社 飯島紀)や『ハンムラビ「法典」』(リトン 中田一郎)がある。ネットでも条文訳がでているが、当時の人の身分や職業などが分からないと理解できないものが多い。中田一郎の『ハンムラビ「法典」』は訳だけでなく条文の解説や当時の社会の説明もあり、分かりやすい。

 

 

旧約聖書  

  「ユダヤ教の経典『旧約聖書』は、イエスの教えを伝える『新約聖書』と並んでキリスト教の経典となり、後のヨーロッパ人による思想・芸術活動の大きな源泉となった。」(詳説世界史 世界史B 山川出版社2015年発行)  「旧約聖書」英語でいうOld Testamentとは、イエスが神との新しい契約、新約を実践したとするキリスト教から見た言葉。ユダヤ教では「律法(トーラーTorah),預言書(ネビイームNevi’im)と諸書(ケスビームketubim)」またはその頭文字でタナハ(Tanakh)やヘブライ語でミクラー(Miqra)と呼ばれる。その内容や分類も、ユダヤ教とキリスト教、キリスト教でもカトリック、プロテスタント、正教会で多少異なっている。 というわけで世界史教科書の記述は正確とはいえないが、旧約聖書が「後のヨーロッパ人による思想・芸術活動の大きな源泉になった」のは確かなので、ユダヤ教のタナハではなくキリスト教の「旧約聖書」を読んでみた。

 天地創造やノアの箱舟で有名な創世記から申命記までのモーセ五書(ユダヤ教では「律法」)と、モーセ以後からエルサレム陥落まで、ダビデやソロモン王などの時代を記した歴史書、詩編、箴言などの知恵文学、イザヤやエレミヤなどが神からの言葉を伝える預言書の、合わせて39書(プロテスタントの場合。カトリックでは第二正典として10書追加)からなる超大作。

 メソポタミアとエジプトに挟まれた地で、多神教を信じる周囲の諸民族と異なり唯一神を信じるイスラエルの民が、神から選ばれ、神と契約し、エジプトを脱出しカナンの地に導かれ、それでもその間何度も神に背いて他の神々を崇め、神の怒りを買い他の民族に攻撃され、占領され、バビロンに連れ去られ、神に苦境を訴え許され、エルサレムに戻り、神殿を再建するが、そこでも神の教えに背く者がでる、という「妬む神」(出エジプト記20他)と「かたくなな民」(出エジプト記32他)の物語(第二正典ではさらに300年あとまでを描いている)。 書かれている時代は、天地創造から始まり、アケメネス朝ペルシアのアルタクセルクセス王(1世 治世紀元前464-424)時代のバビロンからの帰還(エズラ記7)まで。カトリックの第二正典はセレウコス朝シリアの王アンティオコス(アンティオコス7世シデテス 在位紀元前138-129)とイスラエルとの戦い(マカバイ記一15)までが書かれている。書かれた時期も39の文書それぞれで、創世記を含むモーセ五書は紀元前9世紀から6世紀頃までに元となるものが作られたと考えられている。

 なおエズラ記に描かれるペルシアのアルタクセルクセス王は、日本では弥生時代早期、中国は戦国時代初期、ギリシアはペロポネソス戦争の頃。セレウコス朝アンティオコス7世は日本の弥生時代前期、中国は前漢の時代、ローマは共和政でポエニ戦争終了後。

 「創世記」など旧約聖書の一部やそれを解説したものは多数出版されているが、旧約聖書全体としては、日本聖書協会から旧約と新約をあわせた「聖書」として新共同訳、聖書協会共同訳、口語訳などが出版されている。

 

 

 

イーリアス  

  オデュッセイアと並ぶ古代ギリシアの代表的叙事詩。題名イーリアスは、イーリオスについて、という意味で、イーリオスは、エーゲ海をはさみギリシアの向かい側トロイ(世界遺産「トロイの考古遺跡」の地)に紀元前12世紀頃あった、トロイアともといわれる王国。ギリシア神話の「パリスの審判」によりイーリオスの王子パリスが世界一の美女でスパルタの王妃ヘレネーを誘拐し妻としたため、ミュケーナイやスパルタなどギリシア連合軍がエーゲ海を渡りイーリオスを10年にわたって攻めて、倒した。これがトロイ戦争。「イーリアス」は、この戦争の10年目の数日、ギリシア側の総大将アガメムノーン(ミュケーナイの王でヘレネーを奪われたスバルタ王の兄)と最強の武将アキレウスの仲たがいとアキレウスの戦線離脱から、アキレウスの復帰とイーリオスの総司令官でアキレウスに倒されたヘクトールの葬儀までの約50日間の出来事を24章にわけて謡っている。日本語訳では1000頁に及ぶ大長編。
 作者は、「イーリアス」も「オデュッセイア」もホメーロスと言われるが、各地を廻って謡う吟遊詩人によって伝えられながら紀元前8世紀頃までにつくられ、文字にされたのは紀元前6世紀頃、現在の形にかたまったのは紀元前2世紀頃と考えられている。
 話は戦利品(の女性)をめぐるアガメムノーンとアキレウスの争いから始まる。イーリアスもオデュッセイアも、パリスの審判から始まりトロイ戦争が終わりギリシアの武将オデュッセウスが10年漂流後にようやく帰国するという8編の叙事詩のなかの二つ。ほかの6編は現在では断片しか伝わっていない。古代ギリシアの人々にはその全体はよく知られた話だったのだろうが、何の知識も持たずに読み始めた者には、日本の戦国時代のことをまったく知らずにとつぜん桶狭間の戦いを聞かされるようなもので、物語に入っていくのに手間どった。
 馬車に乗り長槍と剣、弓矢で戦い人が殺される場面がかなりどぎつく描かれる。また戦いには人間だけでなくゼウス以下オリンポスの神々もほとんど主役のように参加しており、歴史物語でありかつ神話。戦争はこの物語のあとでギリシアの勝利になるのだが、勝者による物語ではなく、どちらの側も残酷なほど強いときもなさけないときもある。分量も多く登場人物も多く、ギリシア神話や戦記物に興味のない人にはつらいか。
 なおトロイ戦争は、ほぼ無敵のアキレウス(英語名アキレス)がかかと(アキレス腱)を傷つけられて死んだ後、ギリシア側が木馬の中にかくれてイーリオスを滅ぼす(トロイの木馬)が、これらは「イーリアス」の後の話。
 現在読める日本語訳は、岩波文庫「イリアス」(松平千秋訳1992年初版全2巻)、平凡社ライブラリー「イーリアス」(呉茂一訳 全2巻1953年岩波文庫初版)。叙事詩なので原文の詩としての形や味わいを重視する(呉茂一訳)か日本語としての分かりやすさを優先する(松平千秋訳)かで、文章も異なる。好みに合わせてどうぞ。

 

              オデュッセイア   

  古代ギリシアの叙事詩。イタケー島の領主オデュッセウスが、10年にわたるトロイア戦争に勝利し船で帰国する途中、神の怒りをかって10年間漂流と抑留にあう。そののちようやく故国に帰り、不在の間に自分の屋敷に居ついて妻に結婚を迫っていた求婚者たち50名以上を息子と協力して倒し、妻や父と再開を果す物語。 作者がおなじホメーロスといわれるトロイア戦争の終盤をうたったイーリアスの続編といえる内容。
 紀元前13世紀頃のトロイアの遺跡から火災と人為的な破壊のあとが見つかっているが、これがトロイア戦争によるものかは確かではない。イタケー島(イタキ島)という島はギリシア西部イオニア諸島に存在するが、オデュッセイアがいうイタケー島なのかは断定できないらしい。古代ギリシアの叙事詩は、この作品中にも出てくるが楽人によって曲とともに謡い継がれてきたもので、文字で表わされたのは紀元前8~6世紀頃とのこと。トロイア戦争が史実だとしても、500年以上前の話を神々を交えた神話物語として伝えられてきたということ。
 物語は、故国に帰ろうとギリシアの島々を転々とする主人公オデュッセウスと、イタケー島で主人の長い留守に苦労する妻と息子の話が進み、最後に再会を果たし問題を解決し大団円となる。元来が口頭で謡う叙事詩のため、定型の長い枕詞の繰り返しなどはあるが、同じ戦場での話のイーリアスと違い、場面の移り変わりと大きな集束の流れがあり、それぞれの話の盛り上がりもあって読みやすい。
 日本語訳はイーリアスと同じく、岩波文庫(松平千秋訳 1994年版 散文調) 岩波文庫旧版(呉茂一訳  詩歌調)などがある。 

 

 

「歴史」 ヘロドトス

 ヘロドトス(紀元前484頃~425頃)が紀元前492年から479年までのペルシア戦争(アケメネス朝ペルシアとギリシアのポリス連合軍の戦い)について記したもの。9巻からなり、岩波文庫(上中下3冊)では本文954頁。「ヘロドトスやトゥキディデスは、ともに歴史記述の祖とよばれ、過去のできごとを神話によってではなく、史料の批判的な探求によって説明した。」(詳説世界史B 山川出版社2015年)という教科書だけを見て読みはじめたら「???」となってしまった。第1巻から4巻までは、現代のトルコからイラク、イラン、エジプト、さらに黒海周辺ウクライナにあたる地域の地理と各部族の民俗および関連する余談の連続で、「歴史」という書名とまったく合わない。

本書の冒頭でヘロドトスは、「(略)ギリシア人や異民族の果たした偉大な驚嘆すべき事蹟の数々-とりわけて両者がいかなる原因から戦いを交えるに至ったかの事情-も、やがて世の人に知られなくなるのを恐れて、みずから研究調査したところを書き述べたものである」(松平千秋訳)といっている。ここでいう「研究調査」を当時(正確にはギリシア語のラテン訳で)historiaeといい、これが現在の英語historyの語源だという。つまり、ヘロドトスは日本語でいう"歴史”や英語の"history"のつもりでは書いておらず、そもそも現代の”history”という言葉が示す認識自体をもっていない。彼にとってエジプトやウクライナ地域の地理も民俗もペルシアとギリシアが「戦いを交えるに至った」事情を示す一部なのだ。この原題HISTORIAE(これもヘロドトスではなく後代の人が付けたとのこと)を『歴史』と訳すのは意図的な誤訳というべきか。

 ヘロドトスのいう「historiae(調査・研究)」も当然現代の調査・研究とは異なる。彼は「私の義務とするところは、伝えられているままを伝えることにあるが、それを全面的に信ずる義務が私にあるわけではない。」(「歴史」巻7)と言っており、たしかに信じがたいよなと思われる風習や時代が合わない人物の話も出てくる。

それでも何々王の何年と時期を明確にして起こった事象や事件を具体的に述べる方法は、「歴史記述の祖」というにふさわしいのだろう。

 ヘロドトスは、現在のトルコ南西部、エーゲ海に面した当時のギリシア植民都市ハリカルナッソス出身。アテナイを中心としたイオニア文化の影響を受けて育ち、政治活動の結果亡命してからエジプトやギリシアを含む各地を訪ね歩き、晩年はアテナイの植民都市南イタリアのトゥリオイに移住したといわれる。

ペルシア戦争は、日本の弥生時代前期から中期のころ、中国は春秋時代。

日本語訳は、岩波文庫(松平千秋訳)など。

 

 

「歴史(戦史)」トゥキュディデス

 古代ギリシア、アテナイの将軍トゥキュディデス(紀元前460頃~395)が、紀元前431年からのペロポネソス戦争(アテナイ連合とスパルタ(ラケダイモン)同盟の戦い)を記述したもの。

 戦争は紀元前404年アテナイの降伏で終わったが、トゥキュディデスの記録は411年の途中で終わっている。トゥキュディデスは戦争終了後まで生きていたと考えられ、記述が途中で終わっている理由は不明。

 ヘロドトスの『歴史』と同じくトゥキュディデスのこの作品にももともと題名はなく、ローマ時代にヘロドトスの作品と同じ『HISTORIAE』とつけられたらしい。それを最初の日本語訳(青木巌、昭和17年)では題名を『歴史』とし、岩波文庫本(久保正彰、1966年)は『戦史』、ちくま学芸文庫本(小西晴雄、初出1971年)は『歴史』が題名となっている。

 トゥキュディデスは、ペルシア戦争を描いたヘロドトスとは年が20歳ほどはなれており、ヘロドトスの『HISTORIAE』は聴いた(当時、書物は大勢の前で音読されるのが一般的だったらしい)ことがあったようで、トゥキュディデスは作品中で「そのありのままを私ができるだけ探求した結果とかに基づいて書くことを旨とした。」(第1巻22)と、地理や風俗などの伝聞も多く記述したヘロドトスとは異なることを宣言している。その姿勢どおり、戦闘の記述はその場で見ていたように具体的かつ、自分が属したアテナイにかたよらず客観的に書かれている。一方、この時代に重要視されたと思われる演説の場面が多く、かつ詳細に演説そのものが書かれているが、それは著者は「それぞれの演説者がその置かれた環境に関してきわめて適切な発言をしていると思えるような仕方で叙述」したと述べており、想像がかなり入っていると思われる。

 ペロポネソス戦争は、日本では弥生時代中期のはじめ、中国は春秋時代末。

本は、岩波文庫(久保正彰訳)、ちくま学芸文庫(小西晴雄訳)など。ギリシア本土からエーゲ海周辺、西はシチリア島まで広がった大戦争のため、戦闘の流れをつかむため当時を示す地図を片手に読む必要がある。ちくま学芸文庫本は、各箇所に載る地図の内容が不十分かつ掲載箇所が不適切。また訳文もこなれておらず意味が通じにくい箇所もある。

 

「国家」 プラトン   

 古代ギリシアの哲学者プラトン(前427-347)の主著のひとつ。10巻からなり日本語訳で700ページ超の太作。
プラトンの著作のほとんどは、彼の師ソクラテスが当時アテナイにいた実在の人物と対話するという形をとる。このためはじめは読みやすいが、ソクラテスのあげ足とりのような質問や独断的な説明などに嫌気をさす人も多いだろう。この『国家』第1巻でもソクラテスは相手から、「ひとがこたえたことをひっくりかえしては得意になるというようなことは、やめるがいい」(岩波書店『国家』藤沢令夫訳)と言われている(プラトンが言わせている)のは笑える。
 プラトンが描くソクラテスの会話は、時代設定がプラトンが生まれる前のものもあり、当然プラトンの創作なのだが、ソクラテスは実際にアテナイで「知者」として有名な人たちに会いその「知」を尋ねるが、彼らが実際には「知者」などではなく自身で知者と思いこんでいるだけであることを明らかにし、人々から怨まれ嫌われていたようで、後年それも一因で裁判にかけられ死刑となっている。
 『国家』は、壮年のソクラテスと裕福な老人ケパロスの会話で始まり、その後プラトンの兄アデイマントスとグラウコンとの対話で話が進む。
 表題は「国家」だが、対話の一貫したテーマは「正義」。現実社会では不正な人が利益をあげているようにみえるが、本当にそうなのか、という話から、正義/不正を分かりやすくするため、より大きい国家レベルで考えようと、理想の国家と現実の国(名誉支配政、寡頭政、民主政、僭主独裁政の4種)を比べ、正しい国家と不正な国家、正しい人と不正な人とは何か、それぞれがどうなるのかを、プラトン独自のイデア論も展開しながら、あきらかにしていく。
 全篇ソクラテスと相手との対話としているのは、読者にもその対話に参加させ考えさせるという狙いがプラトンにはあるのだろうが、長い会話の多くが、ソクラテスが「Aは何々でBとなる」「Bは何々だからCでなければならない」と言い、相手はほとんどつねに「そのとおりです」「そうでなければなりません」と肯定していくので、読者は「いや、そうではないでしょ」「ここが抜けてるでしょ」と納得できない箇所も出てくる。プラトンから2400年後の読者には彼の考える「正義」や「国家」を理解する前に、その前提や論理の進め方を受け入れる必要もあるのだろう。
 プラトンは、トゥキュディデス(前460頃-395)が『歴史(戦史)』で描いたアテナイ-スパルタ間のペロポネソス戦争(前431-404)の間に生まれ、その活動時は中国戦国時代(前403-221)、日本は弥生時代中期となる。
 プラトンの著作は「プラトン全集」(岩波書店全15巻1976年)の他、文庫でも岩波書店、光文社古典新訳文庫などで『国家』ほか『ソクラテスの弁明』など。

 

 

「論語」

儒教,儒学の創設者孔子(紀元前552または551年~紀元前479年 中国春秋時代)没後に弟子が作成した、孔子の言葉や行いを記した書。時代は、西欧ではペルシア戦争(アケメネス朝ペルシアとギリシアポリス連合の戦い 紀元前500~449)、インドでは仏陀(紀元前563頃~483頃)が活動した頃、日本は縄文時代晩期。

 十巻各二篇の計二十篇からなるが、そのほとんどが「子曰(日本語読みではシイワク 又は シノタマワク)」ではじまる孔子と弟子との会話。二十篇は各篇の中も各篇のつながりも体系だっているわけではない。学而、為政など各篇の名称もその篇の最初の言葉(子曰学而時習之・・・:シノタマワク、マナビテトキニコレヲナラウ・・・)をとったもの。短い会話がほとんどで読みやすく、儒教が国教とされた漢の時代からひろく読まれてきた。一方、簡潔なため後世さまざまに解釈されてきた部分もある。孔子、儒教関連の本としてはもっとも有名だが、その教えが体系的に分かるというものではない。むしろ孔子やその弟子たちの人柄や関係が浮かび上がってくるといった本。

 儒教の経典としては、中国戦国時代(紀元前403~221)の末期から『詩』、『書』、『春秋』、『礼』、『楽』、『易』が六経(リッケイ)として尊重されてきた。論語は前漢の武帝(在位紀元前141~87)の時代には既に存在していたが、それから千年以上のち、宋の朱子(朱熹 1130~1200)により『孟子』、『大学』、『中書』とあわせ四書として、六経に並ぶ重要な書とされ、以降現代まで儒教や孔子の代表的な書物として読みつがれている。

 岩波文庫や講談社学術文庫、角川ソフィア文庫その他多数出版されている。原文と読み下し文や現代語訳が書かれているものが多く、岩波文庫本は全体で400頁。

 

 

「老子」

 『老子道徳経』とも言われ、中国春秋戦国時代の思想家老子の書いたもので、老子よりあとの荘子とあわせた老荘思想や道教として中国他に後年大きな影響を与えた、と言われる。が、その老子がだれなのかはっきりしていない。したがって書の『老子』もいつ、だれによって書かれたのかも不明。発掘資料から、戦国時代前~中期、紀元前400~300年ころには現代に伝わるものの一部がすでに作られていたといわれる。
『老子』は上下二篇、上篇は第1章から37章までで下篇は38章から81章まで。各章は漢字25文字から90文字程度と短い文章からなる。道や徳など道教の中心概念、それを習得した聖人やそれによる政治、仁や礼など儒教的教えへの批判などを語っているが、上下篇でのまとまりや各章のつながり、全体としての明確な流れなどはない。
道教や老荘思想の「聖典」ともいえる書だが、他の中国古代の書と同様で、思想が体系的に書かれているわけでも網羅されているわけでもない。またキリスト教の『聖書』やイスラム教の『コーラン』のような唯一絶対的な書として崇められたわけではないため、これ一冊で道教や老荘思想が分かる、とはならない。
『老子』が説いているのは、無為、自然(おのずから然(シカ)る)、作為をせずもの・ことのもちまえのままにまかせること、つまり”道”のはたらきに順うこと、それが最大の”徳”だという。政治も、小さな国で周囲の国と交流もせず、知識や知恵を排除し、ことさらな法令で規制もせず他国を攻めることもせず、人々にこざかしい知恵や欲をもたせず腹いっぱいにさせておくのが理想というもの。各国が覇権を争い、富国強兵を進めいくさをつづけ興亡を繰り返した戦国時代の現実を眼前にして生まれた、徹底消極型理想論ともいえ、”礼”や”法”で人を治めることを理想とした儒家や法家の対極にある。それゆえに、儒教が各王朝で”国教”のようにされてきた中国で、民間や読書人にながく支持されてきたのだろうか。
「足るを知る」や「上善如水」、「報怨以徳」、「天網恢恢疎にして漏らさず」、「大器晩成」など現在も使われる熟語の出典でもある。
孔子や孟子の弟子がまとめたといわれる『論語』、『孟子』には当然孔子や孟子その人が描かれている。韓非自身が書いた『韓非子』からは韓非本人の憤りも伝わってくる。が、『老子』には老子自身をあらわす言葉やその人柄が思い浮かぶような文はほとんどない。『荘子』や『呂氏春秋』、『史記』など老子に関する話を載せた書もあるが、「老子」という人物はそもそも存在しないという「老子非実在説」も古くから言われている。
『老子』の日本語訳は多数出版されており、文庫本だけでも岩波、中公、ちくま学芸、講談社学術文庫がある。それぞれ原文のほかに読下し文と現代訳、さらに訳注や解説をつけたものもあり、ページ数も本文で170ページほどのものから400ページ近いものまでさまざま。

 

 

「荘子」

 中国戦国時代の思想家荘子(荘周 紀元前369頃~286頃)の著作。現代に伝わるのは、内篇7、外篇15、雑篇11の計33篇。ただし荘子本人の作と見られるのは内篇のみで、他は後代の人が追加したものと考えられている。有名な胡蝶の夢や鯤(大魚)と鵬(大鳥)、朝三暮四、混沌の死などの話は内篇に書かれている。読んでみるとたしかにスケールの大きさや面白さ、そして内容も、内篇と外、雑篇では差が感じられ、また外、雑篇もその中で趣きがそれぞれ異なるものがある。
33篇というのは、4世紀に晋(265~420)の学者により定められたもので、その前の前漢(紀元前206~紀元8)末には52篇だったとのこと。それだけ「荘子」を名乗って書き加えた者が多かったということは、オリジナルの『荘子』が当時からそれほど人気だったということでもあるのだろう。荘子の考えやおもしろさを知るなら、まず内篇だけ読むのもありだろう。
『荘子』で説かれている内容は、『老子』とともに老・莊思想といわれている。中国の多くの王朝で採用された礼を重んじる儒学に対し、自然(natureではなく、ジネン「おのずからしかる、なる」)の原理「道」に沿って儀礼・虚飾から離れて生きることを唱えるものだが、二つを読むと老と荘の違いも見えてくる。『老子』では自然原理に沿った素朴な生活を主張し、それが理想の政治にもつながるとするが、『荘子』(内篇)は世俗を超越し人為から離れた考えをもてば世俗のなかでも天寿を全うすると、個人レベルの意識を重視する。もっとも『荘子』外篇や雑篇には『老子』的考えのものも入っているため、分かりにくくなる。
荘子(荘周)は戦国時代の宋(現在の河南省付近)の末期の生まれ。儒家の孟子(紀元前372~290)と同時代だが、交流はなかったらしい。諸子百家の名家の代表と言われる恵子(恵施 紀元前370~310)とは友人だったとのこと。アリストテレス(紀元前384~322)、アレクサンドロス大王(紀元前356~323)らと同年代。日本は弥生時代前期。
日本語版は、岩波文庫(4冊 1971~83年発行)、中公クラシックス(2冊 2001年発行)、ちくま学芸文庫(3冊 2013年発行)、講談社学芸文庫(4冊 2014~17年発行)など。

 

 

「孟子」

 中国戦国時代の儒学者孟子(紀元前372年?~紀元前289年? )の言葉や逸話を孟子の弟子が書き記したもの。同時代は、アレクサンドロス大王(紀元前336~323)、アリストテレス(紀元前384~322)が活動、日本は弥生時代中期。
 『孟子』は『論語』、『大学』、『中庸』とともに、儒教の経典、四書の一つとされる。ただし四書は宋の朱子(朱熹 1130年~1200年)が定めたもので、宋代以前には『孟子』は儒学のなかでそれほど高く評価されていなかったという。
 前漢の歴史書『史記』(司馬遷作 紀元前90頃完成)には、孟子は儒教創始者孔子の孫である子思の弟子に学んだと書かれている。孟子は、当時の魏や斉の王に対し自分は臣下ではなく政治上の師であるというプライドをもち、数百人(?)の従者を連れて諸国を遊歴し、王には進言するが、王から呼ばれて出むくことはしない、呼ばれても病気だと言って断っていた。『孟子』のなかでも、弟子から、そのような態度は士としていかがなものか、と言われ孟子が説明(弁明)している。
 その孟子の教えは、いにしえの伝説の聖王、尭や舜のように民を大切にして仁政をおこなえば人が集まり豊かになり大国となる、というもので、各国が闘い争う戦国時代には当然採用されず、孟子は晩年著作や弟子の教育に専念する。
 孟子の代名詞ともいえる性善説や易姓革命の考えも、「易姓革命」という言葉はでてこないが『孟子』の中に見える。
 訳書は岩波文庫や講談社学術文庫など多数あり、原文、読み下し文、現代語訳などからなる。岩波文庫本は上巻264頁、下巻514頁。

 

 

「韓非子」

 中国戦国事態、法家の韓非(かんぴ 紀元前280年?~紀元前233年)の著作。

司馬遷(紀元前145年?~紀元前87年? 中国漢代)の書『史記』によれば、韓非は韓の国王の子、公子として生まれ、儒家の荀子(紀元前298年?~紀元前238年?)に学んだが、思想としては国は法つまり明確な基準に基づいて治めるべきという、商鞅(紀元前390年~紀元前338年)らの法家の教えに奉じた。それを韓の国王に説いたが採用されず、書物に著わした。その書を中国統一前の秦の国王、政、のちの始皇帝(紀元前259年~紀元前210年)が読み、韓非が使者として秦にやってくるように仕向けたが、当時秦の宰相でむかし韓非とともに荀子に学んだ李斯(紀元前?~紀元前208年)が、自分の地位を奪われるのをおそれ、韓非を王に会わせず投獄し毒をすすめ自殺させた、とのこと。
 現代に伝わる『韓非子』は、55篇からなるが、後世に加えられたものも多いようで、韓非の自作かどれか100%明確になっているわけではないが、話のするどさや文章の激しさなどしろうとにもちがいがわかるものもある。
 韓非は、商鞅が説いた「法」の厳守だけでなく、家臣をコントロールする「術」とそれを可能にする権勢、「勢」が重要だと説く。為政者が徳をもって仁政をほどこすべしという儒家に比べると、現代のわれわれにはわかりやすい。また、儒家は古代には礼もととのい立派な政治が行われていたと、とくに孟子はいにしえの聖王尭、舜の政治を理想とするが、韓非は、そんな太古の時代は社会も未開で国土もせまく、大国が統一をめぐって争っている現代の参考になどならない、と現在では当然のことをはっきり言っているのもおもしろい。
 「矛盾」や「逆鱗」、「群盲像を撫でる」や「守株(しゅしゅ、兎が株にぶつかり死んだのを見た農民が仕事をせず株を見張る話)」なども『韓非子』が出典。
 現在、岩波文庫(全4巻)や講談社学術文庫など。解説書も多数。

 

 

「新約聖書」

 「新約」とは神との新しい契約。唯一の神(主)とイスラエルの民アブラハムやモーセとの契約が旧約、古い契約で、それらは神の子イエスの死と復活で新しく書き換えられたというのがイエス・キリストの弟子、使徒らの考え。
 新約聖書は27の文書からなる。イエスの活動と死、復活・昇天まで描くマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書、イエス昇天後の信者らの活動をペテロとパウロを中心に描いた使徒現行録、パウロらが信者宛てに書いた21の手紙とヨハネの黙示録で構成されている。いずれもイエスの死後(紀元30年?)から紀元150年ころまでに書かれたもので、使徒言行録や手紙では初期の教団の動きや人間関係などもうかがわれる。
 それぞれの文書の表題となっている人物(マタイの福音書など、イエスの弟子(使徒)が多い)が書いたものと伝えられてきたが、その後の研究で作者は別人だろうとされるものも多い。ヨハネの福音書と3通あるヨハネの手紙とヨハネの黙示録などは、どのヨハネなのか、ヨハネが何人いるのか、いろいろな説が出されている。
 イエスの活動と教えを伝える福音書は4つあり、マタイとマルコ、ルカの三つの福音書は共通する内容も多いが、違いもあり、ユダヤ人や異邦人など布教対象が異なったとも言われている。ヨハネの福音書は内容も文章のスタイルも個性的。
 使徒言行録は、最初期の使徒らの活動を伝えており、ペテロとパウロなど使途の間でも考えの相違があり、またイエス同様にユダヤ人から、また他の民族から攻撃され捕われ、逃げる様子も描かれている。
 手紙でも他の人々から迫害や信徒間のもめごとなどがうかがわれる。また「権威ある者に従え、妻は夫の従え」など当時の教会の生活道徳も知ることができる。
 27の文書が書かれたのは紀元50年ころから150年ころまでの間だが、キリスト教の正典はこれらであるとされたのは397年のカルタゴ教会会議。それまでにはほかにも多くの文書が作られ読まれていたが、外典(ガイテン)とされ聖書には入れられなかった。

 

 

      「コーラン」

 イスラム教の聖典。イスラム教創設者のムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ(570頃-632)が唯一神アッラーから受けた啓示を記したもの。114章からなる。ムハンマドが40歳から死ぬまでの約23年にわたって受けた啓示を、彼の死後、650年頃に後継者のカリフの命で1冊の本としてまとめられた。アラビア語発音に近い「クルアーン」とも呼ばれる。
 ムハンマドは、日本では聖徳太子(574-622)の頃、中国は隋王朝(581-618)、ヨーロッパはフランク王国、ランゴバルド王国など、その東はビザンツ帝国、ササン朝ペルシアの時代。
 イスラム教は、ユダヤ教キリスト教と同じ創造神アッラー(ユダヤ、キリスト教でのヤハウェ)を信仰し、ムハンマドをモーセやイエスに続く最後の預言者、神の使徒とする。
 ユダヤ教やキリスト教の聖典である旧約・新約聖書が神と預言者や信徒の物語という形をとっているのに対し、コーランは114章すべてが、大天使ジブリール(とは明記されていないが、イスラム教ではそうだとされている)を通して神がムハンマドの口を借りてムハンマドや信徒に語る(啓示を与える)形をとっている。ジブリールは旧約・新約聖書でいう大天使ガブリエル。つまり、全編神からの語りかけで、内容は信仰の命令から生活全般の規定まで多岐にわたり、かつ話も急に変わり、また同じ話が何度も繰り返されたりもする。旧約・新約聖書のような「物語」にもなっていないため、正直おもしろたのしく読めるものではない。
 特に初めの部分(第二章牝牛など)は長く(286節)、かつやや平板なトーンで「アッラーを信じよ、アッラーはすべてを知っているぞ」と繰り返されるので読み通すのが苦しいが、後半は文も短く、激しい口調で復活、最後の審判とその先の天国、地獄が具体的に語られている。これはコーランの114章が、ムハンマドの受けた啓示の新しいもの(啓示後期)から古いもの(啓示初期)の順に編纂されているため。
また、旧約聖書や新約聖書に出てくる人物(アブラハムからモーセ、ダビデ、ソロモンにマリア、イエス等々)やそれに関することも書かれていて、聖書の話を知っていると分かりやすい部分も多い。
 専門家によれば書名「クルアーン(コーラン)」は、声を出して読む「読誦」という言葉から来ているとのこと。コーランの文章もアラビア語では韻を踏みリズム感のあるものらしいが、それを日本語訳に反映することはできない。日本語版では井筒俊彦訳(岩波文庫 1957年)や藤本勝次ら訳(中央公論社 、中公クラシックス 1970年)、水谷周ら(国書刊行会 2019年)などがある。それぞれ特長があり、たとえば上記のなかでも古い井筒訳は、ことば使いも当然古いが、イスラムへの関心が現代ほど高くない頃に書かれたせいか、割注を多用して素人にも分かりやすくなっている。

 

 

「歎異抄」

 鎌倉時代、浄土真宗の開祖親鸞(1173年~1263年)の死後に、弟子の唯円(1222年~1289年)によって書かれたもの。

親鸞の死後20年ほどですでに宗門内で師と異なる教えが出てきたことを嘆き(歎異)、親鸞のことばを記し、異説を一つひとつ批判している。

構成は、序文と本文18条、結文からなる。それぞれが短くかつわかりやすい言葉で書かれている。親鸞の教えを理解するのに最適な書として、現在数多くの紹介本や解説書が出ているが、歎異抄が一般にひろく知られるようになったのは明治になってから。それまでは江戸時代に浄土真宗の僧のなかでもあまり読まれていなかったらしい。
 親鸞の教えを知るには親鸞自作のものを読むのがいちばんよいはずで、親鸞自身51歳のときから最晩年まで推敲していた『教行信証』全6巻のほか、いくつもの書や和讃を残しているが、長いうえに専門用語も多く、一般向けの解説本もほとんどない。その点歎異抄は短く読みやすく分かりやすく、そこが現在人気の理由なのだろうが、これだけで親鸞の教えが正しくわかるのか、という疑問がでてもおかしくないだろう。歎異抄の跋文(後書き)に本願寺8世門主蓮如(1415-1499)が「右斯聖教者為当流大事聖教也 於無宿善機無左右不可許之者也(右のこの聖教は当流大事の聖教と為す。善を積んでおらず仏法の機縁の熟していない者にはむやみにこれを許すべからず)」と書いているのも、考えるとおもしろい。
 同時代西欧ではキプチャク・ハン国がブルガリアを占領(1280)、アジアでは元が南宋を滅ぼし(1276)、日本にも出兵(1274文永の役、1281弘安の役)。
 現在出されている歎異抄(読み下しや現代訳)は、岩波文庫、講談社学術文庫、角川ソフィア文庫他。解説その他関連本も多数。

 

 

 

「君主論」 ニッコロ・マキャヴェッリ

 イタリア フィレンツェの官僚政治家ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)の著作。1514年頃に書かれ、当時のフィレンツェの支配者ロレンツォ・デ・メディチ(1492-1519)に献呈された。
 26章からなり、1~11章はさまざまな君主体制(世襲、新興、征服国家、君主独裁、貴族制等)の特性と比較評価、12~14章は軍備、軍隊とその使い方など、15~23章は君主のあるべき姿やとるべき行動について、24~26章は当時のイタリア情勢と今後に対する提言となっている。
 当時のイタリアはフィレンツェ、ヴェネツィアなどの都市国家と教皇領からなり、そこに神聖ローマ帝国、フランス、スペインからの干渉と抗争を繰り返していた。マキャヴェッリは、メディチ家が追放され共和政となったフィレンツェ政府の書記長として各国との外交に活躍するが、1512年に共和政が崩壊しメディチ家支配に戻ると、官職を外され投獄されてしまう。釈放後は経験をもとにした執筆に専念し、書き上げたこの著作をフィレンツェの支配者メディチ家当主に呈示した。それによってマキャヴェッリが登用されることはなかったようだが、メディチ家の有力者から別の執筆依頼も受けている。
 『君主論』は、目的のためなら手段を選ばず権謀術数をつくす冷酷な政治論とされ、マキャベリズムという言葉にもなったが、読んでみると、現代にはよくあるビジネス書のリーダー論といったもの。マキャヴェッリの主旨も、フィレンツェの若く新しい支配者であるロレンツォ・デ・メディチに君主の心構えを教えよう(そして自分の窮状を救ってもらおう)としたものだから、当然か。そのため当時のイタリア、ヨーロッパの政治情勢が事例として多く述べられており、訳注を参照しながら読むことになる。ルネサンス期の政治や歴史に関心がある人にはおもしろいと思われる。
 日本語訳は文庫本でも多く、岩波、中公、角川、講談社学術、光文社古典新約文庫など。
 マキャヴェッリはレオナルド・ダ・ヴィンチより17歳年下、ミケランジェロより6歳年上。『君主論』が書かれた1514年頃は、ルターの『九五箇条の提題』発表(1517)の3年前、ポルトガルが明朝広州に来航、日本は室町末期、戦国時代初期。

 

 

 

「九十五箇条の提題」 マルティン・ルター

 ドイツ ヴィッテンベルクの司祭で神学教授のマルティン・ルター(1483-1546)が1518年に出し、宗教改革の発端となったといわれる文書。原文はラテン語。

『九五箇条の提題(または九五箇条の論題)』は通称で、ルター全集などでは『贖宥の効力を明らかにするための討論』と名づけられており、ルターと同じ聖職者に向けて贖宥状について討論をおこないたいと出されたもの。95個の条文からなるが、独立した条項というより一連の文書に番号をつけていったという感じ。ドイツの主要な教会やローマ教皇にまで届いたが、ルターの提案した討論会はおこなわれなかったらしい。
 それを買えば罪(正しくは罪を赦されるための罰)が免除される「贖宥状」で莫大な利益をあげているカトリックの教皇庁をルターが批判し、そこから宗教改革が始まったと世界史の教科書には書かれている。だがこの『九五箇条の提題』は、贖宥状の販売人や説教師が聖書の教えに反することまで言っていることや、信仰があれば贖宥状などは不要であることなどを主に述べており、教皇に対しては、批判もしているが一定の敬意をはらっている。

これが3年後(1520年)に書かれた『キリスト教界の改善について』『キリスト者の自由について』など「宗教改革の三大文書」とよばれるものになると、ルターは「ローマ主義者」と呼ぶ教皇とその取り巻きを激しく攻撃しており、改革の考えが明確になっており、読み比べるとおもしろい。
 『九十五箇条の提題』は聖職者に向けての討論の呼びかけだったが、ルターの知らないところでドイツ語にされて一般信徒に伝えられ、かねてローマ教皇に不満をもっていたドイツ(神聖ローマ帝国)国民の多くが賛同し、ルターをあと押ししたといわれる。
 ルターはイタリア ルネッサンスの巨人ミケランジェロやラファエロと同年代、ポルトガル、スペインの大航海時代、中国は明朝後期、日本は室町末期、戦国時代。
 『九五箇条の提題』は、講談社学術文庫の『宗教改革三大文書』、『ルター著作選集』(教文館)などに収められている。

 

 

「プリンキピア」 アイザック・ニュートン

 アイザック・ニュートン(1643-1727)1687年初版の著作。物体間には距離の逆自乗で重力がはたらき、それによって天体の運動もすべて説明できることを表わした。原題はラテン語で『PHILOSOPHIAE NATURALIS PRINCIPIA MATHEMATICA』、日本語にすると「自然哲学の数学的諸原理」。原題の一部をとって『プリンキピア(またはプリンシピア)』と呼ばれている。
 3部構成で、第Ⅰ編「物体の運動」、第Ⅱ編「抵抗を及ぼす媒質内での物体の運動」、第Ⅲ編「世界体系」。日本語訳(講談社ブルーバックス)で本文合計812頁の大著。
 第Ⅰ編でまず運動の3法則(慣性の法則、運動量保存則、作用反作用の法則)を明記し、距離の逆自乗に比例する重力でケプラーの第三法則が説明できることを幾何学的に示し、第Ⅱ編は当時主流だった渦動説(天体にひろがる物質の渦の動きで惑星や衛星は動くというデカルトらの説)を批判するため、流体や渦の動きを説明、第Ⅲ編では重力の働きで太陽系の惑星、月、彗星の動きを細かく説明する。各編とも42から97個の命題を順次解いていく形をとっており、物理・幾何学演習本といった感じ。
 天体の動きも地上の運動もすべて同じ力(万有引力)で説明できることを示した歴史的な著作。ただしニュートンのその業績は有名でも『プリンキピア』自体がひろく読みつがれてきたわけではなさそうで、現在日本の書店でもまず見かけない。物理というだけでもとっつきにくいのだが、現在の高校の授業で使う微積分をほぼまったく使っていないこと、数式や図が少なく、文章もわかりにいこと、全3編で192もの命題を次々と証明しているが各命題の必要性、つながりなどの説明がほとんどないことなどから、物理・数学好きの人でもかなり読みづらいと思われる。ニュートン自身も第Ⅲ編冒頭で、本書の命題は「相当数学の知識のある読者にとってさえ、あまりにも多くの時間を費やさせるようなものが多い」と認めている。
 ニュートンは微積分も創始(ライプニッツ(1646-1716)とほぼ同時期)しているが、まあたらしい微積分を使っては理解されないと考えたのか、『プリンキピア』ではほぼ使っていない。また扱っている命題も物理的な現実解(重力なら距離の逆自乗)だけでなく一般解(距離のn乗)まで広げていて、第Ⅰ、Ⅱ編は物理というより幾何学・数学演習書。ブルーバックス本では訳者注で800以上の補足説明がされているが、微積分を多用していることからも、ニュートンの説明が現代の教科書的な説明とかけ離れていることを示している。
 ニュートンの活躍した17末から18世紀初めはヨーロッパ科学革命の時代で産業革命の前夜、『プリンキピア』初版は中国は清の康熙帝、日本は徳川綱吉が将軍の時代。
 日本語訳は講談社ブルーバックス(3分冊 1976年初訳)。他に絶版だが中央公論社「世界の名著 ニュートン」(1971年初訳)。訳者による注はブルーバックスの方が丁寧。

 

 

「純粋理性批判」エマニュエル・カント

 18世紀ドイツの哲学者イマヌエル・カント(Immanuel Kant 1724年~1804年)の著作。1781年に第1版発行。同時代ではアメリカ独立宣言(1776)、フランス革命(1789)、中国は清、乾隆帝(在世1735~95)、日本は田沼意次が老中(1767~86)の頃。
 哲学書でかつ文庫本、ハードカバーのほとんどが上中下の3冊もあるうえ、本の題名も意味がわからないという、食欲がまったくわかない本のひとつ。
題名についてはカントも自覚していたらしく、第七節まである序章で説明している。純粋理性とはものごとを経験にもとづかず(アプリオリ)に認識することのできる原理を含む理性のこと。この純粋理性によって、神や世界の始まり、人間の自由といった経験ではたどりつけないものを考えること、つまり形而上学の正当性も得られる。が、まずその純粋理性がたしかに存在し、その源泉やその有効範囲はなにかをまず判定しよう、つまり純粋理性についての批判をする、というのが本書のテーマ。
 ここまででもうかなりうっとうしくなるが、まず経験にまったくよらないアプリオリなものがある、という点について、カントは数学や幾何学、自然科学(物理学)を例に挙げる。「直線は2点を結び最短距離である」とか「質量保存則」などは経験によらずに普遍的で必然的でしょ、というが、18世紀の時代制約で、現代の私たちは、2点を結ぶ最短距離が曲線になる空間(非ユークリッド空間)や質量保存則が成立しない領域(量子論、相対論)があることを知っている。それを言えば、カントの問題にしている神の存在など形而上学の問いも現代では大きく変わっている。
 そんなことも思いながら読み続けると、独自の用語も多く分かりにくいが、純粋理性を働かせるための道具(原理)となる4分野各3種の範疇(カテゴリー)がこんなにいるのか?とか、カントより80年ほど前の物理学や数学で有名なニュートンやライプニッツ結局カントは「神」やニュートンらが進めた自然科学などをどう考えていたのかなど、おもしろく読めるところも出てくる。『純粋理性批判』のあとに出した『実践理性批判』も読んでみようかという気にもなるかも。
 現在出ている本は、岩波文庫(3巻)、講談社学術文庫(4巻)、光文社古典新訳文庫(各巻解説付きで全7巻)他、解説本も多数。

 

「社会契約論」ジャン=ジャック・ルソー

 著者ジャン=ジャック・ルソー(1712-78)、出版は1762年、フランス。
人民主権の社会契約に基づく国家を説き、各国の民主国家形成に大きな影響を及ぼした。欧州ではフランスはルイ15世(在位1715-74)、隣国オーストリアは女帝マリア・テレジア(在位1740-80)の治世、イギリスではホッブスやロックが社会契約説を提唱していた時代。中国は清の乾隆帝(在位1735-96)、日本は江戸幕府田沼意次(1719-88)が活躍した時代。
 人は、家族単位で孤立していた「自然状態」から脱却し、相互に協力する体制を作りあげるが、その際に個人の財産、身体すべての権利を共同体に全面的に譲渡し、全員が主権者となって単一な人格をもつ政治体(国家)が成立する。それが社会契約。主権者は立法権を持ち、全員の集会で国家の意志(一般意思)を法として定める。一般意思を具体的に執行する行政官(統治者)は主権者が抽選や投票で選出する。
 つまりルソーは、直接民主主義を理想としており、彼の生国ジュネーブ共和国など小規模な国家を考えている。当時のイギリスで行われていた議員選挙による間接民主制は、「議員が選ばれてしまうと、彼ら(イギリス人民)は奴隷となり、何ものでもなくなる」と否定的に見ている。
 発刊当時、絶対王政のフランスでは当然ながら発禁となったが、国家の支配がほころび始めてきた時代に新たな方向を示すものとして、後のアメリカ独立宣言(1776)やフランス革命(1789)に大きな影響を与えたといわれる。日本でも明治維新(1868)前後に中江兆民らの訳で紹介された。
 18世紀後半に書かれたものだから、21世紀の現代に読むと当然だが、もう当たり前のことがある一方、ありえない、受け入れられないこともある。こんなことが当時は斬新で、多くの人が怒った、または感動したのだろうと考えながら読むとおもしろい。
 日本語訳は、岩波文庫(1954年初版)、角川文庫(1965年初版)、光文社古典新約文庫(2008年初版)、白水社Uブックス(2010年初版)などなど。

 

 

 

「種の起源」 チャールズ・ダーウィン

 チャールズ・ダーウィン(イギリス 1809-1882)の著作。1859年、50歳のときに初版、その後1872年の第6版まで改訂を重ねた。原題は「ON THE ORIGIN OF SPECIES BY MEANS OF NATURAL SELECTION OR THE PRESERVATION OF FAVOURED RACES IN THE STRUGGLE FOR LIFE」。直訳すると「自然選択または生存競争での適者保存による種の起源」か。
序文と14章(第6版では自然選択説に対する異論に対する回答の章を加え15章)からなり、生物は変異とそれに対する自然選択により変化、分岐してきたと「進化論」を説く。その内容は、自身の飼育栽培動植物や自然の動植物の観察から多くの博物学者、地質学者らの研究をもとに、生物の変種や交雑での不稔、各種本能や中性生物の存在から地理的分布、化石にみられる変化や絶滅など非常に広範な観点から論じており、説得力がある。
キリスト教ではすべての生物は旧約聖書の『創世記』に書かれているとおり神によって造られたと教えるが、18世紀頃からは世界各地の動植物や化石の研究をもとに、生物の変化、進化を説く者も出てきていた。ダーウィンは1831年から36年までのビーグル号での南米各地の動植物や地質の調査のあと、自宅で動植物の飼育観察や資料収集をすすめ、大がかりな著作を書こうとしていた。ダーウィンの序文によると、1958年に他の博物学者がダーウィンの考えと共通する自然選択の論文を出すことを知り、急遽彼と連名の論文を出し、そのうえで急ぎ「抄本」を出版した。それがこの『種の起源』である。抄本とはいえ14章、日本語版では初版のもので584ページの「大著」。
ダーウィンは、20世紀にその構造が確認されたDNAはもちろん、1865年にオーストリアで発表されたメンデルの研究も、20世紀になって提唱された大陸移動説も知らなかったが、『種の起源』ではこれらをも予測していたような表現もみられる。みずから飼育栽培した各種動植物を詳細に観察し、また各国の博物学者、地質学者の研究にもひろく目を通しており、そこから得た広大な知見をもとに、動植物の各品種は変異と変異した品種が元の品種や同じ環境に住む他の品種との生存競争つまり自然選択により絶滅または拡大してきた、ということを説明する。その分かりやすさとスケールの大きさは、本書を受けて多くの生物学者からさまざまな反論や支持が出ただけでなく、後世、ダーウィンの進化論を誤解または曲解したのか分からないが「社会進化論」が広く論じられたのもなるほどと思うほど。
当時、一部の博物学者はすでに種の変化を認識していたが、一般にはまだ聖書の「創造説」が強く残っていたらしく、ダーウィンは本書の中でさまざまな現象が創造説では説明ができないことを何度も主張している。また本書が進化論の始まりともいわれるが、ダーウィンは「進化」という語は第6版までは使わず、変化や系統的な配列ということばを使っている。
ダーウィンはリンカーン(1809-65)、島津斉彬(1809-58)と同年、マルクス(1818-83)より9歳上。『種の起源』初版(1859)はクリミア戦争(1853-56)、アメリカ南北戦争(1861-65)、太平天国(1851-64)、日米修好通商条約(1858)のころ。
日本語訳は、岩波文庫(八杉龍一訳1963~)、光文社古典新約文庫(渡辺政隆訳2009)など。内容が動植物学、地質学と幅広いが、原作の注はほとんどない。岩波文庫では訳注は初版とその後の版の違いのみを記述、光文社文庫は原文にかんする訳注はなし。

 

 

「資本論」 

カール・マルクス著 フリードリヒ・エンゲルス編

 カール・マルクス(1818年~1883年)著作、フリードリヒ・エンゲルス(1820年~1895年)編で全3巻(17篇98章)からなり、第1巻は1867年発行。1885年刊行の第2巻、1894年の第3巻は、マルクスの死後、彼の原稿をもとにエンゲルスが編集したもの。
資本論という名のとおり、19世紀後半の経済が最も発達していたイギリスをもとに資本主義の実態とその理論的背景や課題をこと細かく著わしたもの。第1巻では、商品の価値を分析し、なぜ資本家が利益を得て労働者が貧しいままなのかを剰余価値という概念をもとにあきらかにし、以降、剰余価値にもとづく経済活動やその性質、問題点を説明していく。多数の経済学用語と若干の数式(表現が分かりにくい)が全篇通じて出てくるが、資本主義の不合理さを実態に即して説明すべく、当時のイギリスの工場や労働者の悲惨な状況がルポルタージュのように詳しく述べている部分もあり、おもしろく読めるところもある。
マルクス主義ともいわれる科学的社会主義の創設者マルクスの代表著作だが、『資本論』という名のとおり経済理論書であり、社会主義や共産主義といった政治論や、後世にやはり大きな影響を与えた唯物史観などはほとんどでてこない。
第1巻は1967年に刊行されたが、マルクスはその後も内容の修正をおこない、1972年にフランス語版である改訂版が出された。このためもあり第2巻以降の出版が遅れた。マルクス死去時には第2巻、第3巻部分は未完の草稿しかなく、エンゲルスがそれを編集し本にしあげた。エンゲルスは第2巻、第3巻の序文でその苦労をせつせつと語っており、マルクス著・エンゲルス編とされている理由がよくわかるが、読者としてはエンゲルスが苦労を強調するほど、マルクスが本来考えた本になったのか?とも思ってしまう。
マルクスは、日本の幕末の大老井伊直弼(1815年生)や清朝末期太平天国の指導者洪秀全(1814年生)らとほぼ同年代、『資本論』初版出版は、太平天国の乱(1851~64)、アメリカ南北戦争(1861~65)、明治維新(1868年)のころ。
岩波文庫からは全9冊で発行、ハードカバーで大月書店など。解説本は多数。

 

 

「学問のすゝめ」 福沢諭吉

 明治時代の思想家で慶應義塾創設者の福澤諭吉(1835年~1901年)が、同郷の小幡篤次郎(1842年~1905年)との連名で故郷中津の旧友に向けて書いた小論を明治5年(1872)に慶應義塾から小冊子『学問ノスゝメ』として出した。それが好評で、以後は福澤単独の名前で明治9年(1876)の17編まで不定期に継続して出版されたもの。したがって内容やおもむきも、「天は人の上に人を造らず」で始まりやや大上段に構えた初編と、個別のテーマで書かれた二編以降ではやや異なっている。
 明治政府となってまだ数年、日本という一つの国として世界の政治経済に参加し始めたが、技術、経済、軍事力すべてが弱く、国の独立も危ぶまれるなかで、国の独立とそれを確かなものにするための個々人の意識と自立が必要であることを説いたもの。したがってここでいう「学問」は、国家の発展に直接的に寄与する実学のこと。従来の漢文古文などではなく、読み書き、計算から西洋の実学を推奨し、儒教的主従関係による忠義ではなく、個人の自由、平等、自立と社会契約論に基づく国民としての自覚を求める。
 明治維新直後の当時としては急進的ともいえる主張で、広く話題となったよう。福澤は『福澤全集緒言』で一から一七編が各20万冊として合計340万冊が「流布したる筈」としている。明治5年(1872)の日本の人口3500万弱(総務省統計局値)からすると大ベストセラーといえよう。
 そのぶん反発も大きかったようで、特に6,7編の内容が、赤穂義士や楠木正成たちの忠義心を軽んじていると「赤穂不義士論」、「楠公権助論」がでて、福澤は明治7年(1874)に「慶應義塾 五九楼仙万(ゴクロウセンバン)」の名前で朝野新聞に弁明、反論を出している。
 現在出版されている本は、岩波文庫、講談社学術文庫の他、解説本も多数。

 

 

 

 

「ツァラトゥストラはこう言った」

フリードリヒ・ニーチェ

 

1883年から1885年にわたって発表された、ドイツ哲学者フリードリヒ・ニーチェ(1844年~1900年)の作品。

ドイツはビスマルク宰相の時代(1871~90)、イギリス ヴィクトリア女王がインド皇帝となり(1877)、中国 清で西太后が実権を握り、日本は明治時代、鹿鳴館建設(1883)、初代内閣発足(1885)のころ。
 日本語訳の題名は、「ツァラトゥストラはこう言った」「ツァラトゥストラはこう語った」「ツァラトゥストラかく語りき」などなぜかさまざま。
 ツァラトゥストラとは、紀元前7世紀ペルシアでゾロアスター教をひらいたゾロアスターのドイツ語読み。

本書はツァラトゥストラが山からおりて人里で教えを説き、その後また山に戻り、そのなかでいろいろなことに遭遇するという物語のかたちをとるが、史実のゾロアスターにはまったくとらわれていない。

4部構成で、それぞれが3から10ページの短い話で20篇ほどからなる。どれも蛇や道化師、王、学者など19世紀末の社会やキリスト教の教えを擬人化した寓話で語っており、読みやすいが、どういう意味がかくされているのか、ニーチェは何が言いたいのかと考えてしまう。ニーチェの中心的な思想である「超人」や「永劫回帰」といった内容もあり、訳者の解説も読んで、ああそうかと理解することもできるが、自分流に解釈するのもおもしろい。
 本は、岩波文庫、新潮文庫、光文社古典新訳文庫(いずれも上下2巻)、他多数

 

 

「我が闘争」アドルフ・ヒトラー

 

 アドルフ・ヒトラー(1889年~1945年)は世界史の教科書に必ず出てくるが、その著書『我が闘争』の名前は教科書には載らない。2巻からなり1925年に第1巻、26年に第2巻を出版。ヒトラーは1923年34歳のとき、国家社会ドイツ労働者党の党首として政権を握ろうとミュンヘンで蜂起したが失敗。1924年から収監された刑務所内でこの『我が闘争』を書いた。
第1巻は「民族主義的世界観」という名で12章からなり、1889年の自らの生まれから1920年ドイツ労働者党の中心人物となっていくまでを描き、第2巻「国家社会主義運動」15章では、彼の国家観、世界観、政治思想やドイツがとるべき政策を述べている。
当時のドイツの経済および思想界を支配しているとヒトラーが考えたユダヤ人は、本書でも徹底的に排斥すべきと強い口調で書いている。またドイツが豊かになるためには東方に国土を拡大すべきと、のちの施策もすでに現れている。

過激な政治信条をもつ若い政治リーダーが書いたものであり、自分や自分の党、仲間についてはかなり美化しており、敵とみなすユダヤ人やフランスに対しては侮蔑し激しくののしる言葉が続く。ヒトラーとナチスドイツの結末を知っているわれわれは、そこに書かれている内容が一方的・独善的なものであることを知っているが、出版当時のドイツで読んでいたらやはり当時のドイツ国民のように熱狂的に受け入れたのだろうか。
文庫本では角川文庫、他ハードカバーで赤板諸点、東亜研究所など。