3rdTourを終えたその夜。普段なら疲労をできるだけ取るためにゆっくり休むのだが、小林は一人ホテルを抜け出した。理由は特にはなかった。ただ、眠るには熱が冷めず、少し雨降る夜風を浴びたくなったのだ。
少し歩いて雨に当たる。雲に隠れた夜空を見上げると、雨が落ちて目に入る。思わず目を閉じるが、それでもまた、空を見ようと目を開けた。
少し歩いた先で、ぼーっとしていると、降っていた雨は突然止んだ。いや、雨音はしっかりと小林には聞こえている。誰かが傘を差し出していたのだ。ふと怪訝そうに横を見ると、後輩の藤吉夏鈴がそこにいた。
「なんだ、夏鈴ちゃんか」
「なんだじゃないですよ。風邪ひきますよ」
知った顔に安心する小林に対して、藤吉はちょっとムッとした顔を浮かべている。
「こんな夜中に一人で出歩かないでください。危ないですよ」
「ごめんごめん。ちょっと散歩したくてさ」
少し怒り気味の藤吉をいなすようにあっけらかんと小林は笑った。そんな小林の笑みを見て、藤吉はため息を吐いて、それ以上追求することはなかった。
「センター。カッコよかったよ。お疲れ様」
「ありがとうございます。由依さんもです」
6枚目のシングルStart over。そのセンターを務めたのは藤吉夏鈴。このシングルでの藤吉は、狂気のパフォーマンスで、会場を震わせた。
しかし終わってみればなんのことはなく、藤吉夏鈴は変わらない、小林がよく知る後輩の藤吉夏鈴だ。そのことにどこか小林は一安心していた。
「ねえ、夏鈴ちゃん」
「はい?」
「本当に強くなったね」
突然そんなことを言われたものだから藤吉は固まった。なぜ急にそんなことを言い出すのか。
「前は頼りなかったのに、今じゃ別人みたい。後ろから夏鈴ちゃんの背中見たらなんとなーくそう思ったんだ」
「……私はまだ、そうは感じてないです」
「夏鈴ちゃんはそう言うよね、やっぱり」
目を逸らして遠いところを見る藤吉。小林はそんな返しをされるような、そんな気はしていた。
「なんか、前もこうやって肩並べて話したね。あの時は夏鈴ちゃん。泣き出したけど」
「ねえ、もうやめてくださいその話は」
つい数週間前に話は遡る。
藤吉はセンターになってからと言うものの、日々自分を追い込むような自主練をしていた。
それは藤吉なりの責任感からくるものだった。
「夏鈴ーご飯食べにいこー!」
「……ごめん、今日はパス」
「えー、ダメなん? 天ちゃんは夏鈴と一緒にいたいのにー!」
「また今度ね。てかいつから自分のこと天ちゃんって呼ぶようになったん?」
その時、藤吉は少し苛立っていた。しかし明るく話しかけてくる天のおかげか、少しは気は紛れた。断ることに申し訳なさを感じつつも、その場を後にした。
(あかん、なんか体が思うように動いてくれない。こんなやったっけ? 前はもっと……。もっとなんかこう、ちゃんと動けてた気がするのに)
これまで大役を任せられることは何度かあった。しかし、今回は違う。自分がシングルのセンターになる。改めて意識すると、こんなにも気持ちが苦しくなるものだと、藤吉はそのプレッシャーを再認識したのだ。
(ひかるや、天。保乃もれなあもこんなのと戦ってきたんやな。私は……なんにも分かってなかった。……みんなが帰ったらもっと練習しないと。天達がおったら、付き合うにきまっとる)
せっかくどこかに行こうとしてるのだ。水を刺してはいけないと思った藤吉は、その場を離れ、みんなが帰るまでどこかで時間を潰すことにした。
藤吉は外に出て空気を吸う。日はすっかり落ちて、昼間の暑さなんて感じられなかった。
「夏鈴ちゃん。散歩?」
「由依さん。お疲れ様です。そんなとこです」
小林は今まさに帰り際というところだろう。藤吉は笑って挨拶する小林に笑顔で応対した。
「んー? 夏鈴ちゃん。何か悩んでる?」
「え。な、なんもないですよ?」
「嘘。私にそんな作り笑いが通じると思ってる?」
小林は目を細めて、明らかに不満な顔を浮かべた。
「……由依さん。センターってこんなにきついんですね」
「なんだ、それで悩んでたのか」
「なんだとはなんですか」
「だってセンターだからって一人でやってる訳じゃないでしょ?」
「そりゃあ……そうですけど」
そうじゃない。本当はそうじゃないと言いたいが、藤吉はうまく言葉にできずにいた。
「……ちょっときて」
「え、わ。ちょっと。なんですか」
藤吉の腕を引っ張って、小林は再びスタジオの中へと向かう。突然の行動に戸惑ったが、逆らうでもなく、藤吉は身を任せるように小林についていく。
室内に戻ってくると、まだ明かりはついている。誰かいるのだと藤吉はすぐに分かった。小林は中には入らず、扉の前に藤吉を立たせた。
「ねえ、最近夏鈴元気ないね」
聞こえてきたのは天の声だ。藤吉は扉の前に座り込み、聞き耳を立てた。
「どうせ夏鈴ちゃんのことやから悩んどるんよ」
次に聞こえたのは保乃の声。どうやら先ほどの面子がまだ残っていたようだ。
「じゃあ明日、夏鈴連れて励ます会やっちゃう?」
ひかるだ。ひかるの声に同意を示すようにその場にいた二期生たちは騒いでいる。当然その声は藤吉たちにも届いている。
「私、藤吉さんを笑わせるネタ考えてきます!」
「多分それ逆効果やで〜?」
「こうなったら一期生さん達にも協力してもらお!」
「じゃあ私はぽんぽんにお願いしよっかな!」
皆それぞれ藤吉のことを思い、何ができることはないか、一つずつ案を出し合いはじめた。自分達なりに、藤吉を支えようとだ。
「夏鈴ちゃん。良い仲間を持ったね。武元は後でしばくけど」
「……はい」
「夏鈴ちゃんには私達がついてる。大丈夫。絶対守る」
「はい……」
夏鈴の目からは涙がこぼれる。それを隠すように片手で顔を覆い、ただうずくまる。そんな様子を見て小林は夏鈴の頭を撫でる。
「あ! そこに誰かいるんですか!?」
ドタドタと走ってくるのは増本だった。小林はしまったと言わんばかりに苦笑いを浮かべる。
「小林さん! それに藤吉さんじゃないですか!? なんで泣いてるんですか!!?」
その声を聞いた二期生一同は瞬く間に藤吉のところに集まる。
「どうしたん!? 夏鈴ちゃん!?」
「なんもない……っ! なんもないから……っ!」
「なんもないわけないじゃん! そんなに泣いて……」
「泣いてへんもん……っ!」
ということがあったのだった。その後は近くにいた小林があらぬ疑惑をかけられたものの、すぐにその誤解は晴れた。日頃の行いのおかげである。
そして現在。
「あの時は、だいぶ泣いてたねー?」
「もう覚えてないです」
「私達はちゃんと覚えてるよー?」
「もう、からかわんといてください」
「ごめんごめん。あ、雨止んだ」
「……ほんまですね」
傘からソッと手を出して雨を確認する藤吉。小林の言う通り、すでに先ほどの雨は止んでいた。とはいえまだ曇り空だ。いつ振り出してもおかしくはない。
「そろそろ帰ろっか。夏鈴ちゃん? 今日は一緒に寝てあげようか?」
イタズラ心が小林をそうさせたのだろう。ニヤニヤした顔で藤吉を見つめる。しかし、藤吉もやられっぱなしでは終わらない。
「由依さん。失礼します」
「え? ちょ、きゃ!」
傘を閉じ、手にかけると、そのまま藤吉は小林を横抱きで持ち抱えた。
「由依さん、かわいいですね」
「う、うるさい。いいからおろして……」
「嫌です。このまま部屋まで運びます」
「ね、ねえ。恥ずかしいってば」
「誰も見てないですよ。それに、ライブでもやったじゃないですか?」
「それはそれ!」
顔を赤らめて小林は抗議するものの、聞き入れる様子はないようで、夏鈴はそのまま歩き出した。
「……さっきの訂正。夏鈴ちゃん、強くなったんじゃないや」
「じゃあなんですか?」
「生意気になったんだよ」
「ふふ。またまたあ」
「うざ〜」
諦めたように小林はため息をつくと、しっかりと藤吉の首に回していた手をぎゅっと力を入れた。
自慢の後輩がこのツアーを超えて、また一つ成長したと口には出さないけれど、そう感じた小林は、夏鈴の胸に顔を埋めた。嬉しそうな顔を夏鈴に見せないように。