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早く着いたら賃金をはずむと言ったのが功を奏したのか、三十分足らずで目的の学校に到着した。
「良い手綱捌きだった」
私は御者の手に金貨を一枚握らせる。「ありがとうございます、旦那さま。わたくしはだいたいあの通りに居りますから、これからも御贔屓に」と彼は恭しく一礼した。オブライエンはしきりにスカートの裾をちらちらと見ている。常日頃見た目に細心の注意を払っているだけに、泥が跳ねていないか気になって仕方ないのだろう。
「火急の用でもないなら次はブルームかランドー(どちらも二頭立ての四輪馬車)にしてくださいね!」
……等とぷりぷりしていたオブライエンだが、敷地内に人の姿を見つけた途端に澄ました顔で淑やかに歩き始めた。
「あの、モラン先生は居りますでしょうか」
「モランですか。ええと、今日は午前の講義だけで……もう帰ったようですねえ。あの、彼にどんな御用でしょうか」
「いえ、大した用ではございませんの。モラン先生とはちょっとした知り合いで、彼が居るならこの学校の案内を頼みたかったのです。あの、見学は可能ですか?」
「見学ならどうぞご自由になさってください。敷地内至るところ、作品が飾られておりますよ。生徒が制作したものもありますから、是非ご覧になってください」
「まあ嬉しい。楽しみですわね、伯爵」
「伯爵?」
事務員がびっくりしたような顔をしている。
「父の代までは。今の私は爵位を持たぬ一介の市民ですが、周りが面白がってそう呼ぶのです」
「は、はあ……では『伯爵閣下』、宜しければ私が案内をしても?」
茶目っ気ある申し出を無下には出来ない。
「では、頼む」
私が鷹揚に頷けば、「お任せください」と事務員は胸を張った。
「……で、あちらに飾ってある婦人画がジャン=ジャック・モランの作品です」
事務員はホールや柱の前に設置されている彫像や、壁に飾られている絵画について、これは誰それの作品だと説明して回ってくれた。オブライエンをカフェで口説いたとかいうモラン氏の絵は、意外にも優しく穏やかな雰囲気の色彩とタッチである。
「人の良さが滲み出た絵だ」
言い換えれば『それくらいしか感想を思いつかない』作品ではあった。
「当人も『自分は平凡なものしか描けないんだ』と苦笑しておりましたね。私はわりと、彼の作品が好きなのですが……難しい世界です」
「おれも、こういう絵を描くやつは嫌いではない。うちの店に飾るには、ちと明るすぎて相応しくないが」
「本人が聞いたら喜びますよ」
「ところで、こちらには妖精のブロンズ像があると伺ったのですが……」
にこにこと黙って事務員の説明を拝聴していたオブライエンがおもむろに口を挟む。
「ああ、学院長先生の〈ニンフ〉ですね! アルマンド・リナルディの原点とも言うべき作品ですよ。こちらです」
事務員の先導で、渡り廊下で繋がった別棟へと案内された。大きな窓いっぱいに外の景色が映っている。梢から射し込む光が部屋全体を柔らかな緑に染め上げていた。
「〈ニンフ〉はこの部屋に……あら」
部屋には既に先客がおり、ひとりはブロンズ像を前にカンバスとにらめっこしている若い男性、もうひとりはすこし離れた後ろに立ちその様子を見守っている五十過ぎの男性だった。事務員が声の調子をやや落として「学院長先生」と呼び掛ける。
「ミス・ガーネット。どうしたね」
記憶より些か老けているが、彼がアルマンド・リナルディであることを私は思い出していた。
「見学のお客さまを案内しておりました。先生の〈ニンフ〉を是非見たいと仰るので、こちらに」
「〈ニンフ〉を……?」
そこで彼は私とオブライエンに目をやると、もう一度私の顔に視線を戻す。
「はじめまして。私はクロード。彼女は秘書のユージェニー。お目にかかれて光栄です、ミスター・リナルディ」
差し出した手を握り返す力は頼りなかった。年齢による衰えではない。私に対する不審からだ。
「……失礼ですが、五番街の裏通りで骨董店を営んでいらっしゃる〈伯爵〉ではありませんか……?」
半ば予想通りの質問に、私は最大限友好的な笑顔を作る。
「ははは。よく間違えられるのですが、おそらくそれは父のことでしょう。そんなに似ていましたか?」
「え、ええ……父上には一度お会いしたきりですが、貴方によく似ていたように思います。いや、いきなり不躾でした」
リナルディ氏は首を振って苦笑した。消化しきれない疑問を無理矢理霧散させようとするかのような仕草だった。
「お気になさらず。私も昔を知る方から父の話を聞くのは嬉しいですから」
「そう仰ってくださるとありがたい。ところで、〈ニンフ〉を見にいらしたとか」
「はい。あの像が一時期当店にあったのを父から聞いていたもので、懐かしいのと、興味がありましてね」
「なるほど。あれは私が今よりもずっと未熟な時分に制作した作品ですが、それでも当時はあらん限りの情熱を注いだものです」
「……先生、伯爵。私は一度戻らせて頂きますね」
「ご苦労だったね。ミス・ガーネット」
「はい。……伯爵、ミス・オブライエン。私はこれで失礼しますが、お困りのことあれば事務所までお申し付けください」
ここまで案内を務めてくれた事務員は一礼すると退室した。ついでにブロンズ像の前に陣取っていた学生も画材道具一式を纏めて立ち去ろうとしている。「邪魔をしたか。済まないな」と言えば、彼は無言で首を横に振り小さく会釈してからそそくさと部屋を出ていった。
「内気なことだ」
「彼は伯爵が入室する前から筆が乗らないようでした。よい頃合いと区切りを付けたのでしょう」
なるべく他者が介在しない状況でブロンズ像を鑑賞したかった身としては何であれありがたい。私(とオブライエン)はようやく目的の作品に近付いた。
「……やはり、普通のブロンズ像だな……」
ぺたりと座って足を崩したポーズの、少女の姿をしたブロンズ像である。やや上体をかがめて下を覗くような格好をしていた。水面に映った自分の姿を見ているとも、深い思索に耽っているともとれる姿――だが、彼女は何も見ていないし、また何も考えていないのだと――私は知っていた。少なくとも、人間が共感できる思考を妖精は持ち合わせていない。
「これは、ちぐはぐですねえ……」
隣に並ぶオブライエンが小さな唸り声を上げた。
「どういう意味だ」
「妖精を模したブロンズの体に、人間の魂を内包しているんです、〈これ〉。ああ、たしかに伯爵が分からなかったのも無理はありません……対妖精に特化した貴方の眼では、〈この子〉を捉えることができなかった……」
「妖精のしわざか?」
私の問いに、オブライエンは美しい顔を皮肉に歪め、吐き捨てた。
「そうです。少々風変わりではありますが、これは〈チェンジリング〉。妖精による誘拐、取り替え子の被害者ですよ」
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若き日のアルマンド・リナルディが創作に行き詰まっていた折、故郷の泉に佇む美しい妖精の姿を元に作り上げたブロンズ像。生活に困窮した彼が泣く泣く手放したそれは、とある大富豪の手に渡った。
「金持ちの道楽といいますか、まったく金にあかせてとんでもないことを考えたものですわ。妖精の魂をブロンズ像に封じ込めるとは」
「案外、孤独を癒す話し相手が欲しかっただけかもしれんぞ」
「はん、妖精が人間の手に負えるものかよ。悪趣味の代償は孫娘の命とは高く付いたもんだ」
「オブライエン。口調。おれは一向に構わないがね」
私が指摘するとオブライエンは「あら」と口元を揃えた指先で押さえる。この養い子も、チェンジリングの被害に遭ったばかりに肉体と精神が〈ちぐはぐ〉になってしまった。二十年以上もブロンズ像に幽閉された哀れな娘に、自分たちを重ねているのかもしれない。
「今回は人間に非があるとはいえ、邪悪に過ぎます。……やっぱり、あの泉の妖精、駆除したほうが宜しいのでは?」
「やめておけ。妖精の呪いは厄介だ。とくに、死の間際に遺すものはな。さしあたっては無害だし、リナルディ氏と彼の学舎に通う芸術家の卵にとって〈あれ〉が幸運と閃きをもたらすミューズなことに違いはあるまい」
「これから先も無害である保証はありませんよ」
険を含んだままの店番兼秘書兼同居人を宥めるように、私はこう締め括った。
「囚われの少女は解放され、今頃はジェイコブス・ラダーを上っている筈さ。たしかに途中は悲劇だったが、穢れなき魂が天上に召されるのは、血腥い復讐譚で終わらせるよりわるくないと思うがね。さあ、わかったらおれに珈琲を淹れてくれないか」
《おわり》