「僕だけがいない街」は、2016年3月に公開された、三部けい氏作の同名漫画の劇場版である。
漫画も映画もタイトルが同じなので、映画版は、「僕だけがいない街(映画)」と表記する。
2017年7月11日に、フジテレビで放送されたのを、昨日見た。
今回のブログは、このテレビ放送バージョンを基に書いている。
「僕だけがいない街」の原作漫画については、2016年5月にブログに書いたが、本当に夢中になって読んだ漫画であった。
その後、「僕だけがいない街 Another Record」も読んだし、「僕だけがいない街Re」が収録された第9巻も購入した。
映画は、原作への思いが強かったこともあり、お金払ってまで見に行かなくてもいいかって感じで見に行かなかった。
今回、テレビ放送されるということで、録画しておいたのをやっと見ることができた。
ストーリーは、ヒロミが登場しないなど細部が違ったり、割愛されている部分もあるけれど、ほぼ原作通りに進む。
しかし、深いところまで描かれていないし、キャラクターの内面の声や心情などを掘り下げていないため、ストーリーをただ追っているという印象を受けた。
これは、2時間という上映時間ではしかたがないと思われる。
原作を読んでいるから、ストーリーは頭に入っているし、登場人物の心情も知っているので、そこは補いながら見ることができた。
演じている俳優も、原作とは当然イメージが違う面はあるのだが、有村架純氏の愛梨も、石田ゆり子氏演じる母佐知子も、それぞれ映画版として、漫画とは違う別の魅力を放っていた。
特に印象的だったのは、鈴木梨央氏が演じた雛月である。
見ていて、思わず感情移入してしまうほど、魅力的な雛月になっていた。
映画が制作されていた時は、まだ原作が完結していなかったこともあり、悟が八代に殺されかけるところあたりから、大きく変わってくる。
原作と違い、悟は、かなり八代に対して疑念を抱いているのにもかかわらず、八代の車に乗ってしまい、しかも、シートベルトで固定されているわけでもないのに、逃げたりせずに、車を降りて、八代についていってしまっている。
これは、悟(中身は29歳だし)らしくない。
そして、原作では、植物人間状態で、ずっと時間が経過していくのに、映画版では、そこから、2006年のバイクに乗っていてはねられ病院にいる場面に、「再上映」(?)している。
原作でも映画でも、昭和63年に最初に行って失敗した後に、2006年に一回戻っているから、未来に行くのも絶対におかしいというわけではないのだが、その時間軸では、悟が八代に突き落とされたという事実がどうなっているのかがはっきりと描かれない。
突き落とされたのにもかかわらず、危機は回避したかのように未来に戻っているのはおかしいし、八代が犯人だと知っているのであれば、大人になるまで何もしないというのも不自然である。
突き落とされて、未来に行ったのにもかかわらず、その突き落としたという事実が、その時間軸ではなかったことにしないと説明がつかない。
この辺がすっきりせず、モヤモヤしたままで、ラストまで行くというのが、今一つの感を受けた。
別に、植物状態でもよかったのではないか。
そして、最後、原作のような緻密で巧妙な罠のシーンはなく、なんと、悟は八代にナイフで切られ死んでしまう。
「再上映」した結果、自分が死んでしまうというのは、危機を回避するために起こる「再上映」という原則に反する。
途中までは、映画は映画なりに面白かったのだが、後半の展開は、ちょっと何だかなって感じがした。
原作の魅力を活かすのには、映画というのは、ちょっと無理があったのかもしれない。
「僕だけがいない街」は、2017年12月に、Netflixでドラマ化された。
全12話で、約6時間、これくらいの尺は必要だと思う。
いろいろ思うところはあったけれど、映画を見ることで、久しぶりに「僕街」の雰囲気に触れられ、本当に記憶に残る漫画だったということを再認識させられた。