【過去の経験】からしか起こる結果を想像できず、
飛び込んだ先にどうなるのかが解らないから
怖くなって飛び込めない。
そういうときってありますよね?(ないでしょうか?)
ちょっとした変容なら怖くないんだけど、
……というか、日々少しずつでも変容していっているのだし。
今まで、とんでもなく怖い時もあったけど
いつも最終的には飛び込んで行った。
「えいや!」っと。
勇気を振り絞って頑張ったり、
誰かに背中を押させるように仕向けたり。
縁起によって、飛び込まざるをえないまでの状況を創造したり。
あまりにも自分自身の根底の部分で、
【情動】が動かされるようなことに対しては、怖くってしょうがない。
色々と考えちゃうんですよね。
過去の経験で、辛い目にあったとか、
同じようなことをやっている人が大変そうだから
自分もそうなるんじゃないかとか。
相手のあることだと、
更に過去からの情動が湧き出ては邪魔をする。
「この人、以前はあんなことを言ってたよな」
「あんなふうな態度をとられたよな」
「あの時、あんなことをされたから信じられない」
「なんであんな態度をとったくせに、今更違うことをいうの?どういうつもり?」
……誰だって、毎日、毎時、生まれ変わっているのにね。
み~んな以前のままの、過去の枠組みの自分ではないのにね。
過去にどうであったかよりも、
これからどうするのかを見るだけでいいのにね。
未来に向かっての関係性を
改めて築いていくことが怖いのは、
「またすぐに壊れるんじゃないか?」
「どうせ上手くいきっこない」
「一瞬変化したって、また戻るんじゃないの?」
「きっとまた悲しい思いをするだろう。。。」
こんな風に、上手く行っている自分を想像できないからかも?
じゃあ、その根底にあるものを観てみようかな。
・・・・・・・・・・
う~ん。やっぱりそうか。
これは、その人との関係性というよりも、
【私】と【自分】の関係性の話だ。
【私】とは、抽象度を上下して観ることの出来る存在。
【自分】とは、抽象度が肉体レベルの物理次元の存在。
・・・・・・そんな風に分けています。
抽象度が低い思考にハマると、
【私】も【自分】も同一のところの視点になる。
【物理次元】からの視点のみ。
おもいっきり情動が動いている中でコントロール不能状態。
怒りの真っただ中にいたりする。
悲しみの渦の中で孤独だとさまよっている。
色々と学んでいいると、
【情報空間の視点】である【抽象度の高い視点】もあることを知り、
トレーニングしていると、それを見に行くことが出来るようになった。
けれど、
まだ「正しく観る」ということが出来ていないのを感じる。
何故かというと、情動をコントロール出来ない時があり
それは先に言った【恐怖心】が湧いてきたとき。
そして、何度も気付いているけど
抽象度の低い思考にはまってしまう時がある。
う~ん。。。
今まで、
私は、自分自身を大事にしてこなかったな。
私は、自分の本当の気持ちを無視して生きてきたな。
私は、自分の喜ぶことより、
周りの人が喜ぶことを優先することで
【自分の存在意義】を見出していたな。
それはなぜって?
親の顔色を伺いながら、
親の機嫌が良くなることをしてきて
親が望むことを読み取って行動し
親からどう思われているのかが一番の重要事項だったから。
あはは。やはり、
「まずは親を超えなさい」……です。
親に見放されることの【恐怖心】ですよ。
特に子供時代は、親に自分の生命を守ってもらえなかったら
死んじゃうかもしれないんだから、必死ですよ。
だから、自分の本当の気持ちを大事にしてこなかった。
好きなことを自由に、好きにやっていいと思えなかった♪
もうオトナなんだから、自己責任の上で、
自由に好きなことをやっていいのにね~!
な~にやってんだか!
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と、止観瞑想中の私の頭の中はこんな会話。
抽象度を上がったり、下がったりしながら、
あらゆる視点で【自分】と【私】を見ていたりします。
いいか悪いか評価せず、ただ【観る】だけ。
そして、
学んできた知識を使うのは、止観瞑想しているとき。
冷静に、抽象度の低い自分に語りかけるのは、
抽象度を上げた思考をする【私】。
止観瞑想しながら、
抽象度の高い思考の出来る人と話したことや
私には見えていない視点から話をしてくれた人の言葉を思い出す。
そういう人は、コーチと呼ばれるような存在かも。
コーチ。大切ですね。
それと同時に思うのは、
高い抽象思考ができるには、リラックスも大事。
心も身体も緩めることのできる環境での止観瞑想。
自分には見えない視点から観て、話をしてくれるコーチ。
成長に必要なのは、これだな~と思います。