僕がいま住んでいる街は、タタールスターン共和国の首都、カザン。

8月30日はカザンの日だった。

国のなかに国があるという状況は、考えてみるとおもしろい。

 

ロシア連邦には200種類近くの民族が暮らしている(らしい。きっかりと数えられるようなものでもないだろうが)。

ロシア連邦の国民の81%はスラヴ民族、人数にすると一億人強。

その次にくるのが「ロシア最大の少数民族」タタール人。人数は500万人くらい。

 

そのヴォルガ河沿いに暮らすヴォルガ・タタール人の国が「タタールスタン共和国」で、その首都が僕の住んでいる街、カザン。

 

なぜタタールスタン共和国の記念日は8月30日なのかというと、ソビエト崩壊前の1990年の8月30日に、共和国がソビエト連邦からの独立宣言をしたから。

つまり、ソビエトが解体してロシア・カザフスタン・ウクライナ・・・と分裂するときに、タタールスタンも一つの国として独立することを目指したということ。

残念ながらそれは叶わず、タタールスタンはロシア連邦に取り込まれたまま今に至る。

 

ということはこの祝日は、「タタールスタンはロシアから独立するぞ!」記念日ということになる。

これはロシアとしては黙認しているのだろうか。

当然クレムリンからのある程度の圧力はかかっているのだろう。

今のタタールスタンのトップは、ロシア政府とべったりだとかいう話も聞く。

みたところ「タタールスタン文化祭」みたいな、平和的な雰囲気しかない。

 

カザンの街は今年で1019年目らしい。ということは1005年からここに街があったということになる。なぜ1005年なのか、調べてもはっきりとしない。発掘調査による考古学的な根拠があるらしい。

因みにモスクワは1147年にできたとされている。

「カザンはモスクワよりも古いんだぜ、俺たちモスクワの子分じゃないんだぜ」みたいな対抗心が、ありそうな気がする。

 

 

カザンの人口は100万人ほどで、その半数がタタール人。

街の標識や店の看板はロシア語とタタール語の二原語で書かれていることが多い。

交通機関の車内放送も、まずロシア語、次にタタール語、その次に英語。

少し離れた村まで行けば、タタール語だけしか使われないような村もまだ残っているらしい。

 

最近よく会っている女の子が純血のタタール人で(以外と珍しい)、いろいろと質問している。

母方の家族はタタール語が下手くそなんだとか。

でも父親はタタール語が上手で、父方の親戚が集まるとみんなタタール語で話すらしい。

家庭内の会話はロシア語だけ。

だから彼女はタタール語をほとんど知らない。

 

彼女はかなり若いので、いまの若い世代はもうタタール語を知らないのかもしれない。

僕と同じくらいの年齢の人となると、タタール語を上手く話せはしなくても一応理解はできるという人が多い。

 

でもいま世代の家族が、家庭内でタタール語を使うというは聞いたことがない。

僕等の父親・母親世代が子供だったころは、家庭でもまだタタール語が話されていたんだと思う。

実際、今のお爺さんお婆さん世代は、街中でもまだタタール語で会話している。

ということは、僕らの世代(今の20代)が、普通にタタール語を知っている最後の世代ということになるのかもしれない。

 

正直僕にはタタール人とロシア人の区別がつかないことが多い。

彼女とも、最初はロシア人だと思って付き合っていた。

まぁいわれてみれば、タタール人に見えなくもない。でも僕にはその程度の違いにしか見えない。

日本で有名なザキトワとワリエワは、ロシア代表として出場しているが、実はタタール人。

 

 

街中ではまだタタール語がよく聞かれる。たとえば大学の事務員さんとかは、お互いにタタール語で話す。タタール人の学生には、親しみを込めてタタール語で対応するところもよく見かける。

僕にも一度、お婆さんが親しみを込めてタタール語で話しかけてくれた。もちろん僕には分からなかったけれど、とても嬉しかった。

 

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以下、タタールスタン共和国の歴史をすこし。

 

7世紀「ヴォルガ・ブルガール国」国民は現在のヴォルガ・タタール人の先祖

10世紀 イスラーム教を受容

1230年代にモンゴル帝国によって陥落した。

1430年代にイスラム王朝「カザン・ハン国」として独立、そのときに首都としてカザンが建てられた。王家はモンゴル系の民族で構成された。国民はカザン・タタール人など。

1552年イワン雷帝の治世に、「ロシア帝国」によって攻め落とされた。

1917年革命の混乱に乗じて「ヴォルガ・ウラル国」を建国

1918年ヴォルガ・ウラル国が赤軍の攻撃をうけて消滅

1920年に「ソビエト連邦の自治共和国」となった。

その後の二年間、ソビエトの戦時共産主義政策の結果飢饉が発生して、50~200万人が餓死。ヴォルガ・タタール人の人口の半分が死んだ。その間、共産党への反乱運動が続けられたが暴力で抑え込まれた。

1929年チェーカーによって数千人の反乱分子が処刑され、反乱運動は消滅した

 

1990年共和国としての主権宣言

1991年ソビエトが解体するも、自治共和国としてロシア連邦の中に残留

2023年タタールスタンの大統領が首相に改名された(これによって、ロシア国内で大統領を名乗るのはプーチンただ一人になった)