初めまして。
コロナ休業で暇になった風俗嬢が、今までの人生を綴ってみました。
風俗嬢が世間から忌み蔑まれているのは知っています。
色々と批判もあると思います。
罵詈雑言を吐いて、ストレスの捌け口にでもしてください。
それを読むのも、今の私にはいい暇つぶしになるでしょう。
気が向いたら他の記事を書くかもしれません。
それでは、どうぞ。
① 誕生、そして死。
私の父は歯科、母は整形外科の共に開業医という、
そこそこ裕福な環境に誕生しました。
近所でも目立つ大きなお家で、望めば大体のことは叶えてもらえる家庭でした。
夏休みはクラスのお友達を連れて別荘に、
冬休みにはオーロラを観にカナダに、
誕生日にはジュエリーセットを貰ったり…etc
豚に真珠、猫に小判、馬の耳に念仏、犬に論語、他に何かあったかな…?
とにかく、当時の幼い私には、勿体ないくらいの贅沢な経験をたくさんしてきました。
友達からも羨ましがられ、なんでも願いを叶えてくれる両親が私の自慢で、
きっとこのまま平穏に育って、私も両親と同じような人生を歩むと思っていました。
しかし、そんな甘い考えも儚く、
ジュエリーセットよりも大切なものを亡くします。
私が13歳の時、父が亡くなります。
高齢だから亡くなってもいいわけではないですが、
43歳で心筋梗塞による突然死。
もう一度書きますが、私はまだ13歳です。
しかも、私の目の前で亡くなったのです。
穏やかな父がいきなりテーブルを叩いたかと思ったら、
呻き声をあげながら椅子から崩れ落ちた様子、今でも鮮明に覚えています。
母は幼い私に、「悪いことをしたら、お空にいる神様から罰が当たるよ」
そう言ったことがあります。
父を亡くした当時、中学生にもなって本気で神に問いました。
「お父さんは、どんな悪いことをしたの?」と。
いつも優しくて、
仕事や勉強に真剣で、
色々な人から慕われて、
料理や絵が上手で、
お母さんとも仲良くて…。
我が身の素行も振り返りました。
しかし、これでも実は真面目で、我ながら色々と頑張っていました。
ちょっと有名な私立の中高一貫校に入り、
習い事では、ピアノのコンクールで2回受賞、水泳でも大会で賞を貰いました。
死ぬ気ではなかったかもしれないですが、
今同じ事をしろと言われたら、きっと泣いて断るでしょう。
もちろん、万引きやいじめ、そんなこととも無縁です。
両親や親戚に反抗したこともありません。
お友達と喧嘩をしたこともありません。
しかし、父は亡くなりました。
(不思議と母の素行だけは疑いませんでした…。)
よくある言葉ですけど、人生は本当に残酷なものです。
さらに、これだけでは収まりません。
母は精神が崩壊し、箸も使えないくらいに手が震えて入院することになります。
両親が営んでいたクリニックも結局手放し、築き上げた仕事と家庭は崩れ去ります。
そして私は、すぐに平常心に戻り、祖母の下で新生活を迎えます。
② 発奮、そして大海。
色々と災難があったわけですが、なぜ私はすぐに平常心に戻れたのか。
結論から言うと、他のことで気を紛らわせていました。
私が通う私立中学は某進学校、私には不相応なほどハイレベルでした。
地元では皆から、「Sちゃん(私)は賢いよねー」と言われ続けてきた環境が一転、
英語が喋れる中学生、数検・漢検1級を持つ中学生、センター試験を解く中学生…etc
公立出身の私と、私立出身が大半のみんなでは次元が違いました。
今思えば、これは言い訳ですね。
単に私の努力が足りていなかったのです。
初めて受けたテストでは平均点以下、得意の水泳も大して目立てず、
ピアノもコンクールで準優秀賞を取っていた人が実は先輩だったり。
(大海と言いつつ実は世の中狭いのでは…)
どこか慢心していた私も、お受験勉強で学んだ「井の中の蛙、大海を知らず」
この言葉を痛感したわけです。本当にいい経験です。
でも悔しくて、本当に悔しくて、
努力が反映されていない結果に目の奥が熱くなりました。
しかし、井の中で築いたちっぽけなプライドが私を発奮させます。
必死に勉強と部活を頑張りました。
中学3年生になる頃には周りとの学力差も感じなくなりました。
部活の水泳でも賞状を貰いました。
でも、ここまで取り組めたのは、ちっぽけなプライドだけではありません。
薄情かもしれませんが、勉強や部活をしていると、
両親のことを忘れることができて気が紛れたのです。
コロナ休業中の今の私のように、暇を持て余すと余計なことを考えてしまうので、
公立の中学でのんびりと過ごしていたら、きっと私も病んでたでしょう。
こんな状態で中学の3年間を過ごしますが、中学生活を総評すると、
友達はみんな優秀で、大人で、自分に無いものをたくさん持っていて、
新たな価値観や刺激を受けることができて、非常に有意義なものでした。
この努力が報われて、高校へはエスカレートで進学、晴れて夢の女子高生になります。
③ 開花、そして乙女。
無事に女子高生に昇格した私ですが、相変わらず勉強と部活は全力で取り組みます。
クラス行事にも積極的に参加し、生徒会にまで入っちゃいます。
しばらくして、母も気分が落ち着き、祖母の家で母も一緒に生活をするようになりました。
亡くなった父もきっと天国で喜んでくれていたでしょう。
私もふとした瞬間に訪れる不安な気持ちが、かなり解消されました。
すると、今度は私の中で張り詰めた糸が緩み、「遊びたい!」と強く思い始めたのです。
両親には散々甘やかしてもらいましたが、それでもやることはやってきました。
小学生の頃には皆が楽しそうに遊んでる間も、必死に勉強や習い事に精を出しました。
別に強制されていたわけではありません。
幼い頃の私は、整形外科も歯科も「お医者さん」という一括りで、お医者さん=賢い。
そんな考えから、憧れの両親のようになるために必死だったのです。
両親も、私に立派なお医者さんになってほしいと言ってくれました。
しかし、この頃にはお医者さんになりたいという気持ちはありませんでした。
普通に勉強して、普通に大学に行って、普通に恋愛して、普通に結婚して、
普通に子供を産んで、それが幸せ。それが理想の人生だと思い始めていました。
(もしかしたら両親を追いかける努力に疲れていたのかも…)
更に、今の環境はある程度の成績を維持すれば、推薦で大学にも行けます。
つまり、必死になって勉強をしなくてもいいのです。
また、母は整形外科医だったので、メイクやファッションのことにも詳しく、
その影響でオシャレな小物を身に着けたり、メイクを始めました。
そう、「女子高生デビュー」をするのです。
もちろん、そこそこの進学校で派手な化粧をしてくる子なんてほとんどいません。
していても、ちょっとファンデーションで肌を綺麗に見せる程度です。
そんな中で私は、髪をカールさせ、涙袋を強調し、アイラインもバッチリで、
チークもリップも可愛い色に、ちょっとだけお高い香水を纏って…。
予想通り、先生から指導を受けます。
怒りではなく、「どうしてしまったのか?」そんな感じでした。
だって、これでも生徒会役員ですから。
でもすごく楽しかったのです。
今まで男子を意識したことなんてなかったのに、
ネットで「男ウケ メイク かわいい」、何度このワードを検索したことでしょうか(笑)
勉強はほとんどしないで、生徒会も最低限の仕事をこなすだけ。
初めての恋人と一緒にいる時間を何よりも優先していました。
今思い返しても、この時が人生のピークです。
楽しくて、嬉しくて、幸せで、授業中もずっと上の空です。
そんな私を母は咎めることもなく、一緒に洋服を買いに行ったり、メイクを教えてくれたり、
どこか今までよりも嬉しそうに見えました。
そんなある日、朝食の用意をしていた母に異変が起こります。
咳をした拍子に大量の血を吐いたのです。
④ 遺失、そして躍起。
ステージⅣ、膵臓がん。
さらに、膵臓から転移したと思われる胃がんが原因で吐血。
余命を聞いたら、「今すぐ覚悟を決めてください」それだけを言われました。
本当にツイていないです。
正直、父が亡くなった時よりもショックでした。(お父さん、ごめんなさい)
女子高生デビュー、そんなにダメでしたか?
神様にはもう少し、手加減を覚えて罰を与えてほしいものです。
母はもちろん、今まで通り自宅での生活を選択しました。
不思議と祖母は母の様態をスムーズに受け入れました。
何故なら、以前から母と祖母はがんのことを知っていたのです。
母は私にがんのことを隠し、ようやく乙女になった私に心配を掛けたくなかったようです。
悲しみよりも、打ち明けるに値するほど強いと思われていなかった自分が情けなく、
遊び惚けていた自分に対して、言語化できない感情に苛まれます。
母と言葉を交わす度に、「この言葉を交わすことは、もう2度とないかもしれない」
そう思ってしまうと、まともに話すこともできません。
しかし、これでは母の想定通り、狼狽えて弱い自分を体現しているだけです。
このままでは母も安心して父の下に行けないでしょう。
私は気持ちを切り替え、母に立派な姿を見せるために、
再び勉強に打ち込むことにしました。
目指す大学も推薦で狙えるところではなく、
もっとハイレベルな誰もが知っている某大学の「理学部」を。
そして、がん宣告の9日後、お医者さんのすごさを実感します。
宣言通り、3年間ずっと独りぼっちだった父に、母はお茶を出しに行ったのです。
父はとても寂しがり屋さんなので、母も私にだけ構ってはいられなかったようです。
お医者さんに言われた通り、覚悟は決めていました。
だけど、悲しくないわけありません。
⑤ 修学、そしてリケジョ。
大好きだった恋人とも、勉強の為に半ば強引に別れました。
私には恋愛と勉強を両立できるほどの要領の良さはありません。
自己中で本当にごめんなさい。
そういえば、ここまで読んで下さった方なら、
どうして医学部ではなく理学部なのか、疑問に思われるかもしれません。
元々は医学部志望でした。
ただ、それは両親に憧れていただけで、医学に従事したいという思いは
微塵もありませんでした。
中学の後半で物理という科目が増えました。
球を転がしてみたり、時にはお猿さんに投げつけたり、様々な事象が数式で解明される
そんな様が非常に面白く、数学を具現化しているように思えました。
(お猿さんの話は、「物理 モンキーハンティング」で検索してみてください)
元々、理数科目が得意だったので、それなら得意科目をもっと突き詰めたいと思い、
理学部を志望することにしました。
そう、俗に言われる「リケジョ」になるのです。
目標が決まれば、あとは勉強に打ち込むだけです。
学校の授業も高2の半ばで一通り終わり、受験モードに切り替わります。
学校のトイレで鏡を見る度、髪の乱れを気にしていた私も、
今となっては寝癖も手櫛で直して終わりです。
ボサボサの髪の毛で、目の下にクマを作って登校。
毎日ひたすら勉強。とにかく勉強。
苦手だった文系を中心に取り組み、息抜きに数物。
時には模試で悪い結果もありました。
ストレスなのか、口にした食事を反射的に吐き出す時もありました。
それでも手は止められません。
1秒悩むなくらいなら、1秒長く勉強します。
そして、願い叶って、目標通りに第一志望の大学に合格します。
学校の受験に対する雰囲気とサポートは本当に強力でした。
受験者番号が張り出された掲示板の前で、私1人だけ写ってる写真があります。
この時、合格したのに何故か悲しくて、久しぶりのメイクも涙でひどい顔です。
⑥ 飛翔、そして新天地。
私の大学合格を聞いて安心したかのように、祖母も間もなく亡くなりました。
まだ77歳でしたが老衰だそうです。これは喜ぶべきでしょうか?
18歳にして私は両親と、その祖父母を亡くしました。
幸いなことに、大学生を続けられるだけのお金はあります。
恐らく、贅沢をしなければ普通に死ぬまで生きていけます。健康であれば…。
両親に誓ったお医者さんにはなれませんが、
これから理学部で勉強をして、勉強をして、どうするのだろう…。
そんな考えも吹き飛ぶほど大学という新天地は、私の想像を超越していました。
やりたいことはなんでもできるし、色々な分野の人間が集まっているし、
周りにいる先生たちは世界で活躍するすごい人ばかり。
こんな環境で私はどんなことを学ぶのだろうか、
どんなことを体験するのだろうか、ワクワクが止まりません。
しかし、理学部には女子がほとんど、そはもう極僅かしかいないのです。
ある程度の予想はしていましたが、ここまで女子が少ないのかと驚きました。
そして喜びも束の間、理系という男子が多い社会に身を置くことに違和感を感じ始めます。
授業の実験で同期の男子から、
「Sさん(私)、これ分かる? ちょっと難しいから俺が解こうか?」
グループでプレゼンをするときでも、
「Sさん(私)女子だから計算よりデザイン担当してよ。女子ってこういうの得意やろ」
レポートの採点でも先生から、
「本当はここも修正してほしいのだけど、んー、女子割ってことでOK(笑)」
私が自意識過剰で被害妄想をしているだけかもしれません。
しかし、男性の変な気遣いとか固定概念がすごく鬱陶しかったのです。
この頃、「リケジョ」という言葉は嫌いでした。
女医、女子アナ、女社長、女芸人、このような言葉も好きではなかったです。
(こんなことを言うと「フェミニスト(笑)」って言われるんだろうな…。)
あ、話を元に戻します。
大学に通い始め、私の夢は物理学者になっていました。
簡単に言うと、宇宙関連の測量技術を発展させるような研究がしたかったのです。
個人的に研究室を訪れて、憧れの先生の勉強会に呼んでもらったり、
先生に連れられて他大学の研究室を見学させてもらったり、
とにかく常に学びの場を求めて行動していました。
クラブにもサークルにも入らず、友達もほとんどいませんでしたが、
最先端の研究環境に囲まれて、気分はもうなんちゃって物理学者です(笑)
そして研究室に配属されてからは、希望の研究に着手できました。
幸いなことに卒論というものが無かったので、本当に研究に打ち込めたのです。
先生からも、「学部生のうちからここまで出来たら大したものだ」
そう褒めてもらい、すごく嬉しかったです。
そして、無事に同大学の大学院に進学することになります。
⑦ 落胆、そして淪落。
院に進学すると本格的なゼミが始まります。
ゼミとは週に1度、各々が自分の研究テーマに合った内容の論文を探し出し、
それを解説して研究室のメンバーから質問を受け、
その翌週に受けた質問に対する回答を考えて発表するというものです。
これが本当に大変で、質問の回答に対する先生からのツッコミが怖いのです。
「じゃあ、○○ならどうする? ××ならどうなるんだ? △△なら□□なのか?」
そんなことは知りません。
だって自分が検証した実験結果じゃないのですから。
しかし、これが研究者になるためには必要な訓練なのです。
たとえ正解でなくても、咄嗟に考え、自分の知識を総動員させて論理的な見解を述べる。
学会発表では至極普通で、これができない人間に発表の資格はありません。
そして、私はこれが苦痛でした。
別に先生に責められるのが辛いのではなく、これは研究ではないからです。
私がやりたいのは研究で、発表は喋りたい人が喋ればいい。
もっと言えば、論文を読めば発表資料なんて要らない。論文が全てなのだから。
気になることは、英語でも中国語でもドイツ語でもメールで問い合わせてくれればいい。
そんな風に思っていました。
それでも、私に海外で学会発表を行う機会が訪れてしまいます。
英語で論文を書き、英語の発表資料を作り、英語のセリフを頭に叩き込み、
学会の参加登録や論文提出、ホテルや飛行機の手配、それはもう大変です。
そんな努力も報われて、学会に提出した論文で賞を獲得します。
世界中の研究者の卵が集まる中、私の研究成果が世界で認められたのです。
本当に嬉しかった。
この時だけは、物理学者への第一歩を踏み出せた気分でした。
発表の方も必死に覚えた英語を喋り、質問にもなんとか答えました。
こうして散々文句を言いつつも、拍手を貰いながら壇上を降りた時の達成感は、
今でも鮮明に覚えています。
それでもやっぱり、研究室での活動に留飲は下りませんでした。
数式をいじり、シミュレーションを回し、最適な手法を模索し、データを解析する。
これが研究であり、私が本当にやりたいことです。
こうして学者の現実を知った私は、憧れの物理学者という存在に落胆します。
結局、私がなりたかったのは物理学者ではなく、ただの研究作業員だったのです。
別に研究作業員がダメなわけではありません。
確かな信頼をおける人間でなければ、研究作業を任せられませんから。
でも、作業員はあくまで作業員、研究者ではありません。
極端な話、理科の知識があれば、研究作業員はアルバイトでも募集されています。
ちょっと特殊なルートですけど…。
こんなことを考えているうちに、退屈な研究室での生活を避けるようになります。
当初は朝から研究室に通っていたのが、お昼から行くようになり、
家に帰る時間も、22時から21時、20時、19時…、2時間しかいない日もありました。
研究室に泊まることも無くなりました。
研究室の飲み会にも参加しなくなりました。
ゼミも休むようになりました。
これは別に珍しいことではありません。
恐らく、このような経験のある方、もしくは身近におられた方もいるでしょう。
では、今まで研究室で過ごしていた時間は何をしているのか。
ここでようやく登場、そう「風俗嬢」ではなく、「モデル」をやっていたのです。
遡ると、学会を終えて、研究のやる気も無くなり始めていた頃、
モデルのスカウトを受けていたのです。
もちろん、私が雑誌に載るような可愛いファッションモデルになるわけありません。
洋服のネット販売の試着モデルです。
母の影響でファッションには興味があったため、なんとなくでモデルを始めますが、
これが色々な洋服を着られてとても楽しかったのです。
そして、モデル仕事を通じて、今度は実際に人前に立つ「キャンペーンガール」
キャンギャルの仕事を始めます。
少し恥ずかしいですが、露出の多い可愛いコスチュームを着て人前に立ち、
本格的なカメラやスマホを持った様々な男性に写真を撮られる。そんなお仕事です。
もはやコスプレイヤーと言っても過言ではないでしょう。
そんなある時、この活動が大学に知られます。
もちろん、学則違反ではないので隠していたわけではありません。
研究室の先生からは遠回しに、「大学を辞めろ」という旨のメールを貰いました。
でも、それは意地悪な内容ではなく、自由に生きいることの大切さを説いたものでした。
退学願の書類には、退学理由の選択項目がありました。
「修学意欲喪失」、この項目に〇をつけた瞬間、なんだか気持ちが楽になりました。
こうして、私なりに必死に勉強してきた学生生活に幕を下ろします。
修士1年目の23歳、秋のことでした。
一応、研究室に行っていないことに対する罪悪感はあったのですが、
大学を辞めてからはそれも無くなり、モデルやキャンギャルの仕事に集中します。
可愛くも無い自分をみんな褒めてくれて、可愛い衣装を用意してくれて、
美味しいごはんを食べさせてくれて、綺麗なアクセサリーをプレゼントしてくれて…etc
格は違いますが、アイドルってこういうことなのかなと少し思いました。
しかし、仕事が順調に進み、人に囲まれ華やかな生活になるほど、
1人暮らしをしていた2LDKの広い家は静寂を増し、私の孤独感を増幅させます。
そんな時はいつも、両親の形見を握りながら涙を流しました。
周りのモデル仲間は実家に帰ったり、両親にプレゼントをあげたするのに、
私にはもうその相手はいません。
私が結婚をしたら、誰が祝福してくれるのでしょうか。
次第に家に帰るのが怖くなり、人の家を転々としたり、繁華街を歩き回ったり、
最終的には現場スタッフや、声をかけてきた知らない男性と関係を持ち始めます。
その場限りでも、肌の温もりを感じていると孤独感が紛れたのです。
もちろん、こんなことをしていると変な噂も立ち始めます。
モデルたちの間で「S(私)は枕営業をしている」と言われていました。
モデル事務所の方たちにも警戒され、仕事も貰えなくなっていき、
遂には事務所から実質解雇という状態にされ、自ら身を引きます。
完全に孤独になりました。
残念なことに、身近に声を掛けられる友達もいません。
母の言葉が蘇ります。
「悪いことをしたら、お空にいる神様から罰が当たるよ」
だけど私も大人です。なんでも神様のせいにしてはいられません。
「自業自得、因果応報、自縄自縛」中学受験で習いました。
「井の中の蛙」に続いて、こんなところでも身を以て言葉を学ぶとは…。
こんなことを言いつつも、独りになった現状の打開策はありません。
でも、私の願いは単純です。
「両親に会いたい」、ただそれだけ。
きっと今まで感じていた孤独感は、両親に会えない寂しさによるものでしょう。
だとすれば、会いに行けばいいのです。
すなわち、天国に行くのです。命を自ら断つのです。
こんなことをして、地獄ではなく天国に行けるのか、昔のように両親は接してくれるのか、
それでも身寄りのない私が死んだところで、悲しむ人はいません。
「考えて分からないなら、実験してみろ」、大学で先生に言われたことです。
私は実験が大好きです。これでも昔は学者を目指していました。
ベランダの柵にヘアアイロンのコードを掛けて、首を吊ることに決めました。
どうしてこんな場所を選んだのか、誰か見届けてほしいわけではありません。
つい最近、孤独死のドキュメンタリーで特殊清掃の動画を見ていました。
独り寂しく、誰にも気付かれずに亡くなり、腐敗した遺体の体液が染み込んだ床、
こうなっては迷惑を掛けてしまうと思って、ベランダを選んだのです。
幸いなことに、ベランダの柵の下はガラス張りで外からはあまり見えません。
静かに、丁寧に、コードを柵に掛けました。
これほど失敗が許されない緊張感のある実験は初めてです。
死に対する恐怖はありません。これから両親に会いに行くのですから。
コードの輪に頭を入れて、地面に座り込みました。
最初は体の反射で咳が出るのですが、首が締まると咳も出ません。
次第に目玉が飛び出そうなほど頭に血が上り、頭が脈打ち始めて鼓動を感じます。
麻痺なのか慣れなのか分かりませんが、意外と苦しさは我慢でき、
後頭部あたりが痺れ始めました。
「やっと、お父さんとお母さんに会える」
苦しみを堪えるほどに、期待は大きくなります。
そして、この先の記憶はありません。
こうして文章を書いてるので、ご承知の通り両親には会えませんでした。
実験失敗です。データも中途半端でレポートなら落第点ですね。
隣に住むご夫婦の奥さんが、柵にぶら下がるヘアアイロンを不思議に思い、
私のベランダを覗き込んで助けてくれたそうです。
その証拠に、隣のベランダと繋がる避難用の壁にダンボールが張り付けられていました。
(余談ですけど、「容疑者Xの献身」を思い出して元理系としては何かを感じます…。)
病院で目を覚ました時、絶望と安堵が入り混じった複雑な気分でした。
やっぱり、どこかで死に対する恐怖があったようです。
しばらくして、隣のご夫婦がお見舞いに来てくれました。
そして、とても他人とは思えないほど叱られ、奥さんは涙を流していました。
なぜだか嬉しかったです。
2日後に退院し、真っ先にご夫婦の下に謝りに行きました。
それ以降はとても心配してくれて、私が家に出たり帰ったりする度に、
「いってらっしゃい! おかえり!」と声をかけてくれました。
部屋で大きな物音を立てた時には、慌てた様子でチャイムを鳴らしてくれました。
本当にいい人たちです。
このご夫婦と上手く付き合えば、失った何かが埋まるような気がしていました。
ですが、気を遣わせることが申し訳なくて、引っ越しをします。
それも、2人には伝えず静かに。
引っ越しを終えて、あのご夫婦のことを思い出し、恋人を探すことにしました。
生涯を共にできる相手がいれば、孤独から解放される気がしたからです。
マッチングアプリで恋人を探し、何人かと出会いました。
しかし、こんな女と一緒になって相手が幸せになれるとは思えません。
そう思って結局、誰ともお付き合いすることはできませんでした。
こうなると、頼みの綱は1つしか思いつきません。
お金を持った孤独な女性が集う場所、「ホストクラブ」です。
ここに行けば、こんな私でもお姫様になれます。
何を話しても一生懸命に話を聞いてくれます。
ホストの目的はお金ですので、私も気を遣う必要はありません。
だけど何かが足りませんでした。
ある時、ホストクラブで2人組の女性と出会いました。
2人は風俗嬢で、私は隣の男の子に目もくれず、2人の話に聞き入っていました。
そこで私は、過去に色々な男性と関係を持っていた頃を思い返します。
肌の温もりを感じ、心が満たされる感覚、札束を積んでもホストクラブでは得られません。
いや、「肌の温もり」なんて聞こえの良いものではないですね。
きっと、孤独感を言い訳にしているだけで、誰かに求められ、
形だけでも愛されている、その瞬間が嬉しかったのかもしれません。
あのご夫婦に助けられる前から、両親に替わる孤独をかき消す愛情は、
酷く歪んで醜いものになっていたようです。
淫乱女、ヤリマン、
なんて汚い言葉だ。
なんて私にピッタリな言葉だ。
自虐的な言葉が頭を巡ります。
それと同時に、風俗に行けば物足りない心が満たされると思い込み始めます。
風俗が世間からどんな目で見られているのか、少しは理解しています。
ホストクラブで出会った2人から、怖い話もたくさん聞きました。
年齢的にも長くは続けられないでしょう。
それでも翌日、私は少し震えた声で、2人が働く風俗店に電話を掛けました。
もう、なんでもよかったのです。
孤独が消えるなら。
⑧ 最後に。
冒頭からここまで読んで下さった方、感想に関係なくありがとうございます。
そして、貴重なお時間を、こんな稚拙で、薄っぺらくて、笑えもしなければ、
泣けもしない駄文に費やさせてしまい、ごめんなさい。
こうして人生を思い返すと、なんて私は短絡的で愚かなのかと呆れます。
リケジョなんて言っておきながら、微塵も論理的ではありません。
大学時代に感じた理系社会の違和感、実は私が本当にポンコツで、
助けてくれようとした単なる親切心だったのかもしれないですね。
やっぱり、どこか私は慢心するところがあるようです。
気を悪くされた方、ごめんなさい。
あと、命を救ってくれたご夫婦のお二人、勝手にいなくなってごめんなさい。
恐らく、お二人のことですから大変心配されたと思います。
でも安心してください、私は元気に今も生きています。
もう二度とあのような過ちは犯しません。本当にごめんなさい。
そして、ありがとうございました。
天国の両親へ。
私はお医者さんになれませんでした。
物理学者にもなれませんでした。
大学院も卒業できませんでした。
2人から貰った愛情、誰かに受け継ぐことも無理そうです。
それでも、色々な人に助けられながら自分で稼いで生きています。
今はコロナウイルスというもので、世界中が大混乱しています。
そのせいでお仕事にも行けず、こうして人生を思い返して孤独感を紛らわせています。
風俗嬢になった今、私は物理学者どころか人間にすらなれません。
馬鹿され、蔑まれ、人生を貶され、死を迫られ、両親まで否定され…。
だけど、大学の研究室にいた頃より、今の方がずっと幸せです。
全員ではないですが、多くの男性が私を偽愛(あい)してくれるのですから。
こんな形の偽愛が、大学で学んだ宇宙より、もっと広大で、漆黒で、
重い孤独感をかき消してくれます。
短い間でしたが、私は2人に愛してもらいました。散々甘えてきました。
だけど、もし、もう1つだけ、こんな私の願いを聞いてくれるなら、お願いします。
私が天国に行けたら、思いっきり叱ってください。