この前の時間は、女性の強さという問題についてお話ししたのでしたが、しかしそれは主として婦人が夫を亡くしてから以後、女手一つでわが子を立派に育てていく場合について申したのでした。しかし女性に強さの必要なことは、必ずしもこのように未亡人となった場合にのみ限ることではありません。それで今日はもう少し違った角度から、この問題についてお話ししてみたいと思うわけです。

 なるほど女性の強さがその最大限に必要なのは、言うまでもなく未亡人となってからのことでしょうが、しかし女性の強さの必要を、ただ未亡人になってからとのみ考えていたら、それは大変な誤りでしょう。

 そもそも強さとは、一体いかなることをいうのでしょうか。特に女性の強さとは、いかなることを意味するでしょうか。一般には案外このことが、よく分かっていないのではないかと思われるのであります。特にわたくしには女の人に、この点がよく分かっていないではないかと思われるのです。

 そもそも女性の真の強さとは、前にも少し申したように、実は柔順に徹することによって、初めて生まれてくるものだと思うのです。すなわち真に柔順に徹することによって、その人の「我」がとれ、そこに初めて現れてくるようであります。もしこの点がよくわからないで、ただ蟹が甲羅をかぶったようなものが、女性の真の強さだとでも思ったら、それはとんでもない 誤解というものです。かような強さは、仮に男性の場合にしても、決して真の強さとはいえないでしょうが、特に女性の場合においてはそうであります。

 一般に男性の仕事というものは、世の中の荒波を凌いで、自己の一道を切り拓いて行くところに成立するものであります。したがってどうしても、起伏盛衰というものを免れ得ないのであります。つまり平たい言葉で申せば、順境と逆境と、得意の時と失意の時のあるのを免れ得ないのであります。たとえば実業家などの場合には、どんなに立派なしっかりした人でも、時には事業が順調に運ばない場合もあるのでありまして、そうしたことを免れ得ないところに男性の道の特質があるわけです。

 ところで男性というものは、一般にかような場合、案外にしょげやすいものであります。そのしょげ方は、あるいはあなた方女の人の想像以上であるかもしれません。それというのも男性というものは、事業とか勤めの上に自己の全精力をぶちこむだけに、一旦その結果が思わしくないとなりますと、それこそ精も根も尽き果てて、急にげっそりとしょげ返るというのが、まず普通といってよかろうと思います。もし男性で自分の事業なり、勤めの上で思わしからぬことに出合った際、自分の妻に対して、それを色にも現さぬというようでしたら、これはすでに相当の人物といってよいでしょう。

 そこで普通一般の男性の場合には、特に若いうちは、そうした場合には、案外しょげるといってよいでしょう。そしてそれは、一応無理からぬことともいえましょう。と申しますのも、一般に家運が悲境に傾くというような場合には、男性は常に二重に心の重荷を負わされるからであります。すなわち一方からは、そこからは、対外的に事業とか勤めの関係上からして、いかにしてこの難局を打開すべきかという苦慮があり、今一つは、それから生ずる体内的な面、すなわち今後家族の生活をどうしていったらよいかという苦慮であります。

 このように男性というものは、常に内外両面に対して、心を用いつつ生きているのであります。しかるにそのような場合に、妻たるものが何ら夫の苦しい心のうちを察することなく、かれこれと不平がましいことを言うようでは、「水臭い 」などという程度の言葉では尽くされないものがあるわけです。

 実際平生暮らすことができたのはなぜであるか。いうまでもなく、夫の事業が順調にいっていたればこそであります。それゆえ一旦夫の事業が傾きかけた時こそ、妻たるものは甲斐々々しく立ち上がって、平素の夫の労に報ゆべき時であります。しかるに何ぞや、ひとたびかような際になると、平素の空元気など一瞬に消えはてて、夫以上にしょげ込むどころか、その上かれこれと不平を並べるがごときは、実に言語道断なる悪妻といわねばなりますまい。

 実際女性の真の偉さは、かような場合になって、初めてその真価の現れるものであります。すなわち夫が 落ち目に向かった時、いかなる態度に出るかによって、婦人の真価は決するといってよいでしょう。すっかりしょげ切っている夫に対して、一面からは慈しみ深い母親が、傷ついて帰ったわが子を労るように慰めつつ、しかもそれだけに溺れないで、夫に再起の覚悟を打ち立てさすよう、心からなる激励を与えるようでなくてはならぬでしょう。かくてこそ初めて、「妻」という名に値するわけであります。

 これに反して、夫の順調な間はそれにもたれていい気になっていながら、一旦夫が悲境にあうや、あたかも他人のように傍観していろいろと愚痴を言い、そうでなくてさえ傷ついている夫の心を、いやが上にも傷つけるようなことでは、一体何のためにこれまで夫婦の契りを結んできたのか、まったく分からぬことになってしまいましょう。

 そもそも世間というものは、順境の日には人々が多く集まるものですが、一旦悲境に陥ると、それまで始終出入りしていた人々さえ、急にパタリと姿を見せぬようになるものであります。ですから、人間の真の頼もしさというものは、そういう際に、初めてハッキリと現れるものであります。公人でしたら社会的につまずいた場合とか、また実業家なら事業に失敗して破産に瀕した場合などこそ、真に人の情けの分かる時ですが、しかもかような場合には、ただ今も申すように、平素出入りしていた人々さえ、次第にその足が遠のいて、一家とみに寂寥を加えるものであります。

 こうしたわけで男性にとっては、その職責な りあるいは事業上の悲運は、二重三重の痛手となるのであります。同時にかような場合に、男にとって唯一の頼りとなるものこそ、実にその妻ではないでしょうか。そうした場合唯一の慰め手であり激励者たるべき妻の身で、そうした 自分の役目を忘れて、ごてごてと愚痴などを並べるようでは、男子たるものどこに光明を認めることができるでしょうか。

 ところがわたくしの考えるに、近頃のような 女子教育のあり方では、遺憾ながら夫の悲境に際して雄々しく立ち上がり、一家の光明となるような婦人は、次第に少なくなるのではないかという気がしてならないのです。すなわちわたくしから考えますと、どうも現在の女子教育というものは、こうした人生の深刻、切実な出来事に対して、十分な心構えを与えようとはしていないかに思われてならないのです。否、実際問題としては、このような一家の悲境に際しては、単に心構えというだけではなお足りないともいえましょう。すなわちそうした場合には、何よりもまず生活の切り下げを断行しうるような、現実の力と覚悟とを要するでありましょう。

 なお最後に、女性の強さという問題に関して、最も大切なことの一つは、わが子を内面的に厳しく育て上げるということです。内面的に厳しくとは、男子はあくまで剛健に、女子はあくまで率直に育てるということです。男子を剛健に育てるのは、申すまでもなく、非常な場合に際しても何らたじろぐことなく、わが道を生き抜くような人間を作るということであり、また女性を率直に育てるということは、平生事なき間は、よく夫に仕えて内助の功をまっとうするが、ひとたび夫が事業の上で失敗するか、さらには、雄々しく立ち上がって、遺児の教育にその全力を傾けるような女性たらしめるということです。

 しかも男の子を剛健に育てるには、自分自身が己を空しうして、夫に対する道に徹することによって初めて可能であり、また女の子を素直に育てるのも、結局は自分自身が自己の道に徹する真の内面的な強さによってのみできることでありましょう。


—女性のための「修身教授録」森信三 著—


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これが、

いまを生きる男女の課題なんだろうな、、


森先生が言われているように、そのような心構えのある男女が、今の世のなかどれくらいいるのでしょうか。


わたしたち夫婦もそれぞれ日々努力してゆかねばならぬことなのでしょう。


わたしなら、どんな逆境でも、ものともしない強い精神力を磨かなければならないととおもうわけです。




わたしも、落ち込むことだってあります。

そんなときに、妻が慰めてくれるならいい。


ただ、妻は気分屋だから、

じぶんに余裕がないと話を聴いてくれません。むしろ、わたしが話を聴く側になるほうが日常的。


はたして、、妻は、いざというとき、わたしを慰めて立ち直らせてくれるだろうか。



···



それを期待しちゃあおしまいね。



わたしが、どんなに仕事でツラいことがあっても、聴いてほしいことがあっても、妻の言うことには耳を傾けるしかあない。


妻の話を聴くあいだ、、

怒りが静まるのを待つあいだは、

時間の経つのが長いことー、

まるで、精神と時の部屋にいるような、圧迫感と蒸し暑さ、、


ただただ、いまは、それを精一杯やるしかなあない。

そうして、常々わたしの精神力は磨かれていくにちがいなあい。


そうした家庭こそ、生きた修養の道場である。


『日々是好日』




@夏休み一日目にして、宿題を終わらせたぼん