パーキンソン病と共にいきいき生活 -2ページ目

パーキンソン病と共にいきいき生活

パーキンソン病共に。発症して30年近く。原因わからず10年近く寝たきりに。現在薬物療法にて。効用時を上手く利用。リハビリ自分の努力と家族の支えの中で。日々の暮らしに起きる出来事。大切に越えていく。人世をブログに。

ーーーー私の体験からーーー

 なんとも よき介護とは言えない事例です。

 よろしかったなら お付き合いください。

 感じられましたことコメントいただけましたら

 嬉しいです。

 

現在では 

地域包括 ケアマネージャー ヘルパーさんと

介護にしっかりとした大きな助けられる場がありますね。

 私が 自身の両親の介護の頃(平成元年から16年)は まだまだこれから、、、でした、、、


両親(親)の介護 (私)

介護するがわの心持ち(介護と闘う覚悟)

。親の最期となるだろう 大切な時間 期間

。自身の家庭 家族の生活に私の両親が加わる

 ことで難しいこともあるだろう

。自身のバランス 

 自身の身体 家族 加わる親との調和

。24時間体制(時間のやりくり)

。通院 施設 入院 予定に添った行動

  (私は 運転できたので自家用車で)

。日常生活の動き(親の居場所は。実家(自宅) 

 共同 か) 

。対応(全て) 食事 入浴 排泄 洗濯、、、

。家計費


◇ 自身 家族の負担の大きさ 協力者が大切

◇ 介護に当たる者は 患者へ同じ方向性をもって行動する気持ちが大切来てくれて

☆『心は錦』☆  私の 心


あの当時 

結婚して半年で両親のそれぞれの病が出現。結婚して地方での生活を始めていたので実家に通いからはじまった。


父の精神的不安 身体の動きが悪化。精神科 施設に転々とお世話になりながら 三ヶ月ことの契約 予約解約手続きの大変なこと(待ちは)わが家で生活を。後に私の友人の病院でみていただけて。11年間、、、


母の単発的癌への対応(通院 入院 手術 退院 リハビリ、、、)母は 父の死後 わが家に同居

主人の大きな器にうかばせていただきながら。

子どもの成長 毎日が嬉しく有り難く。 

けれども 主人と子どもに沢山の負担をかけさせてしまっことは 私の最大の不本意であって 反省と悔いることだ。

子どもは 主人のありがたいフォローがあつて。両親を嫌いになることもなく 大切に思い続けてくれて両親が他界するまで一緒に過ごしてくれて。自身も成長していった。

母 16年間、、、


 私は両親の病発生の三ヶ月頃からは 身体の不調が重くのしかかってきた。

母は 看護的なこと 全てを私に要求してきた。子どもだから気持ちも楽 不満も言える。

私への安心感 心地よさも知ってくれていたからでしょ。病弱な母でしたし 交通事故で長期の苦難を乗り越えてきた時間も。

私が看護師だったことも重なったでしょかね。



  [[[普通ではないことがあったから。]]]

両親の全てが終えるまで続いた 醜いものたちの言動の数々

 [[この者たちが 家族と親族だから]]

●両親の家に来ては お金を使う 家事などせず実家と思えない まるでごみ屋敷の家の中。自分たちが入る算段まで。屋根 ガスまわり全て新しく勝手に変えて支払いは両親に。母の入院時の間 父への配慮はみられず。

実家に戻るたび ひどい家の中 父の変化が目にに入り込んで、、、


●他人様 (スーパー店員、近隣者、医療関係者、、、) 私共の無い事柄を山にして嘘話。

私の周囲をかんじがらめ。

苦痛が大きかった。

私の生まれて成長してきたいままでを 私の存在を砂が風で飛んでいくように。、、、


♻️世話を必要とする (両親は わたしを待っている。)

現実は 目の前にあって24時間はくりかえし。

主人は お前の気が済むように。手助けはする。

有り難く! 止めろ!の言葉も欲しくて。

日々は変わらない。


毎日 わが家の整えから始める朝三時。6時過ぎ家族がそれぞれの行動に 合わせて。


両親への世話に向かう。道路事情 病院同等の時間の幅 両親の状態に添いながら。

実家の掃除 買い物 、、、明日が迎えられるように整えて帰宅する。 


子どもは常に私の横に。

赤ちゃん 幼児 幼稚園 小学校、、、両親がなくなるまで。その後も現在まで支えてくれています。


温かで 細かく 頑固で潔癖 ましかく な 母

これほどまでにと 主人と私を慕ってくれてたのに 長い時 [ヤカラと言わせてください]たちに洗脳というのでしょうか、、されたんですかね。私共を罵倒するものすごいこと。けれども 頼ってきた。情けなくて なぜ私たちを信じてしっかりとついてきてくれないのーーーと。


幾度 もうみるものか。勝手にして。私には私の大切なわが家があるのだから。家族皆が協力してくれてお母さんたちの今日があるのに。家にあんなヤカラがどうしてできるんだ。お父さん お母さんの世話になってきた者たちがだよ。


でも

朝がくる。日々は変わらい。闘い。

私が親を捨てて大変になるのは 他人様 医療関係者。そんなことできないでしょ。逃げたくても逃げれない。

毎晩のごとく 親族と両親のことで電話のどなりあいの口論。

主人も電話口に出ては幾度話してくれたことか。

子どもも横に居るというのに。


父か亡くなり

暫くは 「一人で頑張る。」と 自宅にいた母だったが無理となり 敷居をまたげないといいながらも 主人の温かな言葉で同居となった。

一緒に暮らしているうちに 昔の元の母にかえっていった。


歳を重ねて穏やかな父 

全て母が従事った家だと思っていたが 父の偉大さに感動したときがあった。几帳面で 子煩悩て優しい父

父の身体が不動となっていく。橋本の奥 友人の病院にお世話となる。私の身体も動けなくなっていき電話だけのやりとりとなっていった。

ヤカラたちは やり放題。友人の病院に見舞いにいっては世話をしてる素振り。亡くなった折りは

母と私共を無視して病院との連絡までに邪魔をして 葬儀までぎゅうじり 私どもは蚊帳の外扱いで関連なきなきヤカラ家族と会社人の山。考えもなき高額な葬儀代金全て母が支払ったありさま。


友人の病院関係者の方々は 実態はしるよしもなし。

父の最期を迎えるであろう間近の頃 御挨拶に伺った折の 職員側から不本意なお話を向けられたときは 正直怒りも込み上げました。

何も現状を 私の身体を見ても何も気付きもしないような 知らない人達が軽い思いで口を開くことの重大さ。

何も言ってくれるな!と。


人は 人生を歩むなかで 変わること。

多々感じられた 『時の流れ』


主人 「もっと 元気に生きてくれたら お酒飲んで色んな話ができただろうにな。』

   父へ


『私の身体 わが家の未来を狂わせたんですよ。』

事実は 長い長い時間をかけてありました。

心は 温かな昔の家族でいてほしかった。


●両親の金銭全てをさらった 家族の一員ですよ。

│私より6歳下となると 子どもの時期でも時間が重ならなかったし 社会 環境も違いました。

 私は 看護学校 仕事 寮生活 それ以上に

母のこと 実家のこと。お給料は封筒を開けぬまま 母に手渡ししてました。なぜか4万円だけが渡されたんです。悲しい さみしい思い 沢山してきました。ですが 幼い頃から 両親の大変な苦労をみてきましたので いつの日かは 家族みんなで 幸せになろうねー。と私自身の心の燃える軸でした。小学生の頃の内職の手伝いは辛かた、、、。そのころから 『心は錦。』

私の心のさけびですかねぇ。


 ○家族みんな それぞれ 苦労 辛さ 思いあったと思います。歳の下の家族には 私以上に苦しんだ事があったかもしれません。きょうだいでいながら ゆっくり話す時間も二人で出かけたこともありませんでしたので。すべて 母の右習え?

ひとり出かけること 許されず。友達との交流などとれなくて。

お金持つことなく。

この家族とも

『ゆっくりとたのしく話したいなぁ。どこか遊びに行けたらなぁ。』 ずうっとずうっと思い続けてきたことでした。一度だけ 寮に泊まりに来てくれて 準夜明けの帰りを待たせてた思い 可愛い思い忘れていません。

ラーメン食べに二人で 世間しらず甚だしくて。

辛すぎて 二人とも刺激物は駄目で ほとんど残してお店をあとにして。お店屋さんごめんね。それよりも せっかく食事に来て家族にごめんね。の気持ちが強くて 悲しかったですね。

懐かしい思い出です。

   ●○●△●○●○●○●△●○●

最期に残った母の時から

●考えられない事が明らかに成ることがありました。 公証人から 知らされ助けらてお世話になって、、、ヤカラ達の悪行が明白になりました。

●│最期の最期に

家族は

裁判までにも持っていきました。


●当の本人達は

一度も出て来ませんでした。

私の心は 主人と弁護士さんにささえられての

場、、[もう少しだ。終わる。私の家族は終わります。] 情けなく 実家の全てが空っぽ、、。

裁判終了時 家族からの伝言と。音信不通?とやら、、、最後まで身勝手なヤカラとなってました。、


◇どんだけ経とうと

私自身の身体は 昔の健康な身体には帰らない。

私の家族の 夢 希望も大逆転したのだから。

現実は 今ここにあって 前進しかない。

私の大切な家族と 互いを尊重しながら

生命の許される限りを 善き年輪にしていきます。

介護にあたった私の

もう 遠い昔になりました一部分の話でした。

有り難うございました。