沢山郵便物がくる方だと思う。
主にデパートの各売り場だが。
毎年必ずくるハガキがある。

上矢印左は宮古市で「3・11」に行う合同の慰霊祭の詳細のハガキ。
毎年、宮古市長の名前でくる。
もう9回めだ。
七回忌が終わった途端に不定愁訴がなくなった2017年。
そこから更に3年が経過したことになる。


右は長年親交がある元・資生堂の美容部員。もう30後半になるか。


彼女は2008年のBC世界大会
激戦区である「首都圏支社」から出場した「デキる娘」だ。
(メイク、応対、スキンケアをトータルで競う。)

新潟出身で、故郷の新潟に戻ってからは2回ほど私の自宅にお休みを使って遊びにも来てくれた。

池袋駅の西武側に新潟からの遠距離バスバスが停まるので、彼女はそのまま私とデパコスを買いに入店する。
遅れてもこのように律儀にハガキをくれる。


何年かある専門店で働いていたが、一昨年あたりに閉店(地方の専門店も大変だタラー)。

その後、しっかりと仕事をし就活を続け、
めでたく新潟の大型専門店に転職できたというので、私も喜んだ。


こうしてお金を貯めて
遊びに来るにしても、
改めて仕事を求めて上京するにしても
人は一度体を壊すと慎重になる。
若返ってはいないからだ。

私が共に働いた資生堂の美容部員さんたちは
本当に心身の強さを持っていて、
尊敬する。
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私がいた店舗から出たのは入社4年目。

当時。
専門店に残るか、デパート部に行くかの選択権が一定の基準で与えられた。


彼女は「ビルデパート行き」を決め、
特に筆記試験✍️は支社で2番めの成績だったという事で店長も一目置いていた。本当は留まって欲しかったのだろう。

丁寧さもさることながらオチャメな面も私は大好きだ。

彼女の謙虚さ、
とりわけアイメイクの仕上がりはそれはそれは美しく。

若いお客さんから「そんなに綺麗に付けてみたいピンクハート」と
ご指名でタッチアップしていたことも記憶している。

とりわけ美人というのでなく、むしろ一般的にはふっくらしてコンプレックスになりそうな瞼に
当時のマキアージュのアイカラーパレット美しく発色させていた。
そういえば私もそれを見て同じ色を社買いしていた。左矢印(今と変わらぬ散財ぶりなのだが。)


売上市場主義ではなく
製品に対する知識の豊かさが好きで
仲がよかった。


資生堂のプチプラはじめ、コスメ全般について一緒に語ったものである。

そういえば。
私は店の後輩にも
美容部員にも
「いじられキャラ」だったと思う。そういえば先輩にはいじられない。


彼女は二子玉のクレ・ド・ポーボーテで働いたが数年で体調を壊したため退社し、新潟に戻っていたのだ。


その前は時々買い物に店舗に遊びにも来てくれた。新宿の利便性もあるだろう。

それだけ私のいた店舗は美容部員さんからも愛され、
全員が一丸となって
良い競争が日々行われていた。

新規メンバー獲得の数では負けなかったので
いつしか美容部員さんたちに認めてもらうようになった自分だったが

本当に肉体的にはしんどかった。30代半ばにして体が痛い日々。
右目には光彩炎タラー

あれだけ仕事に精力を注げる事は
この後の人生、果たしてあるのだろうか?



やはりせラムはこのように下矢印
家族やペットたちの遺影の方に向かって
「合掌お願い」しているように見える今日この頃。

嘘のように元気になり
多少謙虚になって見えたがもう完全に復活した模様。


私も今回の心労が堪えてしまい、
更に癒しを求めるように。



今日は慌てて病院病院に行ったが
病院に行くと毎回反省する。


健康な体が当たり前などと思ってはいけない。


自分は明らかに黄体期は体調に左右される傾向にある。

が。
ある程度体力もあり、
自分の足で歩き、
ヒールで走ることも出来る。

山にもまた行きたい気持ちもある。


だけど。
それを当たり前などと思ってはいけない。

本日もお読み頂きありがとうございました。
akiko