今日、5月9日は私の実母の命日です。

私が26歳のときの5月9日、母は、自ら命を絶ちました。


「お母さんの料理が食べれなくなるから」という理由で、2泊3日の東京見物を拒否した、小5の私。


そして、4年制大学に合格し、父に「お前は4年もいたら帰ってこないな」とボソっと言われ上京した、18歳。

楽しくも世間知らずの4年間と、就職しての4年間。


そして、ただでさえ「更年期症状」からくるうつ病に悩まされ、通院して大量の薬を服用していた母。自分の化粧品店を経営しながら・・・


 調子の良し悪しはあれども、年に数回帰省する私に愛情を注いで、そしていろんな忠告をしてくれた母。



 そして、私のうつ病。25歳、私は会社の人との人間関係から、日に日に食が細り、ついには食べ物を口元まで持ってきても、口の中に入れれなくなりました。

ついに、体と心が拒否を始めていました。


それからの数ヶ月間は、病院に行って投薬を受け、辛い眠気やゆううつな気持ちと共存しなから、会社と自宅をなんとか行き来していました。


 その辛い日々のなかで、わたしはつい、電話で母に漏らしてしまったのです。自分の症状を。

 母は、すぐに上京してきました。

 自分の娘が同じ病気にかかっている。

いてもたってもいられなかったのでしょう。

でも母は、商売をやっています。ずっといるわけにはいきません。




 ある日、大量の薬を飲みました。50~60錠。


強い抗うつ剤や睡眠薬だったので、勿論「胃洗浄」が行われました。


そして、それを2回目は会社でやってしまいました。


会社をなめていたのでしょう。というより、もう、病気なのだから、そんなこと考えてもいません。


翌日、実家の岩手から父が上京して私は実家に連れていかれました。


自分の症状も自覚できないのがうつ病。


3ヶ月間、田舎の、何もない町での生活。

2週間に一回の診察で盛岡の医大に行き、診察。

気持ちは焦るばかり。


そして3ヶ月たち、無理やり「仕事へ復帰してよし」のサインを医師にもらった私は、その足で、職場に電話をしました。


答えは、「もう代役の人が仕事をし始めている」でした。


私がほぼ一人で自分の課の事務をやっていました、が、「私がいないと会社が動かない」なんて、ありえないんです。


誰がいなくても、あんな大きい会社、毎日動きます。



それから、「別の課に移動」の案も出されましたが、私は当時、拒否をしました。勿論、そこで頑張ると決めて仕事をしていれば、べつの人生というか、展開はあったでしょう。でも、会社を退社することにしました。



 私の転職活動がスタートしました。実質、完治などしていないのに。

そして、4年間もひとつの会社で事務仕事をしていただけの私に、洗礼は待っていました。

いわゆるテレアポ。(今は一部上場しているけっこう有名な会社ですが、電話での対応といっても書類書きも仕事。自覚はなくても、いつのまにか体に症状が出ました。脚が異常に重くなり、引きずるように歩くようになっていました。)


しっかりしていた会社でしたが、すぐに退社しました。


そして、また「とらばーゆ」と毎週買う日々。

その毎日は、地獄そのもの。

ひとり暮らしの辛さ。うつなのに、拍車がかかっていきました。考える時間が多いと、こんなにも人間って、病むものなんだ。


それでもあとふたつ、会社に入りました。

薬を飲み、自分をだましだましの生活。

完治してない状態で仕事をするということは、危険でした。


ついに、健康保険なども支払うことができなくなりました。


7年間付き合っていた漫画家も、たぶん意地になっていただけ。

両親に会わせたこともあったけど、結婚なんて、それどころじゃありません。


実家にもどる決意をしました。

2月。実家は一番寒いとき。

9年間の私の荷物は、「はなれ」とよんでいた、自宅の建物のお向かえの、伯母のもちものである平屋に移しました。(伯母はかなり前から入院しており、施設で生活していました)


両親と向き合っての食事も拒否。

ただ、イライラとの共存。

母も、相変わらずうつと闘っていました。

そして2~3ヶ月。母は、良くなっているように見えました。が、うつ病は治りかけが危険だといいます。


 5月、いつものような一日。

私は父に「山菜を採りに行こう」と言われ、気がすすまないけれど、父の車に乗って、山へ行きました。もうフキノトウやワラビがありました。12時過ぎ、

自宅へ戻りました。

「はなれ」に先に行くと、家から父の大きな声が響きました。


母は、首を吊っていました。

もう顔色が紫色でした。

私は叫んで、母の体を揺さぶりました。

母は何も答えませんでした。

救急車が来て、係りの人は言いました。

「もう蘇生しない」


そのことばがはっきり残っています。

そのあと記憶に残っているのは、父が色々と事情を聞かれている後ろ姿、そしていっきに親戚が集まり、通夜の準備がどんどんできていく様子。


私は、完全に壊れてしまいました。「一回死んだ」と表現していますが、まさか、母の首をくくった遺体をこの目で見てしまうとは。

そして母が、障害者の兄や、私や弟を置いて逝ってしまうとは。


約一ヶ月後、私は味覚がなくなったり、多くの顕著な症状が出て、精神科の閉鎖病棟への3ヶ月の入院をします。 


そこで、様々な障害者、精神病のひとたちと会い、病気を持つ悲しさ、家族の辛さ、命の尊さ、人から「思われる、必要とされる」ことのありがたさを理解しました。

兄が障害者ですから、幼いころから色んな障害者を見てきたつもりでしたが、病棟での体験は壮絶で、この世のものとは思えない世界。


 退院してデーケアに参加したり、いなくなった母の代わりに家事をして、順調に回復しましたが、母との思い出の場所である「母の店」では、普通でいることができず、何度も叔母をよんで、店番を乗り切ったりしました。


 でも私は、周りのひとたちの協力で、ちゃんと立ち直れました。


そして、10年たった今、こうして、毎日新宿に通って仕事をしています。


たった数年前には考えられないことです。


その間に主人との結婚もありましたし、結婚生活8年の間にも、主人をはじめ、同居した義母にも本当に沢山迷惑をかけました。


 2階のベランダから飛び降りたり、再度大量服薬をやったり、病院通いは続いたのですから。


 残念ながら、盛岡での生活では、「完璧な復帰」はできずじまいだったようでした。

決して幸せでないということではないですが、家にこもりっきりが駄目だったようです。

「立ち直る決定的なきっかけになるのはやっぱり仕事だよ」と言った人の意見も信じていませんでした。


 でも、主人が意を決して19年勤めた会社に見切りをつけ、2人で上京してからもうすぐまる4年。


 なんの因果か、母が経営したS社専門の化粧品店に勤務することができ、3年以上経ちました。しかも日本一の通行量の新宿。


 そして楽しく仕事しています。

楽しくというのは、色々あっても、折れそうなときがあっても、眠って忘れて、または自分の弱点を反省し、いろいろ吸収し、「さ、また仕事するか!」と思えることだと思っています。


 よりによって、S社の売り上げ日本一の記録を持つ店で仕事をするようになっていた私。(今も東京で一番ですよ、お母さん。)

 これは、私がめぐり合ったぐうぜんなのか、それとも母がわざとあの世から仕向けたことなのか。


 あ、おばちゃんには母の日のプレゼントと、私の代わりにお墓に行ってくれるお礼に、ちゃんと化粧品とかを送って、昨晩「よろしくお願いします。」って、電話もいれときました。


お母さん、今日も一日、仕事してきます!