貧交行
杜甫
翻手作雲覆手雨
紛紛輕薄何須數
君不見管鮑貧時交
此道今人棄如土
「ただ若かっただけ」のある日わたしはこれを読み即座に失敗作と断じました。おそらくは・・・・・・
「『ケーハク』って・・・・・・詩語としてありえねえっしょ!あとさ『管鮑貧時交』って『オマエ俺の詩に来たいならさあ『史記』読んでからにしてくんね』っつうことだろ。超高ビーじゃんコイツ!それ以前に固有名詞出してる時点でアウト!はいダメ!」
そんなふうに感じていたのでしょう。
何ひとつわかっていなかったのですこの馬鹿者は!!!・・・・・・
齢五十半ばに近づき、「詩聖」と崇められたこの詩人の僅か二十九字に籠めた凄まじいまでの気迫とその偉大さとがようやく今にしてひしひしとこの身に沁みてまいります。
楚の襄王と巫山の神女との片時も相離れぬ契りを、利ありと見ればそれこそ掌を返したように瞬時に他に移る見下げ果てた人心の世の活写へと反転させた初句の巧。
まるで此の世の一切を領略し了(お)えた覚者から矢庭に一刀両断されたかの如き衝撃に読む者は一言(いちごん)すら無くす第二句。
「彼管鮑交」とでもすれば絶句として落ち着いただろうにもかかわらず、あえてシンタックスを破り捨ててまで「貧時」を加え古詩とせざるを得なかった第三句の(ここに至ってもはや典故を知る知らぬなどどうでもよくなってしまう)生半(なまなか)なことごとくの形容を撥ねつける詩人の心情の切迫。
「如土」とは諦念に似て実にはそうでない。それを突き破る唯だ一道(ひとみち)の狂奔を、鬱勃として抑えやらぬ勁たるこの内部よりする慥かな意思を!・・・・・・ただのほほんと生きあるいは分断と対立とを口汚く煽ってやまぬこの虚無(!)に侵されつつなお何事にも目醒めない(!)睡り眼(まなこ)の愚者我等に突きつける!ーーーこれが結句。
我等の実相には、おそらくコロナどころの騒ぎではない、コロナそのものよりはるかに怖るべき抜き難い何者かが根深く潜んでいます。その者に最期の一転瞬まで歯を食い縛り抗すべく、以下この珠玉にはまこと相応(ふさ)わない愚訓を御目障りにも認(したた)め以て一連の駄文の終(しま)いとします。お目汚(めよご)し失礼を仕(つかまつ)りました。
貧交行(ひんかうかう)
杜甫(とほ)
手(て)を翻(ひるがへ)せば雲(くも)と作(な)り手を
覆(くつがへ)せば雨(あめ)
紛紛(ふんぷん)たる輕薄(けいはく)何(なん)ぞ數
(かぞ)ふるを須(もち)ひんや
君(きみ)見(み)ずや管鮑(くわんぱう)貧時(ひんじ)
の交(まじ)はりを
此(こ)の道(みち)今人(きんじん)棄(す)てにたるこ
と土(つち)の如(ごと)し