映画「ミクロの決死圏」で、ミクロ化されて血液の中を航行しているときに「人間は宇宙の中心である」と言った様なセリフがあった。
なるほどと思った。一人の人間は約70兆もの細胞から成り立っていて、一日に5000億の細胞が生まれ5000億死滅している。
細胞の中の分子や原子レベルまでいくともっと細かくなる。
宇宙に目を向けると、我々の天の川銀河の他に確認できているものだけでも1700億の銀河がある。はっきりした数字は曖昧ではあるがとにかく外を見ても中を見てもおそらく果てがないのであろう。
こんなことを考え出すと人生はあまりにも短く、いくら時間があっても足りやしない。
面白いほどよく出来ている。不思議である。いや、不思議と思っているのは人間だけなのかもしれない。。。ロマンだなぁ。。。
ロマン。。。ロマン吉忠。。。服地はミユキ。。。ミユキ野球教室。。。
ほら、おかしくなてきた。。。
おっと、日銭を稼がないといかん。。。腹が減る。。。ぷぇ~~
<宇宙>




<細胞>



こんな文章を見つけて考え出すとまた眠れなくなる。。。
人間原理では人間がいるから世界(宇宙)があるということになる。この世界の大本となっている原子レベルの世界もそうなのであろうか。極端に短縮して言ってしまえば、やはり人間の観測が重要なファクターとなる。原子レベルでの物の位置(例えば、電子の位置)は確率的にしか言えない。人間が観測することによって、ある位置が決定される。もう少し正確に言うならば、確率的な状態が収束し、ある位置が決定される、ということになる。このような確率的な状況がありながら、どうして物は安定できるのか。
それはサイコロを振るのと似たような原理が働いているからである。6面体のサイコロを振った時、各面の出る確率は1/6である。しかし、それは何万、何百万という試行を経た後に出てくる数値である。原子レベルでの確率もこれと似ていて、何億と集まっているのだから、最も安定できるところで、確定的な状況となるのである。
だが、観測によって世界が変わるのならば、世界の時系列そのものが、確率的に変化するかもしれない。つまり、例えば、電子がどの位置で観測されたか、という確率を含んだ観測の結果、違う歴史が存在することになるかもしれない。サイコロの目が1の場合と6の場合程度の差であれば、いいのだが、そうはいかないだろう。いわば、スゴロクで出た目によって、道が変わるほどの差があるだろう。そして、この場合、二つの状況が平行して存在しうるのである。SFでいうところのパラレルワールドが存在するのである。だが、この二つの世界は干渉しあわない。
一体、何故、こういうことが起きるのだろうか
世界は確率論的な基礎の上に立っているかもしれない。宇宙は誕生のその瞬間から無数の分岐の可能性を秘めている。今なお、その分岐は確率という事態によって増えつづけているかもしれない。「今、ここ」という場が無数にあるのである。「今、自宅のパソコンの画面を見ている貴方がいる」一方で、「今、どこかのレストランで食事している貴方がいる」かもしれない。世界の見方が変わるのではなく、世界そのものが変わるのである。
では、私たちの今、目の前にある「事実」は「現実」なのだろうか。デカルトの有名な言葉、「我思う、故に我在り」ではないが、夢と感じられない以上、現在の技術レベルでは、目の前のことは現実と言わざるを得ない(ヴァーチャル空間は別の話)。
量子力学には「事象は観測されることによって初めて存在する」という考え方がある。何事も観測されなければ、存在しないのである。だから、アインシュタインは量子力学者たちに向かって「君たちは、誰も月を見ていないときには月はないというのか」というような発言をした(うろおぼえなので例えが違うかもしれない。はっきりし次第訂正する)。これに対して、イギリス経験論の一人であるバークリーの考え方を持ち出せば、「神が見ているから存在する」という反論もできるが、科学的ではない。だが、アインシュタインは量子力学の確率解釈を批判した時に「神はサイコロを振りたまわず」と言った。
世界はビッグ・バンによって始まったのか、神の御業によって誕生したのか、そういうことを考えることも、世界がどこにあるのかを考える手助けとなるであろう。
参考文献:和田純夫「量子力学が語る世界像」(ブルーバックス1012)講談社 1994年