あの日があったからこそ | ma*nani通信Akemingのステキな40代

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年をとるのはこわくない!
ワタクシ、Akemingは只今47歳。東大卒のりょーたと大学生の姫のワーキングママです。
美しく年齢を重ねられるよう日々努力しています。
若さの秘訣。それは気持ちから。
キレイな心を磨いて年齢を重ねるごとにパワーアップ!

私のしこりを、最初に悪性と診断してくださった島田先生に、取材に伺いました


今、私が書いている原稿は、女性の乳房のこと


がんについて、というより、女性にとっておっぱいがどんなに大切なパーツであるか、、、


といったことを書いているの




取材に行って、改めて、自分は死ぬかもしれない病気だったんだ、と実感した


今、こうして生きていて、こうして、ブログを書ける喜び、、、


それは、私を救ってくださったお医者さまや病院のスタッフのおかげであり、


励ましてくれた家族や友人やブログの読者のみなさんのおかげでもあり、


そして、一番は、検診を受けに行った自分のおかげ


だって、自分が検査に行かなければ、誰も助けてくれない


まずは、自分を労わろうという意識が大切だと思う




島田先生のところにはじめて診察を受けに行った日は忘れられない、、、


あの日のことを思い出すと、涙が出てきそうなのだけど


不安でいっぱいの私に、てきぱきと診察を進めてくださり、NOと言えない状況で細胞の検査まで受診


最初は、細胞の検査を拒否しようと思った私


だって、こわかったんだもの、、、


でも、先生が上手に誘導してくださったので、その日のうちにすべて検査を終えた


こわかった、、、


自分のしこりは良性と信じて受診したけれど、こわかった、、、


良性なはずなのに細胞を採るなんて、まさか?!って感じだった


胸に針を刺されながらの先生との会話が忘れられない


私は、あの時、、、


「先生、もしも、悪性だとしても、私は切りません。気功を受けて、そして、ハワイに行って治します」


って言ったのだよね、、、


先生は、あの時の私の発言をおぼえていて、心配されていた


切るか、切らないか、、、は、患者の意思によるものだからね





そして、検査の結果を聞きにいった日


「残念ながら悪性でした」


って言われて、目の前が真っ白になったのをおぼえている、、、


絶望的なことが起こった時、目の前が真っ暗になる、と言うけれど、私の場合、ショックで周りが真っ白


正確に言うと、頭の中が空っぽで、真っ白けって感じだったのだけど、


私は、そんな状態になりながらも、、、その時も切らないと言い張った


「先生、猶予はどれくらいありますか?」


とまで聞いたから、、、


猶予って、どれくらいまでなら切らないで大丈夫かってこと


私は、その時間を使って、切らないで治そうと思ったの


自分のからだにメスを入れるのがかわいそうでね、、、


ただ、死ぬことだけは避けたかったので、ギリギリまでがんばってダメだったら切ろうと思った


それで、先生にどれだけ時間があるのか質問した


先生は、私の気持ちをわかってくださり、その期間を具体的に教えてくださった


でも、「あなたのがんは、切らないともったいないがんです」っていう一言に私の心が動かされて、、、


結局、大きな病院を紹介していただき、あっという間に入院が決まってオペ




あの時、本当に切るつもりがなかったから


今、思うと、切るという決断ができてよかったと思っている


私の母は、乳がんを患い、全摘したのだけど、最終的には、あちこちに転移して他界した


そのつらい思い出のために、切りたくない、という思いと、切らなきゃやばいなって思いの板ばさみだった


何とか切らないで治す方法がないものか、ってマジで思っていたから、、、


でも、切ってよかった


切ったからといって、苦しみは終わらない


おっぱいを採るって切ないもん


でも、切ってよかったの




私の症状は軽い方だけど、でも、乳がんって病は女性にとって切ない


この切ない病の勢いを止めるために、私は何かをしたい!


そう思って、原稿を書き始めたの


入院中に、思いついた文章を綴り始めてから5ヶ月


今、ラストスパート


何とか今月中に書き上げたいと思って、がんばってるよ




先生には、どんなあらすじなのか、軽く話して、入院中に実際起こったエピソードなど話したのだけど


「いいお話が聞けました」って涙してくださいました


私、そのエピソードは、宝物で、、、


ずっと、ずっと、私の胸の中にしまっておこう、


これは誰にも言わなくてもいいって思っていたのだけど


先生の涙を見て、書こう!って思った




おっぱいとは私にとって何なのか?


それを自分なりに突き詰めて考えた、この執筆期間は私にとっていい経験だった


もうすぐ書き終わるこの原稿


いつか、これが世に出ることを願ってます




「一番上のボタンをきちんとかけてあっても、下のボタンが掛け違っていたら、


下からすべて直していかないと、かけ違いのボタンは直らない」



上述の一文は、私の原稿に書かれているものだけど、


一人一人の意識をしっかりしないと、いくら体裁が整っていてもだめなんだということを言いたいの


病院の設備が整っていても、、、


乳がん撲滅の運動が活発に行われていても、、、


それぞれが、自分のからだを労わる気持ちがないと、いけないと思う


だから、罹患率の上がっている乳がんに対する危機感をそれぞれが持って、


自分のからだを労わるために、自分でしこりを調べる習慣をつけたり、定期検診を受けてほしいと私は願っています




あの日があったからこそ、私は今生きている!キラキラ



それは、しこりを触れた日


それは、病院に検査を受けに行こうと決めた日


それは、マンモグラフィー撮影と細胞検査を受けたあの日


それは、大きな病院を紹介してもらおうと決めた日


それは、紹介先の病院へ行った日


それは、おっぱいを切ったあの日



たくさんの決断が、私を救ってくれた


でも、しこりを発見した日が一番大切な日なの!


これがなかったら、検査にも行かないし、悪性の腫瘍だとわからなかったのだから




みなさん、私のように「私は大丈夫」と過信しないよう、検査は受けてください


私はかなりラッキーな導きでしこりを発見したので、こうして元気なのです


自分は、がんにならないって豪語していた私がしこりを発見できたのは、ミラクルなんです





島田先生、このたびは、取材にご協力くださりありがとうございました


そして、あの日、先生の診察を受けて本当によかったです


心からお礼申し上げます


ありがとうございました




最後に、先生のクリニックの紹介と、先生からのメッセージをクリニックのサイトから引用させていただきます



ma*nani通信Akemingのステキな40代 島田菜穂子先生




ピンクリボンブレストケアクリニック表参道  →  サイト

東京都渋谷区神宮前4-11-6表参道千代田ビルB2

 ※クリニックモールの中のクリニックです

TEL:03-5771-3991



島田先生からのメッセージ



最新鋭の機器を駆使して、診断や治療を他の診療科の先生にスマートに伝える・・・


そんな颯爽とした放射線科診断医の姿を、学生実習のときに目の当たりにし、憧れ夢見て、おなじ道をと進んだのが、私が放射線科という診療科を選んだ理由でした。


医師として第一歩を踏みだしてみると、現実は夢に程遠く、人のためになるとか、治療に役立つ情報を画像から読み取って他の先生方に提供できるようになるまでには山のような勉強と経験が必要なことを思い知らされました。


前に進むために山盛りのフィルムと医学書に埋もれながらカンファランスに画像診断にと追い立てられるように、毎日を過ごしていたころは、乳腺診療にこれほど心を注ぐようになるとは夢にも思いませんでした。


きっかけは突然訪れました。


大学病院で医師としてまだひよこ歩きをしていた頃、ある日の薄暗い超音波検査室の中でした。


数日後の手術を控えた乳がん患者の彼女は、主治医の先生には遠慮してそして怖くて、なかなか相談できなかったいろいろな心配事を、頼り無かったであろう私にぽつりぽつり話し始めてくれたのです。


持てる知識を振り絞って、真剣に彼女に向き合ってお話が終わったあと、彼女は私に宝物のような言葉をプレゼントしてくれました。


“先生に逢えて本当に良かった。

さっきまで乳がんになったことを恨んでいたけど、なんだかうまく乗り越えられそうな気がするから。

ありがとうございます”


こんな素敵な言葉に支えられて、私の情熱は大きく膨らみました。


その後大学病院での研修を終え、1992年、東京逓信病院で私が乳腺外来を開設した当時は、乳腺外来も、さらにはそれを放射線科医が行うことも国内ではあまり例が無く、すべてが手探りのスタート。


幸い診療科を超えて、同僚・上司の理解と協力に恵まれ、又受診者にもお互いに参加しあう診療というスタンスを理解していただき、年を経るごとに、本業の画像診断業務よりかなりのエネルギーを乳腺診療へ注ぐようになりました。


そんなとき、かねてからの夢であった乳がん先進国米国での研修留学のチャンスをつかみました。


ピンクリボン活動をはじめとする、乳がん啓発活動に対して私が強い思いを持つようになったのはこの米国留学がきっかけになったのです。


乳がん先進国での診療を経験したい、新しい画像診断の何かをつかみたい一心で胸を膨らませて渡米。


渡米後、ブレストセンターで1ヶ月も過ごすと、私は予想外の事態に気がつきました。


日米の大きな違いに愕然。この違いは医療レベルでもなく、画像診断の新しさでもなく、他でもない一般女性たちの乳がんに対する関心と知識の高さでした。


しかし、米国女性が日本人女性に比べ、教育レベルが高いわけでもなく、勤勉なわけでもありません。


私が拠点を置いたセントルイスはアメリカ中西部ののんびりした街で、いまだにお尻の大きさが日本人女性の2-3倍はあるような体型の女性が多い、どちらかというとヘルシー志向が薄い古典的なアメリカの街。


なのにブレストセンターに来る女性は、乳がんがどれだけ自分たちに身近な病気であり、でもその珍しくない厄介な病気は、早く発見さえすれば命も乳房もとられること無く治すことができること、早く発見するにはマンモグラフィという検査を毎年受けることが非常に大事だということを皆知っていたのです。


今でも忘れもしない、あれは、東京でいかにも知的で上質な暮らしをされているであろうと見える素敵なご婦人が、私に外来に見えたときでした。


慎み深く着衣をはずすと、目に飛び込んできたのは青黒く腫れ上がり、今にもはちきれそうな乳房のできもの。


幾度と無くこんな思いをしたことか。


世界の経済をも動かそうという大都市東京のど真ん中の病院で、です。


検診を毎年丁寧に受けていて発見された極小の乳がんに出会えることは、東京の病院では決して頻繁ではありませんでした。


しかし、アメリカの田舎町では違っていたのです。


マンモグラフィでしか発見できないような早期がんで治療を受けに来る女性がたくさん居たのです。


日本人女性は決して怠け者でも無知でもありません。なのに、このアンフェアは一体何なんだと叫びたい気持ちでした。


米国の病院内をくまなく探しても何の答えも見つかりません。


そのヒントは病院の外にあったのです。町中の建物や看板、ジュースのパックにも、シャンプーのボトルにもピンクリボン。


テレビやラジオではメッセージが流れていました。


“Mammogram saves your life.”


誰もが知らず知らず、いつでもどこでも乳がんに関する情報を得られる工夫がされていたのです。


私が病院の中でいくらがんばって、目の前にいる患者様と真剣に向き合っても、それだけでは日本は変わりません。


日本人の女性に、そして男性にも知ってもらいたいことが山ほどある、病院に来てくれる人をただ待っているだけでは、大切な情報は伝わらない、こんな溢れる思いを胸に秘めて、ピンクリボン活動のための団体を結成しようと奔走を始めたのは日本に帰国した直後でした。


そして帰国翌年、ちょうど2000年日本のマンモグラフィ元年、同志が集まり乳房健康研究会を発足、ピンクリボン活動を始動しました。


ピンクリボンって何?


というお話から始めなければいけなかった当時は、何もかもが容易ではありませんでしたが、あのときの小さな一歩一歩が今や少しづつ全国に広がり、多くの皆様の願いと思いで、素晴らしい活動に育ち花が開きつつあります。


乳がんで亡くなる人がゼロになるその日まで、花は何度も種をつけて、新しい芽を出して、また花が咲き続けるように。


その願いの花は、私たち一人ひとりでもあります。


私のできることは小さなことですが、真心をこめて続けてゆきます。


診療や活動を通じて、乳がんによる悲しみのない世界を目指して。

女性がより健やかに、美しく輝けますように。


ピンクリボンに願いをこめて。


NPO法人 乳房健康研究会 副理事長
ピンクリボン ブレストケアクリニック表参道 院長
島田 菜穂子