しっくりくる書き出しが思いつかない…
今日は思いつくままに
今朝
感情がゆさぶられたことを
どこかに吐き出したい
と思った
とりとめなく
長くなりそうだけど
わたしのために
書いていきたい
今朝の出来事
夫は自宅から車で15分ほどの
会社に勤めている
毎朝夫の運転で会社まで行き
帰りはわたしがひとり運転して
帰ってくる
といういつもと変わらない
朝の車でのこと
FMラジオから
森山直太郎の「さくら」
が流れてきた
夫もわたしも
曲にあわせて口ずさんでいた
その時
ふいに涙があふれてきた
涙がとまらなくなった
全然とまらない
眼の奥が熱くなり
胸にマグマのように
何かがあふれるような
うねるような
うまく表現できないのだけれど
熱く強い動きを感じた
夫が気づき
心配そうに
「だいじょうぶ?」
と聞いてくれた
涙がとまらず
しゃくりあげるほどのわたしは
夫に理由を話した
亡くなった母を思いだしたから
だと
母は14年前の4月に72歳で亡くなった
その年母は体調を崩し入院していた
当時わたしは実家暮らしの派遣社員で
たまたま契約満了で次の派遣先を
さがしているところ(無職)だったので
毎日顔を見に行くことができた
病棟で主治医の先生にお会いした際に
「肺の水がとれたらですが
今月末くらいに退院できそうですよ」
と伺っていた
しかし退院することなく
母は亡くなった
亡くなる前日
昔からのご近所さんが
母のお見舞いに来てくれて
楽しそうに笑っていた母
その方をわたしが車で送って行くことになり
看護士さんに車いすを押され検査に向かう母と
わたしとご近所の方と病室を出た
廊下で母がわたしに
「送ってからまた来てくれるの?」
と言った
わたしは
「えぇ? もう来ないよ…
また明日来るから」
と
うっとおしそうに答えた
そんなわたしに母は
さみしそうにこちらに手をのばした
そののばした母の手を
わたしはどうしたのかよく覚えていない
でも
その母ののばした手の情景を
わすれることができないでいる
そして
その翌日
母は亡くなった
体調が急変し亡くなった
わたしが手をにぎり
話しかけていたその時
急変し
わたしが叫んで
看護士さんを呼び
先生を呼び
廊下で家族に連絡し
ひとり無事を祈りながら
現実ではないような感覚を覚えている
その数時間後
母の兄弟や
わたしたち家族にかこまれて
母は旅立った
医師の死亡宣告を聞き
泣きながら母のそばにいたとき
叔母が
姉とわたしで先に家に戻り
母を迎える準備をするようにと
家を片づけるようにと
言ってくれた
ありがたかった
悲しみに暮れながら
涙に暮れながら
茫然としてしまうその時に
現実につなぎもどしてくれた
ことに感謝した
ここから現実の
やらなければならないこと
きめなければならないこと
が
怒涛のようにおしよせる
父は今現在も存命なのだが
元職人で
昭和ひと桁生まれの
亭主関白な人だったので
長屋の長男嫁だった母は
あの時代多くのお嫁さんが
そうであったように
家にかかわる全てのことを
なんでもひとりでこなしていた
だから当然喪主は父だが
葬儀に関してなどの
全てのことは実家に同居していた
わたしと姉が
取り仕切り動き決めていた
もちろん親戚や葬儀社の方に
意見を聞いたり
相談したり
本当にお世話になった方々には
感謝しかない
母は入院する直前まで
正社員ではないが現役で
冠婚葬祭の互助会の会社で
個人相手の営業と集金の仕事をしていた
そのため
訃報の連絡先が多岐に渡った
また
わたしたち一家は
もともと父が生まれ育った
東京が地元で
平成のはじめ頃に神奈川県の
母の実家近くに引っ越すまで
わたしたち子供も
東京で生まれ育ったので
母も東京の地元での
交友関係はとても広かった
人が好きで
人の世話をするのが好きで
人情に厚く
いつもにこにこ
そんな母だったので
何をするにしても
母がよろこんでくれるようにと
葬儀関連に関しては
姉とふたりいろいろ話ながら
決めていった
通夜までの2日だったか
3日だったかおぼえてないけど
わたしは母のいる和室で
狭いのに
母の横に布団をひいて
母の顔を見ながら眠った
母の亡くなったその4月
雪国に嫁いだ末っ子の妹は
二人目の子供を
帝王切開で出産予定だった
上の子が保育園に行っているので
里帰りせず地元で産むことに
なっていた
小さな体で大きなお腹をかかえ
旦那さんにささえながら
泣いていた妹が忘れられない
葬儀のために帰省していた妹と
姉と話していた時
葬儀後すぐは特にしなければならないことも
少ないし姉がやってくれるというので
母の代わりというか
わたしが妹の家に産前産後の
手伝いに行くということになった
とはいえそんなに長くいてあげられず
たしか3週間くらいだったかな
元気に甥っ子が生まれ
妹も退院し
少し落ち着いたところで
わたしは実家に帰ってきた
その後
職安で知った
無料の職業訓練校に3か月通い
訓練のカリキュラムにあった現場実習で
通っていた学校の
アシスタントインストラクターを経験し
そのままそこの学校に
メインとサブのインストラクターとして
就業することになった
こんな風に
葬儀の後すぐに実家を離れ
いのちの誕生を祝い喜び
戻ってからも
新しい環境で
新しく勉強をし
そして
未経験の学校という環境で
新しい職種に就いた
その後も
一生懸命働いた
普通に暮らした
家に母の姿はないけど
生前の母は仕事で家にいる
ことが少なかったから
帰ってきそうな気さえした
同じ年の終わりに
父にがんが見つかった
大腸がんだった
母と同じ病院に入院し手術をした
母のもとに通ったことを思い出し
なんだか不思議な感じがしたのを覚えている
父はその後も手術を受けることがあったが
無事元気に暮らせるようになった
日常が続いた
葬儀では悲しかったし
さんざん泣いた
けど
なんていうか
悲しいけど
受け入れざるおえない現実
実生活の中で
いつしか
母の死を
悲しみ切れずに
向かい合えずに
いる自分に気がついてしまった
そして
自分を責めた
母を嫌っていたわたし
母を大事にしなかったわたし
母に優しくしなかったわたし
母にきつくあたったわたし
わざとそんな記憶ばかりを思い出し
自分を罰した
無意識下でも
母を幸せにしてあげられなかったんだから
母より幸せになっちゃいけない
母と同じように経済的に困っていなければならない
母を楽にさせてあげられなかったから
母と同じようにお金に苦労しなければいけない
と刷り込んだ
そして
罰することで
母の死の悲しみから逃げていた
わたしは
母が亡くなって
本当は
悲しかった
さみしかった
嫌だった
悔しかった
つらかった
母が
恋しかった
わたしは
母のことが
嫌いだったし
うらめしかったし
負担だったし
腹立たしかったし
うらやましかったし
軽蔑したし
離れたかったし
いなくなればいいとさえ思った
でも
わたしは
母のこと
大好きで
愛おしくて
尊敬してて
頼ってて
母に
愛されたくて
褒められたくて
見ててほしくて
話したくて
教えてほしくて
なのだ
本当の気持ちを認めてしまったら
耐え切れなくなるような
そんな恐怖があったのかもしれない…
母を恨んで憎んでいると思った方が
二度と会えない恐怖より
楽だったのかもしれない…
そしてそんな自分を
責めて罰する
すごいよね…
今朝
胸の奥から
湧き出た感情は
恋しい
だった
ただただ
母に会いたい
母が恋しい
母に甘えたい
だった
嫌悪感もなく
罪悪感もなく
責める気持ちもなく
ただただ
母が
恋しかった
15分くらいの時間だったけど
涙がとまり
胸の奥の感情を
感じ切った
と
思えたとき
ずっと責め続けた自分を
すっと罰し続けた自分を
もう赦そう
と思った
こころが軽くなった気がした
ここまでを読み返すと
母親と不仲な娘
のようだけど(笑)
実際は
仲も良かったし
大切にも思ってたし
それを母に伝えてたし
もちろん今も
あの時ああしてあげればよかった
とか
あんなこと言わなきゃよかった
とか
後悔することはある
けど
仕方ない
ずっと母とのことでモヤモヤしていたけど
やっとフラットな気持ちになれた感じ
そして
今は
母のことを想うと
あたたかい気持ち
を感じれる
不思議だけど
今は
会いたい
と
恋しい
は
あたたかい感情でわいてくる
もういいんだね
もうすぐ春のお彼岸
今年もお墓参りで母に会いたいと思う
ママ 恋しいよ