暇があれば更新しようと思って先延ばし

募りにつもりこの体たらくだ

まったく、人は変わりにくいとはよく言ったもんだ

 

さて話は変わり、大学へ

一念発起して大学をやめて時が少し経った

もっとも3年も顔をほぼ出していなかったゆえ

ほぼほぼ学生としての思い出もないに等しいのだが

その詳細を話し出すと円周率が数え終わるだろうからやめておこう

 

それはともかく、この世にどれほどいるだろうか

「自ら所属する/した大学を心から憎む者」は

あの学生の浮かれた雰囲気のなか

自らを保とうとするのは楽なことでは無い

少なからず手元には山ほどの氷と1250本のニッカ・フロムザバレル

そして、5000カートンのコイーバ・オリジナルが必要だ

 

しかし、一歩身を引いて冷めてみると意外と面白い

なのでついつい喫煙所だけはよく出入りする

コイーバを煙らせながら周りを見てみると

何故世の中で「これだから大学生は.....」と言われる所以が

よく見えてくるだろう

まるで中学生の集まりと言える

人の目があるところにも関わらず、大声で騒ぎ

我が物と言わんばかりにそのスペースを占拠してゆく

 

もちろん、まともな学生も見ることができる

そんな彼らは比較的少数派か一人で闊歩していく

その姿の堂々たるや

凛とした姿についつい心惹かれてしまう

 

ほろ酔いで煙たい視界から眺めるたび

自分も考えさせられる

果たしてどちら派なのかと

 

無論、仲間で集まってワイワイやるのは楽しいこと

よく知った顔であればあるほど楽しくなるものだ

しかし楽しいだけを共有するのが友人ではない

苦楽を共にし、それぞれの視点で、それぞれの事を想い

互いの人生を良くし考えていくものではないだろうか

 

私はそんな考えと共に二十数年生きてきた

この考えが正しいか間違っているかは死ぬまでわからないだろう

 

 

私は昔から世にあるものでも古いの物の方が好きだ
自分が生まれる前の時代のものである
それは物自体であったり、文化であったり、思想であったり色々だ
そこにはエネルギーが、品が、活気が、歴史がある


例をあげるならば私が愛用するzippoが代表例だ
私が使うのは1932レプリカのセカンドリリース
その形はzippoユーザーには独特の雰囲気と共に受け入れられるだろう
よく目にする丸みを帯びたzippoとは違い
角張った長方形型で蓋のヒンジは外付けであり
私は工業製品だと主張をしてやまない
また歴史的にzippo社が初めてzippoを売り出した形と言われている
セカンドリリースとは2度目に発売した、言わば再販モデルだと言う事だ

しかし、1932年レプリカは少しズレている点もある
それは1932レプリカセカンドリリースの発売から一年半後
zippo社内から書類が見つかり、正式にzippoがその形で発売したのは
1932年ではなく1933年と判明する
これにより、私が持つ1932レプリカはある種のミスプリントモデルになった訳だ
普通の人であれば持っていたものが本物ではなく偽物と分かると落胆するだろう

私は違った
偽物だから、外れものだからこそ買いたいと思ったのだ

私の思想も昔のものの影響で自分の世代とズレることがよくある
今や自然体で人と向かい合える時代
その中で見栄を張り、キザであり、悪口も言わず、淡々と酒をタバコを身に馴染ます
これでは周りと馴染む事は難しい
もちろん、私が惚れ込んだ時代を生きてきた方からはエールを頂くこともある
「今でもこんなヤツがいるとは驚いた、貫いてくれ」と

私も貫く所存でいるが生きる事は楽ではない
そもそもズレているのだから

せめて私の手の中にある1932レプリカが沈黙するまでは
私も生き続けて行こうと思う、外れモノ同士で

 

昔からドラマ、映画が好きな自分の生活の中には

自然とミリタリーも絡んでくる

銀幕の中にいる主人公たちがタバコやzippoそれ以外に持ち歩くといえば

もちろん「銃」だ

 

そんな世界に完全に魅了されてしまえば最後

どんどん深みにはまっていき

お陰様で拳銃に関してはそれなりな知識が揃ってしまった

映画のヒーロー、ヒロインが手にすると自然とどのモデルか

考えてしまう癖までついてしまう始末

 

そこはまあいいとして

 

そんな人間である故にやはり「戦争」という単語が出るたび

反射的に聞き耳を立ててしまう

だがそこから聞こえてくるのは期待ハズレなものばかり

北朝鮮がICBMまで用意できてしまった猶予を与えた一端が

日本人にあるのを理解できていないような会話しか耳に入らない

全ては「戦争はいけないこと」という根底がそうさせているのだ

 

私とて戦争したいと思ったことは一度も無い

しかしだ、望まなくとも戦争に巻き込まれてしまった場合はどうであろうか?

そうなれば否が応でも戦うこととなるだろう

もし、そこで戦わずそのまま降伏したとしたら?

そうなれば攻め込んできた国に蹂躙されてしまう事だって考えられる

いや、蹂躙されるだろう

 

そうすれば最後

今まさに我々が享受している自由というものが

右から左までなくなってしまう事など想像するまでもない

 

となれば、とある人々達が声高に叫ぶ「平和憲法」というものは

ただの紙切れとなりなんの意味も成さなくなる

彼らは憲法9条を聖典の様に扱っている

絶対に遵守せねばならない、変えるなどとんでもないと

 

しかしその結果が、我々から自由を、平和を奪うとするなら

その聖典は「平和憲法」と言えるのだろうか?

 

私はこの憲法をたまにこう呼ぶ

「事なかれ憲法」と

何も起きないのが平和であり、自ら何か動くこともないと

 

ならば問おう

「何もしないのが平和なのか?」と