明理の世界

明理の世界

余白を極める

Amebaでブログを始めよう!

永遠のように思えた妊娠期間だった。

 

やっとのことで作曲と演奏のプロジェクトを進め、

この機会に体を強化しようと、筋トレと格闘技に励んだ。

 

結局、ブログは停滞状態のままで終わった。

書きたいことはいっぱい、いっぱいあったんだけどな。

 

 

 

 

スーパーアクティブ妊婦となり、現実逃避を続け、

まともに病院に行く用意もしていなかった私だが、

容赦無く、運命の時は来た。

 

予定より数週間早く破水してしまったのだ。

よろめきながら病院へ行く。

 

出産を取り扱っている13階へ。

エレベーターの中で「なんか、ボス部屋に行く気分だね」と話したのを覚えている。

 

 

 

・・・・

娘が生まれて1ヶ月経った。

 

出産が「ボスキャラとの戦い」のようなものだと思っていたが、

実はそれより手ごわいのはその後の日々だということを、今になって知った・・・

 

 

正直、ブログは今のところどうやって続けていったらいいのかわからない。

少ない細切れ時間を使うのは上手なほうだが、

ここまで極限に時間が制限されたことは今までにない。

 

最後の方では本当さぼってばかりのアメブロだったけれど、

やっぱりこれは私にとって特別な場所だし、やめたくはない。

だけど、続けられる自信もない。

 

というわけで、いつになるかわからないけれど、

少し時間ができた時に書く場所として、このブログはこのまま残しておこうと思う。

 

 

読んでくださっていた皆さん、どうもありがとう。

生まれる子供というのは、母親と父親の遺伝子を足して2できちんと割ったような姿で出てくるわけではない。どんなものが現れるか、そこにはどういった保証もないわけである。

 

でも私としては、無事に産まれてくれば嬉しいだけだ。

五体満足ならそれでいい。

 

 

 

 

ただ、五体満足っていうのは、

よくわからない表現だよなあ。

 

まずその「五体」というのは、

胴体を除く5つのパーツを言うんだろうか?

(頭、右足、左足、右腕、左腕= 合計5つとなるから)

 

胴体がないと5つのパーツがくっつく場所がないから、

胴体はもちろんあるという前提になっているのだろう。

 

でも、だからといってこの5つさえ揃っていればいいというのは、

ずいぶんと大雑把な計算じゃないか?

 

 

 

 

 

まあ、無事に産まれてきてくれればいいことは確かだ。

でもただひとつだけコソッと贅沢を言わせてもらえば、

ぱっちりした目になればいいなあ・・・

と思う。

 

 

私はあまり美容全般にこだわったことはないが、

瞼だけには、結構な労力を注いできた。

 

ぱっちり目メイクがうまくいった日には、うっとり鏡を眺めながら、

「まあぱっちりして見違えるみたいだわ。今日は素敵な人に出会えるかしら」 

 

そのように乙女心と期待がつのったものである。

瞼も、ずいぶんと大きな負荷を背負わされてきたものだ。

 

 

 

 

 

さて、この胎児の瞼はどうなるだろう?

 

ぱっちりした二重の遺伝子と、私の瞼の遺伝子。

彼らは、リングで勇ましい戦いを繰り広げたと思われる。

 

 

 

つわりの真っ只中にでさえも、

こういうシーンが何度か、私の脳裏をかすめたものだ。

 

 

さて、優勝したのはどちらだろうか。

 

子供が出てくるのを、

福袋を開けるつもりで楽しみにすることにする。

 

妊婦には必需といわれる、

特別なマッサージがあるらしい・・・

 

赤ん坊が出てくる時に裂けないよう、

伸びを良くするためだとか。

 

 

 

 

かいいんマッサージというらしいのでグーグルで検索してみた。

 

いいぞいいぞ、沢山ヒットした。

「新規会員の皆様へ」 

「会員登録で3000円のマッサージ券プレゼント」

 

なんだか違う。

調べ直した結果、これは実は「えいん」と読むんだそう。

ええいややこしい。

 

会陰マッサージ。

あったあった・・・

 

マッサージよりも、私はまず漢字の勉強をすべきではないだろうか。

 

 

 

 

ところで「陰」という漢字は、

見るからに秘密に溢れていて怪しい感じだなと私はいつも思う。

 

右の部分に線がいっぱいあるところなど特に、ビジュアル的なインパクトがある。

貝の身の柔らかい部分を思い起こさせるというか。

漢字を眺めてはそのイメージに負けてボケッとしてしまう私である。

 

・・・・・・・

 

本題に戻る。

 

まあとにかくやってみましたわ。

会陰マッサージ。

ひとりでコソコソと。

 

 

 

結果。

痛え!!!!!

ちょっと伸ばしただけでも痛え!!!

 

子供を産む勇気がなくなった。

こりゃもう、次元を超えてワープでもしてもらわないと無理。

 

 

 

 

 

会陰マッサージのためにわざわざ健康食店で買った「無臭ココナッツオイル」

 

これはヘルシーなパイ皮を作るのに最適だということが判明したので、

何度かアップルパイと栗のパイに利用され、

そしておかず編としてはチキンポットパイにも化けた。

 

 

なんだか私、ヤケになってパイばっかり作ってはいないか?

 

こんな静かな大晦日と元旦を過ごしたのは初めてだ。

もう2020年かぁ・・・。

 

きれいに割り切れる文字になって、本当にスッキリした!

(それ以外にコメントはないものか)

 

 

 

皆さま、こんな気まぐれな私と付き合ってくださりどうもありがとうございます。

冗談抜きで本当に感謝している。

 

どれだけこれが独り言のようなブログとはいえ、

そしてただのバーチャル関係だとはいえ、

私は、人間と人間との繋がりは「ご縁」として考えているのだ。

 

 

 

 

 

元旦くらいはちょっとめでたい画像をアップしよう!と思い立った。

いつもは、猫の足みたいなモノ以外はこのブログではあまり登場しないから。

 

というわけで、

教え子から頂いた手作りのクッキー。

 

 

くれた相手に面と向かっては言えないが、

こういうちょっと不恰好なクッキーは、格別美味しいと思う。

 

大きさも揃っていなくて、飾りも微妙。

でも、とっても味わいが深い。

 

 

クリスマスになると決まって作るレシピなんだそうだ。

そういう各自の家の伝統みたいなものがあるってのは、なんだか素敵。

 

私もそういう家庭にしたいな・・・

ひそかにあこがれた。

 

 

 

ところで、我が家にはこれといった「定番レシピ」というものがない。

私があまりにも気まぐれで、毎回違うものばかり、

ヘンテコなものを創作し続けているから。

 

でもまあ、それはそれでいいか。

最近、食べたいものといえばこんなものばかり。

 

 

このように並んでいるのを見ると頭の中は、

「一年生のたのしい算数」の世界にヒューッと戻っていってしまう。

 

「よし子さんはりんご3個とアボカド6個とオレンジ5個を買いました。

合計でいくつ買いましたか?」

 

 

 

 

 

さて次に問題です。

「上記の例文にひとつ間違いがあります。

それはなんでしょう?」

 

解答:

このような問題は、時代錯誤である。

「よし子さん」が出てくるような教科書にはアボカドは出てこない。

当時の食卓にのぼるような「みかん」や「りんご」にとどめておくべきである。

 

 

 

 

私の記憶の中では、小学校低学年の算数の教科書といえば、

よし子さんやらはな子さんやらが、永久に果物を数えさせられていたようだ。

 

彼らは、時折おはじきを数えていたこともあった気がする。

一体いつの時代だ?

 

 

 

さて、よし子さんとはな子さんらが絶滅危惧種となっている現代、

教科書の登場人物はどんな名前になっているんだろう?

 

「あいりさん」「ゆなさん」などが大活躍して、

マカロンやカプチーノを大張り切りで数えていたりするんだろうか。

 

 

よし子さんは引退したみたいよ。せいせいしたわね。

これからは私たちの時代よ。

(彼らの舞台裏会話)

 

 

出産まであと60日。

仕事はあと三週間。

 

この歳にして私はやっと、

「現在の自分のキャパシティを知る」という術をおぼえた。

 

 

現在の私のキャパシティ、私の器の大きさとは、

どのくらいだろう?

 

 

 

多分このくらい。

 


「一寸法師」

 

これはお椀に入るくらいのサイズの子供なのだが、

お椀で川下りをして、きびだんごを持って鬼退治に行くのだ。

 

あれ?

桃太郎のストーリーと間違えたかな。

まあいいわ。

 

 

 

 

あまり多くを取り込めなくなった私の頭。

気をつけないとすぐに、いっぱいいっぱいになってしまう。

 

でも、キャパオーバーしてしまった時には、

少しだけ目を閉じて深呼吸すればいいだけ。

 

そうすることで簡単に、

自分の心の中に溜まった不要物を出せるのだ。 

 

どれだけ自分のお椀が小さくても、

お椀をいつでもひっくり返して空っぽにできるから、

すっきりした気分でいられる。

 

 

 

 

今考えると、妊娠前の私は、

いろんな面で無理をしていたようだ。

 

私は常に強くあるべきだという執着が、

結果として、自分自身を弱くしていたんだと思う。

 

柔らかなキャラメルと違って、硬くなった飴のよう。

脆くて、すぐにパリンと割れてしまう。

 

 

 

 

 

川下りをする一寸法師が、平然と澄ました顔をしているのは、

彼が自分自身のお椀の大きさを、よく把握しているからだろう。

 

私はそう思う。

 

 

 

この椅子を見て思い出すのは、

足のやたらと長い、カサカサ走る蜘蛛。

 

 

あの蜘蛛の足を全部引っこ抜いてやったら、どうなるだろうか?

それは、ただの黒い小さな玉と化する。

誰もそれが蜘蛛とすらわからないだろう。

 

でもすぐに死ぬこともできないだろうから、

蜘蛛は、自分の身に起こったことすら理解できずに、

ただそこに玉として鎮座して在るだけになる。

 

高校生の頃だったかな、

蜘蛛を見るたびにこんなことを考えていたのは。

 

 

 

 

蜘蛛の「アイデンティティー」とは、あの長い足で歩き回っていることであって、

それがトレードマークのようなものだったのだ。

少なくとも私の中では。

 

 

現在の自分の気分もどこか、

蜘蛛と似ていた気がする。

 

妊娠することによって得るものは、かけがえがないことなのだろうけど、

今のところ目に見えるのは、自分から取り去られていく要素ばかりだ。

 

仕事、能力、

体力、外見・・・。

 

自分はそんな外面的なことに囚われてはいないと思っていたけれど、

当たり前のように使っていたものを取り去ってみると、ひどく不安になるものだ。

 

実際には、全てを失っているなどという大げさな事態ではないのだけれど、

なんらかの慣れていたものを少しの間でも失うという経験は、

不動の事実のように見えることでも、それは実は不動のリアリティではない、

ということを私に思い起こさせた。

 

妊娠がどうだとかいうよりも、

その経験を通して、自分の存在意義について漠然とした不安を感じたのだ。

 

 

 

蜘蛛の足を取り除いた蜘蛛には、

いったい何が残るのだろう。

 

自分の中の見えない枷が、

初めて見えた気がした。

 

 

 

 

 

何もする気力もなく風呂に入った。

 

湯船でジン・マルティーニを飲みながらロシア文学に浸り、

長風呂してのぼせるのが以前の私の趣味だったのだが、

それも今ではできないため、おとなしくただお湯に浸かる。

 

 

うわーんと声を出して泣いた。

何度も何度も。

 

どれだけ泣いても、お湯の中に涙が柔らかく吸い込まれていく。

 

それを見ていると楽になってきて、

さらに涙が溢れる。

 

どれだけ積もっていたんだろう。

 

 

 

 

胎教なんて何をいうか。

私には、相手に教えることなんて何もない。

 

こっちが教わっているだけだ。

どう考えても、腑に落ちない。

 

 

 

ねちねちと過去のことをほじくり出してきて文句を言うヤツはうっとうしいと思っていたが、私は現在、そのねちねちレベルをはるかに超えてしまったと思う。

 

何しろ私はこの夏ずっと、聖書の創世記に出てくる「エバ」に愚痴を飛ばして過ごしたのだから。

 

ここまで執念深く歴史を遡って文句を言う人は、

さすがにあまりいないだろう。

 

 

 


人類初の女性エバ。

蛇の誘惑に負け、エデンの園の禁断の果物を食べてしまった。

 

立腹した神は彼女にこう告げた。

 

「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。

あなたは、苦しんで子を産まなければならない」

(創世記3:16)

 

 

 

これぞ、決定的な歴史的瞬間。

星の数のような世界中の女性の叫びが聞こえるようだ。

 

私がこうしてつわりで苦しんでいるのも、

すべてエバのせいだということになるのだ。

 

 

 

 

 

でも、突っ込みたくもなる。

 

エバひとりで罪を負ってくれよ。

なんで私たちまでが巻き添えにされるの?

 

 

 

彼女は、ちょっとした出来心でやったのだと思う。

自分が人類の未来を背負っていることもつゆ知らずに。

 

でも仮に自分の責任を知っていたとしても、

結果は同じだったかもしれない。

人間にはそういうところがあるから。

 

私自身の過去を振り返ってみてもそうだ。

自分の責任をよく知っていながらも、目の前のことしか見えなくなって、身を亡ぼしてもおかしくないリスクを犯したことは、いったい今までに何回あるだろうか。

 

そう、もし私が彼女だったとしても、

きっと禁断の実を食べていただろうと思うのだ。

 

 

 

現在だって、常に蛇に惑わされて、

怪しげな実をたくさん食しているじゃないか。

 

しかし果汁だらけになって汚れた口元を拭きながらも、

私はやっぱりエバを責めたい。

 

 

 

具体的に怒る相手がいる方が、

漠然と苦しむより楽だったのかもしれないなと思う。

 

つわりがほとんど過ぎてしまった今こそ、

やっと書けること。

 

 

 

 

 

余談だが、禁断の実とはじつは林檎ではなくて

バナナだったという説がある。

 

確かに、林檎だったとはどこにも記されていないが、ちょっとイメージ狂うなあ。アダムとエバの肌の色まで、ついでに白から褐色になってしまいそうだ。(私ってどこまで偏見深いの?)

 

あらゆることの基盤であるかのような取り扱いを受けている林檎。

マッキントッシュのパソコンもそうだし、ニュートンが重力を発見する時に登場する果物も林檎。

(彼が木から落ちる林檎を見て万有引力を見つけたというのは、作り話だそうだが)


 

 

人生の道理の不平等さが腑に落ちないまま、

「林檎かバナナか」という話題で茶を濁し、

ブログ記事は終わる。


 

 

「ドンドコドコドコドコドコ・・・・」

 

毎朝4時になると腹の振動が始まる。

こうなると、もうじっとしてはいられない。

 

これが胎動というものなのだ。

それは日が進むにつれて、クレッシェンドをかけていき迫力を増している。

 

私はいつも間にか、

このリズムと共に生きることに慣れていた。 

 

 

 

 

新しい存在は、すでにここにいる。 

これから世界に生まれるものではなくて、

もう「在る」のだ。

 

それは頭で理解できることではなかった。 
胎動の感覚で、身体が理解したのだと思う。 

 

 

 

理解できなかった事実がここまですんなりと、

明白なものとなっている。

 

 

 

日常の多くの小さなことが実質的にどうでもよくなった。

必死でしがみついていた数々の、しがらみや迷い。 

あれらはいったい何だったんだろう。 

 

 

 

思い起こすと私は今まで、何かを頭で考えてまともにどこかに行き着いたことはない。

何しろ、三歩歩けば三歩前のことをすぐに忘れてしまうような頭なのだ。 

 

生きるのには手ぶらが一番だという信念に落ち着き、

空っぽの頭のまま堂々と生きるようになった。

 

「頭というものをいかに使わずに生きるか」

頭とは、そのような生き方を研究して深めていくためのツールだと思う。

 

勉強する時も、芸術活動でも同じことだ。

情報を頭に仕込んで、いったん休んで起きてみると、

ひとりでに目の前に解答が見えてくる。

 

もっとも重要な作業は、目には見えないところで起こる。

水面下の、潜在意識の中で行われていることなのだ。

 

 

 

 

そして今回のケースもそう。

私は結局、命の始まりについては何も理解できず・・・。

 

そして今でも、まったく何もわからないままに、

胎動のリズムを、すんなりと受け入れている。

 

ブログを書くのは、びっくり箱を開けるみたいな感じだ。

 

その日には自分のどんな顔が出てくるのかは、

実際に書いてみないとわからない。 

 

それを私は、たまらなく面白いと思う。

昔は、自分のキャラが統一していないとか気にしていた時代もあったが、

今になってはそんなことははなはだどうでもよくなってきた。

 

 

なぜいちいちこういう前書きを書いているのかというと、

今日も相変わらず、毒舌が続くからである。

 

自分がびっくり箱だとしたら、

最近は鬼のような変顔しか飛び出てこない。

 

 

 

 

さて。

自分が妊婦になったからこそ、やっと口に出して言えることがある。

 

バイアスだらけの、私個人のただの主観だが、

包み隠さず話してしまおう。

 

・・・・・・・・・・

 

私は妊娠した女性の姿を、ずっとグロテスクだと思っていた。

あの大きなお腹がどうしても「生理的に無理」だったのだ。

 

妊娠とは生物学的なことなのに、それが「生理的に無理」

何という矛盾だろうか。

 

 

 

断っておくが、私は矛盾というものが好きだ。

矛盾という要素なしでは、調和も芸術もありえない。

しかし個人的レベルでいうと、矛盾を背負って生きるのはやはり辛いものがある。

 

今考えるとこれは明らかに、「お子さんはまだなの?」

と周囲から繰り返し尋ねられるプレッシャーから生まれたものだと思うが。

 

 

 


 

さすがに自分の体型が変わると「生理的に無理」なんて言っていられないが

それでもやっぱり「ウワッ何じゃこれ」と鏡を見るたびに思う。

 

 

「妊娠は自然であり、したがって美しいことである」

 

そう主張されそうだが、そんなことが言えるのはそれが他人事だからか、またはそれを言っている当人にとってはすでに過ぎたことだからだ。喉元過ぎれば熱さを忘れるってやつだと思う。

  

 

 

 

「妊婦体型の女は、女性として見ることができない」

 

そう夫に言われて傷ついて泣く妻についての話などをよくネットで見かける。そんなこといちいち口にするその旦那がバカすぎることはさておき、私としては、この限られた期間くらい別に女性として見てくれなくていいというのが本音である。いっそのことその方が気楽ではないか?

 

 

 

 

私は自然の姿をもっと、

プラスに受け止めるべきなのだろうか。

 

それはそうかもしれない。

でも、無理に自然を美化する必要はないと思う。

 

美しいとか否かという議論よりも、

私としてはこの状態を、そのままで割り切って楽しむ方がいいな。

そしてそのためには、自分自身を笑うくらいの気持ちを持つ方がやりやすいと思う。