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ナチュラルになるよ

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 昨日の投稿で書いたとおり、今日は「在る」とはいったいどういうことかを私なりにお話したい。これは、非常にシンプルなことである。「在る」とはつまり、「そこに存在している」ということに過ぎないからだ。私たちは基本的に誰でも、この瞬間、ここに「在る」のであり、それは動かしがたい事実である。

 私は、この最もシンプルな「在る」という状態を、自分の根本的状態として捉えた。それは、魚を見れば「楽しそうに泳いでいて羨ましいな」と感じ、森を見れば「風にそよいで気持ちが良さそうだ」と感じ、星々を見れば「美しく瞬いていてなんて健やかなのだろうか」と感じたからである。森羅万象は、ただ「在る」という状態がひたすらに美しく、無理がない。

 風が在りのままに吹けば植物が在りのままに風にそよぎ、種子を飛ばし、種子は在りのままに地面に落ちるとやがて在りのままに運ばれてきた土に埋もれ、特に無理をしたり意図したりしたわけでもないのに根を伸ばす。すべては調和し、循環し、成立している。

 さて、もちろん例外は存在するだろうが、私たちのほとんどは調和を求め、円滑な循環を求め、不満や滞りがなく自分を取り巻く全てが成立することを求める。そのために少なからぬ労を払い、仕事をし、我慢をし、疲労し、その合間で手にする僅かばかりの休息を頼りに日々を渡ってゆく。なぜこんなことをしなくてはいけないのだろう? 調和もしていなければ、循環もしていない。私はただ成立しているように見せかけ、自分でもそう思い込もうとして躍起になっていたのである。

 私はかつて会社勤めをしていたころ、日々のあまりの虚しさに絶望し続けていた。私はただ「在りたい」だけだというのに、なぜそれがこうもままならないのだろう? 会社を終えて自宅に帰り、ようやくネクタイを緩めてぐびりとビールを飲む。ほんの束の間のそんな生の実感のために、いったい何時間という犠牲を払わなくてはいけないのだろう?

 私は、常々こう思っていた。

「生きるということに、それほどの犠牲を払う価値が果たしてあるのだろうか?」

 我慢し、苦しみ、起きたくもない時間に起き、やりたくもない仕事をする。もし一生がそんな日々の連続なのだとしたら、こんなに馬鹿馬鹿しい話は無いではないか。そんな気持ちに追い立てられれば追い立てられるほど、私はさらに仕事に没頭した。

「仕事をして金を得れば、その金で時間が買える。ようやく『在る』ことができる」

 そんなふうに思っていたのだ。だが、そんな日々が来ることは決してない。

 もう何年も「人身事故」で電車が止まるのが当たり前になっている。あれは、私のように「働き続ければいつか『在る』ことを許されるようになるはず」と思い仕事仕事の日々を送り続けた人びとが、絶望し、諦め、挫折してしまうから起こるのだ。彼らは世界から否定されたとすっかり打ちひしがれ、「在る」ことを諦めてしまうのである。

 だが、果たして「在る」ことに努力など必要なのだろうか? 私は考えた。
 
 魚は、木々は、そして星々は、努力しているのだろうか? 私たち人間は、そうした森羅万象と同じ自然物のはずではないか。なぜ私たちは、「在ろう」としないのだろう? なぜ私たちは「屋根のあるところに住み、調理された食物を食べ、便器に排便する暮らし」を追い求めるのだろう? 本来私たちには、星を見上げて眠り、木の実を食べ、茂みで糞をする自由がいくらでもあり、そのほうがむしろ自然であるはずなのだ。

 そう思ったとき、私は自分が既に「在る」ことを許されていたのだと心から実感した。私は「在る」ためにつらい思いをして仕事の日々を送っていたわけではなかったのだ。既に「在る」自分を、いくらか快適にさせるために仕事をしていたのだ。私は、すでに「在った」のである。私だけではない。全ての人びとが、生まれると同時に「在る」ことを許されていたのである。私たちは肩の力を抜いたとき、自由になることができる。「在る」ことができる。これは、いつでも、誰にでもできることだ。

 そう思うと、すとんと胸のつかえが落ちたように、私の心は軽くなった。その時になって初めて私は「ただ『在る』だけでは満足しようとしない別の自分」が自分の中にいることを実感したのだった。

 次回は、その「別の自分」の話をしたい。