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しばらくブログを書いてなかったのだが、廃校巡りはちょこちょこしたりしています。

 

まずは、京丹波町を訪れたときの記録から。

 

京丹波町の旧和知町は今は少子化のため学校が集約されているが、かつてはいくつかの学校に分かれていた。

山陰本線・由良川とほぼ平行して国道27号線が通っているのだが、旧和知町の中心は由良川が大きくカーブする内側に位置している。線路もそこを通過していて、駅はここにあるのだが国道の方はまっすぐトンネルをぬけてショートカット。

トンネルの入口のすぐ右手に和知小学校があったようなのだがこれはちゃんと見ていない。現在では旧和知町唯一の小学校となっている。

由良川沿いに国道を東進、旧市街がトンネルでバイパスされているので、知らないといつまで経っても町並みが現れない変な町だと勘違いしそうだ。ちなみにこの方向は由良川の流れとしては上流にさかのぼることになる。

さかのぼっていくと、途中で川が分岐する。もちろん実際には川が合流しているわけだ。由良川と、そこからさらに南からやってきている高屋川である。

由良川はここでもまた大きなカーブを描いて北から流れ込んできている。国道は高屋川沿いにつづいているのでここで県道へと入っていく。

 

旧和知町は昭和の大合併の際に上和知村と下和知村が合併してできた町で、どっちの中心地も今の中心地とは一致しないらしい。どういうことなのかよくわからないが、おそらくそれほど2つの村に大小の差がなくて、合併してからの開発で今の中心部が出来たのだろう。だいたい和知トンネルを挟んで東がわが上和知村、西がわが下和知村というところ。

上和知村のかつての中心部はこの合流点から少し由良川をさかのぼったところにあったようだ。基本的に川沿い以外はほとんど山地の地域だが、この合流点あたりはやや広い平野になっていている。それもすぐに終わり、川沿いの道を少し進むと、ふたたび川の合流点で少し開けた平野が現れる。ここで道路も2つに分岐しており、右手に行くと大野川沿いで旧美山町の大野地区に至る。標識には、左側には仏主という地名。わかりませんね。

左折してすぐに、廃校後のような建物が目に入った。

 

旧和知第二小学校の跡地。2001年閉校で、古いサイトなどによると前は木造校舎が残っていたらしいのだが、2012年頃に解体された模様。跡地はなんかの施設。

へき地等級は無級。旧下和知村の中心地ということで、まあそんなもんでしょう。
 
さて更に川沿いに北上していくとますます山の中で、家がある程度まとまっているところは大体合流点ということになる。そのなかで比較的大きなところが上粟野で、郵便局があったり寺社仏閣がいくつかあったりする。
その上粟野で道路の左手に、グラウンドがある。高齢者の人の憩いの場として使われているっぽいが、ただの市民広場にしては立派である。よくみると、ありました。山の手に学校跡。

これは和知第三小学校跡である。2001年閉校で、かつては上粟野小学校という名前だったがのちに改称。

へき地1級地である。

ちなみに仏主というのはさらにここから川を遡った最上流の地名なんだそうだが、そこまでは訪れていません。

 

 

 

 

(出典:電子地形図25000(国土地理院)) 

 

夏なので、美山町(現南丹市)のへき地学校跡を探索してきた。

最初は京都市側に遊びに行くつもりだったのだが、どうも京都〜高槻あたりが渋滞に陥っていたらしく、止々呂美あたりでさっさと降りてしまわないと有料のくせに時間が浪費されるという全くありがたくない話になりそうほうだったため、じゃあ美山に行くかとなった。

止々呂美で降りてからR423で亀岡に入り、そこから八木周りで京北のR162経由で美山町に入るという丹波方面を訪れるおなじみルートなのだが、ここまででけっこうな走行距離。地図だとたいしたことないのだが、なんせ山道なので実際の走行距離はけっこう長い。
天気は、出てくるときは良かったのだけれどもだんだん下り坂で、日吉ダムのあたりで雨が降り始めた。
R477とR162の交わるところで、道の駅ウッディに立ち寄る。木工の小物や野菜などが豊富な道の駅。
テレビで有田芳生氏が統一教会の報道がらみでミヤネ屋に出演していた。がんばってほしい。関係無いけどこの人は京北の人だったね。
 
R162に入り、しばらく山に囲まれてはいるものの特に険しいわけでもない普通の山間の町のなかの道を進んでいく。途中、京北第三小学校(もと弓削小学校、へき地1級)が目に入った。しだいに完全に山の中になり、じきにトンネルにたどりつく。
トンネルを抜けて、少し建物なども目立つようになって、国道から県道に切り替わるところの少し先で、バス停「学校前」を発見。
おやと思って車を止めてみると、道から少し小高いところに学校らしき建物が見えた。さっそく見に行ってみる。
 
もっとも現役ではなく、跡地のようだ。電気などが点いているので、最初はまだ現役かと思ってしまったのだが、跡地が再利用されているらしい。
平屋小学校跡。へき地2級(閉校時)。後から知ったところによると、中は教材関係の展示などを行っているらしい。
 
さらに県道を進んでいくと、かやぶきの里を抜けて旧知井村の中心付近にへとたどりついた。中心部から少し進んだあたりで、旧知井小学校がある。小学校にさしかかる少し手前にこんな記念碑が。
ここも閉校後は地域の施設として利用されているようだ。
ここもへき地2級。美山町の小学校は過疎化のため2016年に統合されているが、統合当時はどこも2級地となっていた。
一輪車は昔在籍していた児童のものなのだろうか。
小学校前が市営バスの操車場になっている。
 
この途中にあった内久保集落にはかつて内久保分校があったんだそうだが、これは確認しないまま通り過ぎてしまった。1958年に閉校しているらしいので、おそらくへき地指定はまだされていない(もしくは京都府独自のものが指定されていた可能性があるが、資料がない)と思われる。
 
知井小学校跡からさらに奥へと進むと田歌にさしかかる。29世帯60人が暮らしており、ここもかつては田歌分校があった。当時のへき地等級は1級だが、今とだいぶ基準が違っているので同一には扱えない。
田歌を抜けると本格的に峠道となる。ところどころ一車線しかなく、離合に困りそうな区間もあり、スマホの電波もちょくちょく入らなくなってきた。道路の整備じたいはちゃんとされているのでそれほどではないのだが、ふと右側を見るとけっこうな断崖絶壁である。このへんR477に通じるものがあるが、あそこまで怖くはない。県道より怖い国道っていったい
ぐねぐねししているうちに、工事現場にさしかかった。橋が架かっているが妙に新しい。
 
どうも、本来の道の一部が土砂崩れで通れなくなっているための仮橋っぽい。位置的には出合バス停付近にあたる。
バス停はぼろぼろになっていた。何年もたって朽ち果ててしまった、というわけではなく、おそらく土砂崩れの影響なのだろう。

 あとで調べてみたら、今年1月18日に大規模な土砂崩れが起きて通れなくなったとのことだ。

 この出合バス停は、芦生への分岐点にあたるので、まずは分岐先へ。

「芦生の里」まで2.8kmとある。

まずしばらく行くと、小さな集落がある。ここは口芦生というらしい。山奥ではあるが、まあまあ整備されている。
さらに奥、小さい集落が現れる。芦生集落。
集落の家が立ち並んだ先に、芦生山の家という施設がある。施設につながっている坂道のわきにはいかにも昔は小学校の銘板があったとおぼしき門柱がある。
坂を上がったところには2棟の建物があるが、どうもこのうち古い方の建物がかつての分校らしい。
ボート用の設備などの倉庫と、喫茶店を兼ねているようだが中には入らなかった。
学校横にすぐ横に神社があるのは毎度おなじみ。
芦生分校はへき地4級。現在は合宿所として活用されているようだがで、坂の下には工場がある。というわけで4級地としては栄えている部類だがここまでくる道のりのことを考えればやはりかなりきつい。27世帯47人が暮らしている(2015年)とのこと。
学校から見下ろした芦生の集落の光景。
 

というわけで、いったん芦生から出合まで引き返してあらためて佐々里へ。

 

途中、白石という小集落をぬけて、佐々里の集落に到着する少し手前のカーブでいかにも学校跡という建物が目に入る。バス停の名は「京都美山高校」。いちおう佐々里までバスは通っているのであるが、こんなところに高校…… というか、これが佐々里分校の跡地でもある。
 
佐々里分校はへき地4級。往時(1959年頃)は31名の児童数だったらしい。11世帯22人が暮らしているが、途中にあった白石はどうも現在では定住人口がなく、廃村となっているようだ。なにげなく通り過ぎてしまったのが悔やまれる。
旧美山町時代の町営バスのバス停。これとは別に南丹市営バスのバス停もあり、佐々里まで走っているようだ。とはいえ、一日数本で日曜は運休と、地域の足としてはとてもじゃないが使えなさそうである。

校舎はロープが張られていて中には入ることができないようになっていたが、窓もトタンで目張りされている。ここまでしている廃校跡はあんまりない気がする。

閉校は1980年。その後は、高校の用地として転用されたらしい。自然に囲まれた場所での全寮制高校という構想で作られた学校だったものの、不祥事などがあり高校自体がその後迷走。その後はインターネット学習を中心とした学校へと鞍替えし、現在では本部も京都市内に移転しているようだ。
学生寮、の跡地のようだが、どうも10人くらいしか住めなさそうな気がする。1棟は屋根が破壊され、倒壊しかかっていた。まあ、豪雪地なので雪だけでこうなってもおかしくはない。
校舎の正面には、実習農場と銘打った広場がある。昔は本当に農場だったのだろう。

その横には高校として使われていたころの寮がある。寮というが、ほとんどログハウス。

 

これで京都府内の往時の4級地をすべて訪れたことになる。正直なところ、兵庫の4級地に比べると京都の4級地は訪れやすい。もっとも当時は今より道路条件が悪かっただろうから、きびしかったことは想像に難くない。今回訪れたのは夏だが、冬になると雪深いのでなおさらだろう。実際、この佐々里から先、峠は積雪によっては通行止めになるようだ。芦生で土砂崩れが起きた際は、迂回路ができるまでは陸の孤島と化してしまったため大至急でこちらの除雪を行ったらしい。3月ごろには迂回路ができていたとのこと。
 
佐々里の集落自体はここからさらに少し奥まったところのすこし平地がひろがったところにある。このあたりはヤマメ釣りなどが盛んらしい。
 
  • 本庄豊「ポランの広場 : 瓦解した「宮澤賢治の理想郷」」(かもがわ出版)
廃校後高校として利用されていたころのルポらしい。
 
(出典:電子地形図25000(国土地理院))
 
ちょっと時間ができたので、大畑を再訪してみることにした。
 
テクノから三日月へと降りていく山道から入っていく。もちろん昔はテクノはなかったのだが、ほぼここに重なる山道は途中まであったようで、当時はその道が大畑へと続いていた。今はテクノをむすぶ道路のほうが主要道路となっているので、三叉路になっている。
道路標識がある。
関係ないんだが、「三日月市街」ってやや無理がないか。
 
三叉路から少し入ったところににしはりまクリーンセンターがあるので、はじめのうちは結構立派な道が続く。性質上、トラックとかも通れないと困るしね。前、家電を捨てなきゃならない時に来たことがあるな。
クリーンセンターへの道が分岐したあともしばらくは広々とした道路が続き、まず三原集落が見える。これは県道の脇の道路標識の住所表示も三原となっており、三叉路を含むこのあたり全体が元々はこの集落の地だったらしい。テクノへの道を挟んで反対側には牧場もあるらしい。知らなかった。2015年の人口は13世帯73人(国勢調査)。
 
さらに山道を進んでいくと、今度は三ツ尾が見えてくる。3世帯8人(2015年国勢調査)と、かなり小さな集落。見た目は結構家が立て込んでいるのだが、多分空き家が多いのだろう。
スクールバス乗り場兼、集落の物置? 地蔵や掲示板もある。
 
この三ツ尾をすぎると、急に道路が狭くなってくる。森の中の道という感じになり、鬱蒼と薄暗くなるが気にせず進む。
しばらくすると、東大畑に出る。ぶどうなどを育てている高原集落だ。
その入り口のところにあるのが大畑小学校跡。今はぶどうの集積センターになっているが、片隅に記念碑が残る。
さっきの三ツ尾と同じく、今はスクールバス通いになっているのでこういう停留所がある。こちらだけ新しいのは、三ツ尾のほうはもう長く小学生がいないのかもしれない。
大畑小学校はへき地2級。1971年に閉校し、三日月小学校に統合されている。
古くはこのあたりは南広地区と呼ばれていたそうなのだが、正確な学区は分からない。位置的に考えても、三ツ尾や三原も当時は学区に含まれていたのではないかと思われるのだが。
 
東大畑を抜けてさらにしばらく山道を進むと、大畑の一番奥にあたる、西大畑にたどり着く。
やけに充実したスクールバス乗り場。反対側には小さな待合室もある。
集落の西のはじに少し小高い展望台のようなところがあり、そこから集落を望むかっこうである。山の中だが斜面に家が広がっているので、斜面側の見晴らしは良い。
その展望台。かなりにじんでしまっていて分かりにくいが、「■■頂上公園 H23.3完成」というような文字が読める。
大畑全体の2015年国勢調査による人口は21世帯57人。西大畑の集落をドライブしながら引き返す。
 
ちなみに西新宿より先も、道自体はこの先はあって上郡へと続いているのだが今回の目的ではないし、どういう道路状況かもわからない。
 
と、ここまではこれまでも何度か来たことがある。今回の目的はそれではない。
今回の主目的は、大下りである。この南広地区のなかで唯一廃村になった集落だ。ここまでやってきた道から少しそれる。この日は天気が良かったので多少悪路でも大丈夫だろうということで。
道を引き返して三ツ尾まで戻る。三ツ尾に入る少し手前に、水道施設がある横から細い道が分岐している。
 
 
警告看板が建てられている。ここで脇に伸びている道は二本あるが、今回入るのは下り坂になっている悪路のほうだ。ちなみに上り坂の方はクリーンセンターへと続いているらしい。
実際に下っていくと、すれ違い困難、と言ってもわりと生易しいものではない。右手が崖で左手は谷である。実際のところここで対向車に遭遇したらどうするんだろう。幸い、遭遇しなかったが。一応、なんとか退避できそうなカーブもあるにはあるが。
 
舗装自体は一応ちゃんとされているのたが、それでも何箇所か小さめの穴ぼこがある。うっかりはまると立ち往生というほどでもないが、まあ一応注意して進む。
急勾配急カーブの下り坂を下りきったところで、ちょっと広くなっている空間がある。右手を見る限り、これも水源関係に見えるが、橋がかかっている。
崖の下が川というのは珍しくないのだが、そういえば川がここまで見当たらなかった。
橋を渡るとまた悪路。また川が見当たらなくなった……が後で地図を確認してみたら普通に川沿いに道が走っていたので視界に入らなかっただけっぽい。さほど勾配はないのでそれは救いなのだが、一部舗装がないところもある。これは舗装がないのではなく、土が積もっているだけかもしれないが未確認。
しばらくすると、崖下に小屋のようなものが見える。これは住まいではなくて、農作業小屋のようなもののようだ。もちろんすでに耕作などはされていないが、一応ちゃんと整備したら農地にはなりそうな空間ではある。
ここでもう一つ小さな峠を超えると、道の両側に廃屋が立ち並ぶ。大下りである。
大下りは上大下りと下大下りに分かれており、1970年頃に本来の集落としては廃村になった。「兵庫県の人口急減地域」という論文によると廃村直前には、上大下りに11戸50人、下大下りに9戸44人が暮らしていたようだが、1963年頃から五月雨式に離村が始まって1968年ごろには半数だけが残っていたらしい。時期的に考えて、大畑小学校が廃校になったのはここが廃村になったのとも関わりがありそうである(最も交通の便が悪そうなので)。
上の論文によると、この上大下りが廃村になったあとで、尼崎の個人が土地を買い取って、冷暖房完備の老人村としての家として再生したらしい。自給自足で家賃と食費いらずになっていた……とのことだが、今はそれもないので放棄されたのだろう。いつごろ再度廃村になったのか、はよくわからない。1968年の時点では半分がとどまっていたのだからその後完全に元の住民がいなくなるまでタイムラグはあったはずなのだが、このあたりのことははっきりしない。
この先の道路状況が心配だったのでここで引き返してしまったが、この先には下大下りがある。こっちは1960年代に完全に廃村になったきりのようだ。65〜67年に雪崩式に離村が進んだとされている。特に、比較的大きな土地を持っていた1戸が離村したことが拍車をかけたらしい。
その先は南光町の多賀へと続いているはずだが、地図を見る限りぶっつけで行けるかどうか微妙なのでやめておいた。
後でネットで見かけたレポートだと、まあ行けそうな気がする。
 

先日ヤフオクでニコンF501を落札しました。

F501はニコンの最初のAF専用機。

小6のときに中古のボディをお年玉で買ったのを今でも持っているので思い入れの深い機種でもあります。買ってしばらくして興味が薄れちゃったせいで使った頻度は高くないんですけど。

でもまあAEAF機だし何台も持ってても仕方ない機種ではあるので、じゃあなんでもう一台買い増したのかというと、

 

データバックが付いてるんですよね。 

 

F501用のデータバックのバラ販売なんて昔ならいざしらず今はほぼないんで、というかF501自体がそんな高いカメラじゃないんで付属してるやつを買ったら安上がりっていう。

 

実はF3よりこっちのほうが先に入手してたんだけど。

 こないだ大阪に出る用があったので、この第6波のさなかにあんまり行きたくないけど行ってきた。

 で、いつもどおり日本橋や梅田を回ってたのだが、最近はカメラが部屋にたまりすぎているし、フィルムの値段も上がっているし、ってことであんまり新しいものを買う気も起きなくなっているのだが、八百富写真店でデータバックが売られているのを見つけた。F3用。

 3000円のと5000円のがあったので、3000円のほうをお買い上げ。

 

 データバックはカメラの裏蓋のオプションで、日付なんかを写り込ませるためのアクセサリ。90年代以降は標準装備で付属していることが多いのであんまりオプションとしての販売は無くなっちゃったんじゃないかと思いますがF3時代はそうではなかったので。

 バラだとヤフオクなんかでもあんまり落ちてないんですよねえ。本体と込みで買うのもバカバカしいし。なんせうちにF3、3台あるし。

 

 まあ標準装備時代のAF一眼は何台も持っているわけで、日付を写り込ませたいならそれ使えばいいやないかという声もありましょうが、そこは事情がありまして。ある時期以降の日付機能は19年までしか使えないということが非常に多いんですよ。今年は22年である。

 これは当時のカメラの日付機能モジュールが全部同じメーカーの供給だったため。まあ、当時2019年までそのカメラが使われてるということを想定してなかっただろうし。

 なので元号にして写り込ませたりする人が多いんだけど、元号とかいう非科学的なものを必要以上に使いたくはないし西暦でやろうと思うとこのモジュールを使ってない機種を探すことになる。F3は古い機種なので、独自設計のものが組み込まれているんですよね。