あかねさすMagazine

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あかねさすとは…それは、夕暮れ時をさす枕詞(まくらことば)のこと。仕事の合間、疲れたあなたの心の隙間をお埋めします(●^_^●)

今回は「大丈夫?は追い込む言葉」
「大丈夫?」という言葉が人を追い詰める事がある。

「大丈夫?」は優しさの象徴のように思える。

相手を気遣い心配しているように聞こえるからだ。

しかし、この言葉が時に鋭い刃のように突き刺さる事がある。

人はメンタルに不安を感じている時、自分が「大丈夫ではない事」を誰よりも理解している。

自己嫌悪に陥り頭が回らず理由のない恐怖にふるえている。

その中で「大丈夫?」と問われると「大丈夫じゃない事を言葉にして説明しろ」と言われている気がして心が苦しくなってくる。

それに答える余裕などない。

ただ耐える事に精一杯で言葉を選ぶ力すら残っていない。

だからこそ「大丈夫?」という問いは、優しさでありながらも同時に心の負担にもなり得るのである。

何も言わずに隣に座り続ける。

励ましもなければ問いかけもない。

ただ同じ空間にいて同じ時間を過ごす。

その存在そのものが彼に「居場所」をつくる事がある。

人は弱っている時ほど「何かを返さなければならない関係」に疲れてしまう。

言葉を返す事、期待に応える事、それ自体が重荷になる。

そんな時に必要なのは「何も求めない関係」だと思う。

一方で「大丈夫だよ」という言葉には全く違う力がある。

相手に何かを求めるのではなく「ここにいていい」「そのままでいい」と居場所を示す言葉。

この違いは受け取る側にとって大きい。

回復した人たちは「あの時、全部を変えようとしなくてよかった」とよく言う。

状態を良くしよう、元に戻ろうとするほど、かえって心は苦しくなっていく。

そんな時に必要なのは、「全部変えなくていい」という安心感なのだ。

崩れてもいい。

立てなくてもいい。

ただ「自分がここにいていい」という感覚。

そしてそれは誰かの何気ない在り方によって心にスッと入ってくる。

「大丈夫?」ではなく「大丈夫だよ」を伝える姿勢で。

人を救うのは特別な言葉ではない。

むしろ、言葉を減らした先に残るものの中に本当の支えがある。

だから僕は伝えたい。

何かをアドバイスしようとしなくていい。

何かを変えようとしなくていい。

ただ、その人の隣にいて「居場所」をつくって欲しいと。

きっと人はそれがあれば崩れながらも生きていけると思うから。FIN.

今回は「未来の僕はなんと言うか」
未来から90 歳の僕がやって来たとしたら「今の僕」に何を伝えるだろう?

きっと未来の僕は「やらなかった後悔」を今の僕に伝える気がする。

こんな話がある。

90 歳のおばあちゃん。

60 歳の時、ピアノを習おうとした。

しかし「もう遅い」と感じ、その気持ちをしまい込んだ。

そして長い年月が過ぎた後、彼女はこう言った。

「あの時、始めていたら30 年間、弾いていられたのに」と。
この話を思い出すたびに思う。

人は、できなかった事よりも「やらなかった事」に心を残すのだ。

うまくいかなかった記憶はやがて物語りになる。

笑い話にも変わるし、誰かの力になる事もある。
けれど、やらなかった事実は形にならないまま心の奥に沈んでいく。

誰にも語られず、ただ心の奥に残り続ける。動いた人はどんな結果であっても前を向ける。

しかし、動かなかった人は、いつまでも同じ場所を見つめ続けてしまう。

「一歩踏み出す」というのは大きな決断のように見えるが、実はとても静かな行為。

誰にも気づかれないかもしれない。結果が出るまで時間もかかる。

それでも、その一歩が確実に未来の景色を変えていく。

決して難しい事ではない。

結果が未来に誇れるかどうかなんて関係ない。

誰かに認められるかどうかでもない。

ただ「その時、動く!という決断ができたかどうか」だけなのである。

何かに挑戦した時間は、たとえ結果がついてこなくても、振り返った時にいい思い出として残る。

けれど見送った時間には後悔しか残さない。これが積み重なった時、その差は人生そのものの差になって表れる。

だから、迷った時には思い出してほしい。

未来からやってきた90 歳の僕が言う言葉を。

伝えるのは成功した出来事ではない。

やらなかった後悔だ!

自ら動いた時間だけが自分の未来を支える。

そして、それは今の決断から生まれる。

未来の自分が語るのは結果ではない。
どれだけの時間を「自分の意志で動かしたか!」なのである。FIN.

今回は「あなたの言葉は心を動かせるか?」 海外の短い動画を見た。

【私は目が見えません。どうか助けてく ださい】と、書かれた段ボールの横に男性が座っている。

そして、足元には缶が置かれている。

しかし、誰も足を止める事はなく、お金は全く入らない。

そこに通りかかったひとりの女性が段ボールを手に取る。

そして、言葉を書き換える。

すると…さっきまで通り過ぎていた人たちが、次々と足を止め缶にお金を入れていく。 

その段ボールにはこう書かれていた。

【今日はとても素晴らしい日 ですね。でも、私にはそれが見えません】。

最初の言葉は「目が見 えないという状況」を正しく説明していた。

しかし、その言葉に人の心は動かなかった。

書き換えられた言葉からは「感情」が伝わってきた。

今日が素晴らしい日だという事。

青い空や、やわらかな光や街のにぎわい。

でも、それをこの人はそれを見る事ができない。

そこへの感情。

この話は決して特別な事ではない。

僕のいる学生支援センターに入ってくる学生たちも同じだ。

「頑張りなさい」の言葉では全く動かなかった学生が「ここまでよくやってきたね」という言葉で笑顔になる事がある。

言葉とは不思議なものだ。

同じ現実を伝えていても、たった一言で人の心の景色を変 えてしまう事がある。

人は言葉で情報を伝えてももらっただけで は心が動かない。

言葉に温度を感じ、想像できる物語があり、心に触れる何かがある時、はじめて心を動かされ一歩を踏み出す。 

言葉は夢をつくる事もできる。

同時に誰かの心を閉ざしてしまう 事もある。

僕たちは毎日、何気なく言葉を使っている。

その一つひとつは目には見えない「種」のようなもの。

励ましの言葉に未 来の芽が出る事もあるだろう。

希望の言葉が人生の向きを変える 事もあるだろう。

あの段ボールを書き換えた女性はお金を配った わけではない。

ただ、言葉を変えただけ。

それだけで、人の心が 動いた。

言葉の力は偉大だ。

人生を変えるのは、いつだって、た った一つの言葉なんだ。FIN.

今回は「論破してもいい事はない」

 「ごめん」と言って黙り込む人を「論破された奴」と思う人がいる。

「何度も言っているのに」「どうしてこうなるの?」「理由が わからない」「どうしたら二度としない?」。

「ごめん」という人の 声は、どんどん小さくなっていく。

言っている人も責めているのではなく疑問の言葉。

納得したいのだろう。

だからこそ、正しい 言葉で問い続けている。

「……ごめん」。

彼がそう言った後も質問 は続く。

「でもさ、どうして?」「理由が知りたいんだよ」「次はど うするの?」。

また小さく頷き「…ごめん」と言う。

それでも同じ 問いが続く。

やがて、彼はほとんど話さなくなり、ただ頷くだけになる。

正論で追い詰められた人は口数が少なくなる。

そして最 後には何も考えられなくなり「ごめん」とさえ言えなくなる。

ただ、その場から逃げたいという感情だけが残る。

その場面だけを 見た人は「ちゃんと説明すればいいのに」「どうして黙るんだろう」って思うのかもしれない。

何を言っても説明を求められる。

その 繰り返しの中で、少しずつ言葉を閉じていく。

問い続けている人も「論破したい」と思っているわけではない。

理解したい。

納得 したい。

でも、その思いが相手を責めている事に気が付いていな い。

だから、どちらが悪いという話ではない。

どちらも真剣なの だ。

ただ、人は追い詰められても変わらない。

それを続けても改善などあるはずがない。

2 人の距離は離れていくだけ。

だから、 対話をしたいのであれば、心地よさがある空間をお互いが歩み寄ってつくる必要がある。

「大丈夫だよ」「次どうしようか」「一緒に 考えよう」。

そんな言葉があるだけで、人は自分から自然に話し始 める。

次を考え、少しずつ前に進み始める。

人は安心できる環境 の中でしか前向きに動く事はできない。

だから、本当に強い人は 正しさという武器を振りまわして独りよがりの「論破」で相手を 沈黙させる人ではない。

本当に強い人は相手がもう一度言葉を出 せる空気をつくる事ができる人。

これが出来れば人間関係は改善 していく。

人は正しさに負けるのではない。

安心を失った時に、ただ黙り込むだけなのである。FIN.

今回は「緊張しない方法」 

「緊張さえしなければうまくできるのに」。

面接指導をしているとそう言う学生がいる。

けれど僕は思う。

緊張を消そうとすればするほど、その学生は力が出ない。

まず、覚えておきたいのは緊張しない人などいないという事。

大学教授だって大勢の研究者の前で論文発表する時は緊張する。

違いがあるのは緊張の有無ではなくて、緊張とどう付き合うかを知っているかどうかだ。

人に見られると震えるのは本能。

太古の昔、視線を向けられる事は命の危険を意味した。

だから、今も脳は本能的に「視線=攻撃」と錯覚し、防衛のスイッチを入れる。

体が固まり、言葉が出なくなる。

だから、それは人として当たり前の現象。

緊張した学生たちは「失敗しないかな」「評価を下げないかな」と自分の事ばかりを考え始める。

そうして、就職面談での原稿や想定問答にしがみつき、一字一句外さないようにと力が入る。

だから、練習の時はもっと自然だったハズなのに本番ではうまくできないのだ。

大切なのは「見られる人」から「見る人」への視点の転換。

面接室に入ったら、相手を観察する。

何人いるのか。

誰がうなずいているのか。

机の上には何が置かれているのか。

どんな表情でこちらを見ているのか。

意識を自分の内側から外側へ移す。

それだけで、呼吸は整い始め、不思議なほど心は落ち着く。

さらに一歩進めて「相手を喜ばせよう」と思えたら最高だ。

「ちゃんと話せるかな」ではなく「僕の事、もっと知ってもらいたい」「この人の役に立てるかな」と考える。

「評価される側」ではなく、「価値を渡す側」に立つんだ。

それは結婚式のスピーチにも似ている。

思い出して欲しい。

スピーチを頼まれて緊張している人ほど「失敗しないかな?」「かまないかな?」と自分に意識が向いている。

だけど「新郎新婦に心から喜んでもらおう」「会場のみんなに温かい時間を届けよう」と想えている人の表情は晴れやかで、そこにはきっと緊張感はなくなっている。

これが緊張と仲良しになる方法なのだと僕は思っている。FIN.

今回は「自己肯定感を生む方法」

 「すごいなぁ~」と言っても「いや、そんなことないです」と 小さく笑う学生がいる。

その笑顔はやわらかいのに、どこか逃げ 場を探しているように見える。

本当に努力しているのに、それに 対する賞賛をうまく受け取れないのだ。

期限を守り、周囲を気遣 い、期待以上の成果を出している。

それでも彼らは「時間をかけ れば誰でもできる」と思い「今回は運が良かっただけ」と続ける。 

きっと彼らは「褒められる事」が怖いのだ。

褒められて…評価が 上がるほど「次はもっと求められるのではないか」と不安になる。

 「この程度で喜んでいいのだろうか?」「もしかして、期待を裏切 る日が来るのではないか?」。

そんなネガティブな自分が心の奥で ささやき続ける。

学生支援センターにいる僕がそんな学生に出来 る事は何か?

きっとそれは無理に「頑張れ!」をいう事でも、過 剰に「すごいじゃん!」をいう事でもない。

ただ静かに隣に寄り 添い、その学生が積み上げてきた事実を一緒に見つめ直す事。

「こ れは偶然ではない」「あなたが選び、努力した結果である」。

そう やって、ひとつひとつの事実を事実として、学生と一緒に丁寧に 確認していく。

積み重ねた努力も、乗り越えた困難も、周囲に与 えた安心も、確かに存在している。

きっと自己肯定感は大きな成 功体験から生まれるものではない。

小さな達成を「自分の力だ」 と認める練習の積み重ねの上に生まれる。

自分が否定しても、誰 かが揺らがずにやってきた事実を認め続ける。するとやがて「も しかしたら」という光を生む。

僕は思う。誰かが安心して挑戦で きる社会は、派手なヒーローがつくるのではない。

自分を信じら れない人の隣で、静かに信じ続ける人の支えから生まれるものな のだ。

「あなたはちゃんとやれている」。

僕はその言葉を何度でも 学生に伝えるために、ただ事実の横に立ち続ける。

彼らが褒め言 葉を受け取れないのは彼らに価値がないからではない。

彼らの心 が…まだ自分の価値に追いついていないだけなのである。FIN.

今回は「後悔と不安とは何か」 

相談室のイスに座った瞬間、深く息を吐き出す学生がいる。

「僕はどうして、あんな事をしてしまったのでしょうか」。

そう語る学 生は「起きてしまった出来事」を何度も何度も振り返っている。

後悔は「反省という顔」をして心を縛りつける。

彼らは怠けているわけでも、逃げているわけでもない。

ただ、過去という時間の中に立ち尽くしてしまっているだけである。

一方で、こんな言葉もよく聞く。

「私には、そんな事できるはずがないです」。

こちらは「まだ起きてもいない失敗」を、すでに確定した未来のように抱え込んでいる。

不安はとても真面目で、責任感の強い人ほど大 きく育つ。

未来を考える力があるからこそ、動けなくなってしま うのだ。

学生支援の現場に長くいると、彼らが考えすぎるほど考え、感じすぎるほど感じている事がよくわかる。

その優しさと真 剣さが、時間のどこかに「心」を置き去りにしてしまうのだ。

だから僕は、彼らに「今」の話をする。

過去を消す事も、未来を確 定させる事も、人にはできない。

でも、今この瞬間に何を感じ、 どう過ごすかだけは、誰にでも残されている。

今日、ここに来て 話した事。

少し肩の力が抜けた事。

帰り道に空を見上げる事。

それらはすべて、確かに「今」を生きているって事。

「今を前向きに過ごす」というのは、無理に明るくなる事ではない。

泣きたいなら泣いていいし、立ち止まってもいい。

ただ、今の自分を否定せず、ここに存在している事を認める。

それだけで、人は一歩前に進んでいる。

過去に縛られている学生にも、未来に怯えている学 生にも、共通して伝えたい事がある。

今を大切にした時間は、必ず次の時間を支えてくれるという事。

素敵な明日は、遠くからやってくるのではない。

今を生きた延長線上に、静かに待っている。

今日もドアの向こうできっと学生が立ち止まっている。

僕は信じている。

今を大切に生きた人に、明日はちゃんと応えてくれると。

未来は今の積み重ねの先にあるのだから。FIN.

今回は「我慢できなれば加害者」 誰かの何気ない一言や行動で、心が深く傷つく瞬間がある。

教 室の空気、視線の向き、笑い声のタイミング。

支援の現場で多くの学生を見てきた僕はその「何でもないはずの出来事」が、どれ ほど現実的な痛みとして胸に残るかを知っている。

たとえ相手に悪意がなかったとしても、あるいは自分の受け取り方の問題だったとしても、「ひどい事をされた」と感じてしまう心は、紛れもな い事実。

だから僕は、その瞬間に自分の中で「被害者だ」と認定してしまう事自体は、悪くないと思っている。

傷ついた現実から 目を逸らさず「今の自分はつらい」と認める事は、自分を守る第 一歩。

問題はその先だ。

相手と距離を取りたい、逃げ出したい。 

という気持ちなのに「クラスが同じ」「 席が近い」「 役割が重なる」 などで逃げられない場合がある。

そんな時、大人や先生が「仲良くしなさい」なんて言う。

その言葉は善意から出ているのだろうが、心に傷を負っている側にとっては、その善意が刃になる。

つらさは倍増し「自分の痛みは無視されている」と感じてしまう。 

でも、ここで絶対にしてはいけない事がある。

それは、相手を攻 撃する事だ。

言葉であれ態度であれ、こちらが攻撃に出た瞬間、立場は逆転する。

どんなに自分が傷ついたと思っていても、攻撃をしてしまったらその瞬間から自分が「加害者」になる。

正義の つもりで放った一言が、自分自身を追い込む鎖になってしまう。

復讐が認められていない社会で生きている以上、自分を守るための攻撃は、結局自分を守らない。

では、どうすればいいのか。

無理に仲良くしようとしなくていい。

分かり合おうとしなくてもいい。

ただ、「関わらない工夫」を選ぶ。

物理的な距離が取れないなら、心の距離を取る。

必要最低限のやり取りだけに絞る。

信頼できる大人に、事実と感情を分けて伝える。

これは逃げではなく、 立派な自己防衛。

傷ついたと感じた心を否定しない。

同時に、誰かを罰する役割を自分に与えない。

その境界線を守れた時、人は壊れずに前に進める。

強さとは、声を荒げる事ではない。

攻撃しない選択だけが、あなたは自分自信を守る方法なのだ。 FIN.

今回は「ダメな自分を信じて」年が明けると、大学では目に見えない緊張感がただよう。

廊下 を歩く足取りが少し早くなり、相談室に入ってくる学生の声は、どこか慎重になる。

支援の現場で学生たちと向き合っていると、その変化がハッキリわかる。

定期試験が近づき、三年生は就職活 動という言葉が現実味を帯び、四年生は卒業論文の締め切りを意 識し始める。

誰もが同じ時間を生きているのに、抱えている不安 の種類は驚くほど違う。

それでも、みんな「ちゃんとしなければ」 と自分を追い立てている。

「何から手をつけたらいいか分からな くなりました」そう口にする学生も少なくない。

話を聞いていくと、決して怠けているわけではない。

むしろ、真面目で責任感が強い。

やるべき事が多岐にわたり、頭の中で整理しきれず、体が 動かなくなる。

分かっているのに、体がついてこない。

不安に押 しつぶされそうになる瞬間、人は動けなくなる。それは心が限界 を知らせている合図。

そんな時、僕が伝えるのは「動けない時間 にも価値はある」という事。

動いていないからといって、その学 生が積み上げてきたものが消えるわけではない。

これまで学んだ知識、悩みながら選んだ進路、踏ん張ってきた日々は、その人の中に間違いなく残っている。

力は確かに蓄えられている。

今、前 に進む気力が湧かなくてもいい。無理に自分を奮い立たせなくて いい。

その時間は多くの場合、心が次の一歩を踏み出すための充 電期間。

ある学生が何週間も何もできない自分を責め続けていた。 

しかし「今日はここまででいいか」とノートを閉じた瞬間、肩の力が抜けたと言った。

その変化を起こしたのは、誰かの指導じゃ なく、これまで頑張ってきた自分の中にある自信なのだ。

焦らな くていい。

そのままでいい。

結果が見えない時期ほど、人は自分 を疑ってしまう。

しかし、力は順調な時だけに育つものではない。 

立ち止まり、悩み、迷う時間の中でも、確実に根を張っていく。 

自分を信じるとは、調子のいい自分だけを信じる事ではない。

動 けないダメな自分も含めて、信じるという事だ。

大丈夫!

立ち止 まれる君は、もう折れないから。 FIN.

今回は「2025 年:ひろのぶの漢字」 

12 月 12 日に「今年の漢字」が【熊】に決まった。

僕は予想が 的中した。

これで「2年連続6 回目(18 回中)」の的中である。

去年から、その年最後の「プチ信の部屋」で、僕自身の一年を振り返り「今年のひろのぶ漢字」を公表するようにしている。

そこで まずは、これまでの僕の歩みを振り返ってみたい。

この「エッセ イ:プチ信の部屋」を書き始めたのが2001 年。

YouTube で「プチ 信の部屋」を始めたのが2019年。

高校で「夢の授業」を行ったの が2020年。

サムライ講演会で優秀賞をいただいたのが2021年。 

かんざんじフェスでチャリティランナーを務めたのが2022年。

全国出版オーディションの決勝に進んだのが2023 年。

そして「第二回万代宝書房大賞」で大賞を受賞したのが2024年。

そして2025年は僕が長年追いかけてきた二つの大きな夢が現実になった年。 

ひとつ目は、エッセイ集の出版。

3 月に『ひろのぶ先生が伝え続 けている生きる力がわく話』が書店に並んだ。

ふたつ目はリアル な会場での講演会。

5 月「名古屋レジェンドホール」にて出版記 念講演会を開催する事ができた。

この想いを形にするため僕はクラウドファンディングを立ち上げた。

テーマは「孤独を感じてい る若者に居場所を拡げる活動」。

若者が自分の居場所を見つけるた めのヒントが詰まったエッセイ集の発売を記念し、講演会を開催したい!と伝えた。

夢をなくし居場所を持てずに立ち止まっている若者たちに「大丈夫!君の居場所あるから」を拡げていきたい。 

このクラウドファンディングでは心温まるご支援をのべ300 名を超える方々からいただいた。

だから、この夢は決してひとりで叶えたものではない。

支えてくれた皆さん一人ひとりの想いが重な り合い、形になった夢である。

僕は今、その事を強く感じている。

その感謝も込め「2025 年:ひろのぶの漢字」は【叶】にしようと思う。

今年は、ずっと目指してきた夢が確かに【叶】った一年だ った。

そして来年は次のステージの幕を開きたいと思っている。

 皆さんも、ぜひ「私の漢字」を考えてみて欲しい。

その一文字に きっとあなたの一年が詰まっているはずだから。 FIN.