信濃に逃れた大中臣氏
 

『九鬼文書の研究』所引の「大中臣系図」には、用明天皇二年、物部守屋に加担した大中臣牟知麿という人物が守屋滅亡と共に信濃国諏訪郷に落ちのびたという記事がある。

ところが同書所引の「九鬼家歴代系図」は、大中臣家との係累を主張しながらも、牟知麿なる人物についての記述がどこにもない。

そして「天地言文」では、用明天皇の御代、厩戸皇子と蘇我馬子の神祇殿放火により、神代からの「天地言文」原本が失われたとして、さら に次のような記録を残しているのである。

「天地言文記録ノ写本ハ守屋ノ一族、大中臣ノ 一族、春日ノ一族、越前武内ノ一族各保存ス」
 この内、守屋の一族とは、『物部文献』を伝えたという秋田の物部家、武内ノ一族とは 『竹内文献』で名高い竹内巨麿の家だろう。

春日ノ一族とは、昭和初期の神道家・春日興 恩の家と思われる。

「大中臣系図」と「天地言文」を併せて読めば、「天地言文」の写本 の一つは信州の大中臣氏に伝わったということになる。

そして、関係者の証言によると、 藤原俊秀はまさに長野県出身だったというのである(吾郷清彦『九鬼神伝全書』)。


 以上から考えて、『九鬼文献』の歴史篇といわれるものは、もともと九鬼家に伝わった ものではない可能性が高い。

では、『九鬼文献』本来の核心はどこに求められるべきなの だろうか。
ここで注目されるのが謎の神「宇志採羅根真大神」である。