時は平成16年ですから、随分と前になります。私は当時会社の工場、栃木県の生産工場で間接部門の仕事をしていました。初めて東京近郊を離れ、職場の人間関係もうまくいかず、当時は既になくなった父がいつ逝ってもおかしくない状況で、会社を辞めたいというネガテイブな理由で行政書士試験を受験しました。最初は司法書士を目指していましたが、栃木県北部に転勤して受験勉強がやりにくくなると考え、方針を変えました。しかし、驚いた。平成15年の行政書士試験合格率はわずか2.9%ほどで、事態を甘く見ていたのです。栃木県北に法律の学校などなく、私は通信教育で当時の早稲田セミナー(現在TACに吸収)で有名だった、酒井先生という方の半年合格コースを懐かしのカセットテープで申し込みました。DVDもあったかと思いますが、高すぎで。この講座は素晴らしかった。テキストがコンパクトで、カセットで聞き取った先生のお話を書き足して、自分で気づいた点もメモして、オリジナルにしていったのです。参考書を求めようにも栃木県最北部にはほとんど書店もなかった。結果、テキストと授業に専念することになったのです。自宅で勉強などできないと思っていた私は、マクドナルド、デパートの休憩コーナー、電車で移動する時にひたすらカセットを聞きました。何度でも聞き直せるのが良いところです。その時の上司はすぐに怒鳴る人で、私に書類を投げつけたり罵倒したりしました。無理やりゴルフをやらされ、酒癖も悪く、宴席でいつも絡まれ、お店の方やタクシーの運転手さんにも怒るので私が謝る係でした。とにかく勉強が唯一の逃場でしたね。実家では父がいつ死ぬか分からなかったし。コンパクトなテキストはいつしかメモ書きでびっしりと埋まって行きました。分厚い本を読むより、要点のみのテキストに授業などで足していったほうが、私には向いていました。また、法律の分量から考えても、条文が千条を超える民法対策が最重要課題です。中でも親族相続はあまり出題されないと思うので、スピード重視ならそこはあえて軽く流します。他の法律は薄く広く出題されますから、基本書のようなものは読まず、テキストと講義に絞りました。そして模試。これだけは通信でやっても意味がないと思った私は大宮の法律専門学校まではるばる出向いて受検しました。1回しか受検出来ず合格圏内ギリギリでしたが、本番の10月まで2ヶ月あり、課題をしっかり認識出来ました。逆に「行けるか」とさえ思いました。直前対策はテキストとそこに書き込んだメモの読み返しに当て、結構頑張りました。ただ、仕事がありますから睡眠は7時間程度確保するよう、無理は避けました。自動車を運転する際も、講座のカセットは聞き流していました。夢中になると事故に繋がりますが、そこはなんとか。受検当日は宇都宮大学が会場でした。私は柄にもなく緊張し、朝食を取ることが出来ませんでした。でも空腹感はなく、なぜかだんだんと頭が冴えてきたことを覚えています。最初は法律科目で、重点的に対策してきた民法が勇気を与えてくれました。苦手科目の商法は分量が少ないので誠に助かりましt。行政法は論理を問われることが少ない手続法ですから、こまめな繰り返しが本番で生きてきます、一般教養はいやですが、法律科目で自信がもてれば、時間さえかければ大丈夫。私は途中で「合格できそうだ」と感じました。試験終了後、朝さか何も食べていな買った私は宇都宮大学側にあった弁当屋さんで食事を買い求め、大学構内でゆっくり食べながら「終わった。たとえ落ちても会社員だ。嫌な上司ともう1年我慢することになるが、なんとかなる」と自分に言い聞かせ、自宅に戻りました、結果はすぐにインターネットで出たと思います。合格しました。半年コースを受験して本当に半年で1回で合格、その時の合格率は5.3%でした。生まれて初めての国家試験合格でした。いきなり独立しても生計が心配で、資格登録は見送ったままです。私が育った家は貧しく、奨学金を自力で返しながら、さらに実家を援助してまでやってきましたから、そんな決意は出来なかった、非道な上司とはそれからしばく付き合いましが「今のままでは会社員に向いてないから自分で移動する部署を探せ」と薄ら笑いを浮かべつつ言った後、彼は転勤していきました。その後、行政書士だけでは不安があった私は個人情報保護士(マイナンバー対応)、ビジネス法務2級、英語ではTOEIC835、ドイツ語検定5級を積み重ねてきたのです。勉強スタイルは全部同じです。コンパクトなテキストを用いて、付け足し行く。自宅では勉強しない。移動時間や昼休みが私の勉強時間でした。ただ、病気でもしない限り、短い時間でもできるだけ毎日やりました。それは、これからも変わらないでしょうね。

 

私は幼児の頃から自ら絵を描き、5歳児の頃に画塾に通いました。私を見出してくださった先生はしかしながら引退され、地元の自治体が運営する絵画教室に移りました。あれが失敗でした。新しい先生は私の絵画の個性を否定されたので、小学生だった私は急速にやる気を失ったのです。その後自分の意思ではないものの中学受験に突入し、絵を描くことを小学5年からやめてしまいました。中学校に入り、美術の先生から技術を認めて頂きましたが、美術部には加入せず。油彩の画材は高額であり、授業で使う水彩は修正が叶わないため費用は安いながら、無理があったのです。12歳でそれが分かってしまっていた。そして上野の西洋美術館へ行き感想文を描く夏休みの宿題で、衝撃を受けました。印象派展に足を踏み入れ、最初は「これは精緻な絵ではない。正確に描いていないし絵の具が混ざっていないではないか」しかし、数歩下がって分かってしまった。「ああ、絵の具が自然の光のように混ざり合っている」解説書に同じことが書いてあったため、自分は見る人であって描くのはダメ、と思ってしまった。肥えた眼が自分の絵画を許せなくなったのです。しかし、絵を手慰みに描くことはずっと捨てられなかった。この絵は知人のために描いた簡素な肖像画です。眼をウルウルさせる技術は、長い時間をかけて私が自ら開発した技術です。モデルさんは本当にこのように美しい方でした。本物は贈呈済みで、これは写真ですが。

 

 

私は記憶さえない幼児の頃から絵を描き続けていたそうです。画塾に通うようになったのは幼稚園児の時で、大潮会という団体に先生が所属されていたため、児童の部で出展して頂き東京都美術館に作品が展示されました。結局画家になる夢は凍結しました。 ただ、ここ何年かタブレットとスタイラスで絵を描くことを試しています。鉛筆と紙を使うよりは難しいと思います。ただ、人物画のコアはやはり眼と口元ですね。この絵をinstagramで投稿したら、結構海外の皆さんにウケました。