※風俗の内容が含まれているため、閲覧注意です。





初めての風俗がソープランドで、援デリもやっていたせいか、本指名がつくようになりました。
一日大体平均で5~6万だった気がします。
高校4年になって、早番出て銀行にお金を入れて電車で地元帰って学校に通うようになり、母親にも彼氏が出来ていて、なんとなくギクシャクしてる時でした。


仕事がバレました。確かKと電話している内容を聞いていたんだと思います。
そこから関係は崩れ、夕食を食べては台所で嘔吐する母親。
話もなく、喧嘩だけの毎日でした。

金があればいい…

それだけで突っ走っていました。

そんな日々を過ごし、2011年7月。Kから電話が来ました。
「店変えない?」


正直マットプレイに疲れていた私にとって、Kは神様でした。
変える!無理!と言い、次の日待ち合わせして連れていかれたのは、またマンションでした。
またAV…?と思いながら、店長さんが現れ、話を聞くと

デリバリーヘルス、と言われました。
本番行為をしない、素股とフェラと手コキで…ソープにいたから講習いいよね?
と、早く話が終わってしまい、あれ?これでよかったのかな?と思いつつ、その日は学校がなかったので家に帰りました。


やっぱり母親と喧嘩が凄く、側湾持っていて辛い身体で、物凄い勢いで茹でたうどんを投げつけて殴りかかってきて、祖父が怒鳴り声に気づき止めに入っても、母親の力が強すぎて、大柄な祖父もお手上げに。


そして、決めました。一人暮らししたほうが、母親も彼氏がいるしお互いの為だし、荷物まとめよう。と。


母親に言い、何度も話し合い、縁を切る事はなかったのですが荷物は全て持っていけ、と。


デリヘルの店長に相談すると、部屋が空いてるからそこに住んでいい、家賃だけ払ってと言われ、7月12日に地元を離れました。



ここで一回目の断薬になります。
地元の病院に通っていましたが、電車で時間がかかる、高校は出ないといけない、それなら薬をやめてしまって、余ってるセルシン30錠だけで乗り切ろう、と決め、サイレース、ユーロジン、ジプレキサを一気に断ち切りました。
そこからは地獄でした。










話が逸れます、飛ばして頂いて構わないです。


今年7月29日、75歳の若さで亡くなった祖父の事務所の机に、手紙がありました。
私は何も知らないでそれを読んで、涙が止まりませんでした。

「2011年7月12日、○○(本名)が旅立ちました。
影ながら応援しています。頑張ってね。」

昔から祖父が大好きで、甘えてて、初孫だった私。
一番可愛がられていたと思います。お年玉も私だけ凄い金額を貰っていました。
地元で割と有名な建設会社の社長で、何件もの家を建て、HPもいまだにあるとは思うのですが
身勝手な行動ばかりで、周りに散々迷惑もかけ、好き勝手やってきて風俗に行った私に対して、祖父は応援してくれました。
祖母は茶道と華道の先生、着物の着付けの先生でとても厳しく、掃除機で叩かれて泣いていた私を助けてくれた祖父。
私にとって、一日も忘れた事はなかったんです。母親よりも大事だったと思います。本当に大好きでした。

2013年春、泣きながら母親から電話が来て「お父さん(祖父)が癌、多発性骨髄腫だって、助からないって…」

人は死ぬために生まれて来たもの、心の中では思っていても、聞いた瞬間涙が止まらず、何をしてあげられるだろうと考え、出来るだけ地元に帰るようにしました。

とても大柄でがっちりして、如何にも建築してます、という祖父の身体が段々弱っていて、抗がん剤を飲む生活になり、それでも祖父は「仕事したいんだー治すんだー」と、ずっと言っていました。治らないのを知っているのに。

風俗をやっている孫で、本当にごめんなさい。

2015年は祖父の家に行き、嫌な予感がしたので長居することにしたのですが、もう見ていられなかったです。
手が震えてお椀が持てなくて、お蕎麦をこぼしてしまう。
「参ったなぁ」と笑いながらも、その笑顔は悲しそうでした。
歩くのもやっとで、5月から大きな設備の整った病院に入院。尿管には管が入っていて、お見舞いに行って、りんごジュースが飲みたいと言われて買って、ストローでゆっくり飲ませて
「○○が買ってくれたジュースは美味しいなあ。早く仕事に戻らないとな。」
情けないことに、目の前で泣いてしまいました。
人が死ぬって、こんなに怖いんだ、と。

7月29日午前7時40分、いつも寝ているはずの母親から電話が来て、本当に嫌な予感がしました。
「早く病院に迎え。こっちも向かう。」

タクシーを拾い、15分で病院へ。走って病室に行きました。

一番最初に着いたのは私でした。

口が開いて、口の中が乾いていて血が固まっていて、全身がもう冷たくなっていました。
遅かった。なんで早く病院は連絡してくれなかったんだ。悔みました。
「7時53分」
間に合わなかった。この日が来てしまった。
周りで亡くなった人がいなく、葬式やお通夜の経験もない私にとって、もうどうしたらいいのかわからなく、ただ、涙しか出なかったです。

母親、母親の兄、祖母が駆け付けて、母親は「パパ、頑張ったね、頑張ったね」と泣きながら頭を撫でていました。私は冷たくなった手を握ることしかできませんでした。

30、31と葬式とお通夜があり、棺桶に入っている祖父。
ハワイに行くのが好きで、よく祖母と行って、その時のアロハシャツを着て、祖父の顔は笑顔だったと思います。
葬式は予想以上に人が来て、「社長…社長…」と、全員が涙を流していました。
一応…と、離婚して13年会っていない父親に、亡くなったから香典だけでも、と伝え、久しぶりに父親の名前だけ見ました。

皆から愛され、中学を出て見習いになり、自分の会社を設立していた祖父。
亡くなる一か月前は、故郷に戻って写真を沢山撮ったと聞きました。良かったね。お父さん。

棺桶の上に、喪主である祖母が花束を乗せる瞬間、いつも冷静で何事にも動じない祖母が泣き崩れました。それを見て母親と祖母を支えながら涙を流しました。祖母が一番辛かったでしょう。50年も一緒にいたのですから。

祖父が焼かれる時、「行かないで…骨になってしまう…戻ってきて…」
祖母の言葉は忘れません。
でも、もう骨になってしまったのです。


祖父が亡くなった件もあり、まともに仕事が出来ない状況になっていた私。
思い出せば泣き、安定剤を多めに飲んで、祖父を思い出し、ふと
「死ねたらお父さんに会えるのかなぁ」
という気持ちがとても強くなっていました。その時の仕事は飲み屋をやっていて、休むと罰金になってしまうのでお悔やみを持っていき、休みを貰っていました。
気づくと、今住んでいるアパートから飛び降りようとしていました。
腕はまだ切っていなくて、というか切る力すらなくて、精神的、肉体的にも限界で、その時通っていた病院に入院させてくれと泣きながら電話をし、すぐに入院が決まりました。

こんなに不安定になるくらい、祖父が大好きでした。

なんとか薬でごまかし、4日入院はしましたが、優れず。

なんとか、夢だったのかな、とか、遠くに旅行に行ったんだな、と紛らわせ、母親も同じことを言っていました。
「お父さん、あんたの事いつも心配してたから。あんた帰ってきたらお父さんの遺影あるから、飾りなさい。見守ってくれるから。」と。

今でもテレビ台に、祖父がいます。
写真は小さいですが、背広を着て凛々しい祖父がいます。
49日はもう終わったので、どこかで見守っていてくれるといいな、と日々思っています。

霊が見えるという方にたまたま出会い、祖父の写真を見せると、こう言われました。
「○○が産まれた時から、自分より大切に思っています。って言ってるよ。」と。


その言葉と祖父が皆から愛されているのを感じながら、毎日生きています。