おはようございます
秋晴れのような昨日のイースターサンデー。
AJANTメンバー数名で、招待されたDarwin Memorial Uniting Churchの礼拝へ出席しました。
実は今回の礼拝の間に、日本からいらっしゃった藤田ファミリーのスピーチがあるという事で、AJANTの会長とメンバー数名で出席させて頂きました
まず、藤田ファミリーとこの教会との関わりを説明させて下さい。
教会で配布していたパンフレット
ダーウィン市は1942年2月19日、ハワイを荒廃させた同じ司令官が率いる日本帝国軍によって最初に爆撃され、11隻の船が沈没し、235人が死亡しました。
(「ダーウィン空爆」クリックするとwiki先輩にとびます)
戦後ダーウィン市の復興は迅速に行われましたが、海に沈んだ11隻の船を引き上げるという事には長い月日を要しました。
その沈んだ船を引き上げるのを授与されたのは皮肉な事に日本の会社でした。それが藤田柳吾氏のサルベージ会社でした。
オーストラリアの南側の州からは加害国であった日本へ授与する事を反対する声もあったそうですが、その怒りとは対照的にダーウィンでは藤田氏のサルベージ会社の偉大なる精神強さを評価していました。
それと同じ時期、教会は新しい教会の建設を決定し、1958年には基礎石が築かれました。
藤田氏自身のキリスト教教会、新しく建設されたダーウィン・ユナイテッド教会の建築家、オーストラリアの日本大使と彼自身の平和主義者の志向に勇気づけられた藤田氏は、救助された船MV Zealandiaの金属から77の青銅の十字架を作り教会へ寄付する事を決めました。
(パンフレットより抜粋:訳がおかしかったらすみません)
寄付さえれた十字架の一部
そして藤田ファミリーと教会の交流は1960年から続いていました。
今回の礼拝での藤田ファミリー代表のスピーチは新たに寄付され設置されたプロペラの一片のことでした。
スピーチ前の様子
教会のいたるところに十字架を確認できる
藤田ファミリーは、
ダーウィンに大いなる貢献をした家業を象徴し、サルベージしたうちの一隻メイグス号から揚収したプロペラ一片を墓標として持ち帰りました。
なぜ戦場の遺品を墓標へ選んだのか、その理由が今回プロペラと寄付された石碑に刻まれています。
石碑に書かれている文章
その英訳
藤田家は「このプロペラを許されるとこならダーウィンへ返そう」と考えていたそうです。そこへ昨年、教会から教会に隣接するピースガーデンにプロペラのレプリカ(複製)を設置したいと連絡が入り、代表の藤田銑一郎氏は、直感的に「(ダーウィンへ返却するのは)今だ!」と感じ、家族に相談したそうです。
そして今年、
レプリカでなく現物のを設置を実現したのです。
教会前に設置されたプロペラと石碑
藤田銑一郎氏と妹の英子氏
礼拝の後には礼拝堂横の『Fujita hall』で軽食を一緒に取りました。
このホールの壁にはダーウィンの歴史と藤田サルベージの歴史パネルが壁一面に張り出されており、まるで資料館のようになっています。
パネルの一部
パネル製作にはAJANT会員でもある歴史家のDr. トム・ルイス氏が協力されたそう
藤田銑一郎氏、AJANT会長キャサリーンさん、銑一郎氏のご息女欣子氏
藤田銑一郎氏、AJANT副会長あさこさん、銑一郎さんのご息女欣子氏
けっこうノリが良くて嬉しかったセルフィー
銑一郎氏の姪御さんの和子氏も加わり、教会前でセルフィー
今年はダーウィン空爆から75年という節目の年でもあります。
スピーチの最後に代表の藤田銑一郎氏は「教会と藤田家、オーストラリアと日本の今後の友好関係の発展にも、ダーウィン空爆から75周年という年の実現できた事を光栄に思う」と述べていたのが印象深かったです。
私は礼拝自体参加したのが始めてでしたが、それはとても素敵な時間で、特に教会の方々と藤田ファミリーのやり取りを直に見て両者が長年にわたり良好な交友関係を築き上げてきたと感じました。この日にダーウィンに住む日本人として今回参加させて頂き光栄です。
空爆から75年の今年、プロペラは50年以上もの月日を得て、またダーウィンへ豪日の友好関係と平和への象徴として戻って来ました。
メモリアル教会はダーウィン市内の中心部、ウールワースの横です。(78 Smith Street, Darwin NT 0800)
プロペラと石碑はウールワースの駐車場側から直ぐに目に止まると思います。
もしも市内へ行くことがありましたら、是非足をとめて先人たちの築き上げてきた豪日の交友関係の発展と平和への想いに耳を傾けていただけたらと思います。
JJ
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