カジノ法案がいよいよ成立しそうな気配である。公認のバクチ以外にみせるようにいろいろお化粧をして他の事業も一緒にするようであるが、本体の狙いがカジノにあることは言うまでもない。いろいろ公論を重ねて来て国会としての決断のようであるから、この際余り余計なことは言いたくない。しかしながら、どうも双方を挙げて賛成と言う気にはなり難いのである。
カジノ法案がいよいよ成立しそうな気配である。公認のバクチ以外にみせるようにいろいろお化粧をして他の事業も一緒にするようであるが、本体の狙いがカジノにあることは言うまでもない。いろいろ公論を重ねて来て国会としての決断のようであるから、この際余り余計なことは言いたくない。しかしながら、どうも双方を挙げて賛成と言う気にはなり難いのである。
又も新幹線の建設について大手四社間の談合が大きな問題となっている。
私は、談合は必ずしも処罰するようなものではないと思う。
談合が何故いけないのか。法律で禁じているからという。何故禁止しているのかがそもそも問題である。
先ず、言われるものは、談合によって入札価格が引き上げられて、工事などの参入者が不当な利益を得る可能性があるからであろう。不当の利益とは何か、例えば工事にかぎって言えば人件費、物件費の実際にかかる価格よりも不当に高い利益を事業の実施者が受ける可能性があるからであろう。不当とは何ぞや。
例えば土木工事の施役者が人件費、物件費など当然に必要とされる経費の妥当な価格に勿論妥当な利益を合んでよりも不当に高い入札価格となりうるからではないか。
例えば、ごく大ざっおぱに一例を挙げれば、ある工事の実施者の見積もりが一億円であるとすると、談合によって入札価格が、例えば九九〇〇万円になったとする。もし、談合しなければお互いせり合って、入札価格は九五〇〇万円ぐらいになるだろうから、だんごうによって適正価格よりも四〇〇万円事業主体は損をすることになる。だから談合はダメだとする。
然らば、妥当な見積もり価格を予め例えば九五〇〇万円と決めて、お互いに順番で工事を施行するようにすれば、工事の施行者も安心して充分の準備も出来るし、よい工事の仕上りもできるし、いいではないか。
裏でへんな金が動いたり、嫌なかけ引きをしなかったりできるし、業者も後から文句を言われないような工事もやりうるし、いいではないか。工事の事業者もじっくりと仕事をし、文句をいわれないようになるのではないか。もう工事をやるものが決まっていたら、手抜きをしたり、いい加減な工事をしたりする心配は全くないとは言えない。ただ、それは入札で工事をやった場合でもありえないものではない。
もし假に、ある工事の希望者が四社いたとして、その四社が話し合って合同して入札は一社で行う。ということは勿論できなくはないし、実際行われていることでもある。然し、それでは実体は談合ではないかと、批判されて、一社入札はダメときめた例はいくつも知っている。
新宮殿だって、ある会社が一万円で競落したので、何が何だって一万円新宮殿ではまずいではないか、というので、法令を急遽改正して、数社が集って応礼をし直した例も覚えている。
談合を認める場合の順番はくじ引きでもよいではないか、その代り、工事施行者の選択には充分吟味して、およそいい加減な工事はできないようにし、もし一件でも発見したら以後は仲間から除外をし、工事に参加できないようにしたらどうか。
何時だったか談合が問題になった時に、最初は一同皆反対のようなことを発言していたから、私から、自説(談合可)を述べたら、皆シーンと黙っていて、反対はなかった。その席には公取の職員もいた。それが実態なのだろうな、と皆心の中ではうなずいているようであった。
外国の例も知らないではないが、この問題はもっと真剣に検討すべきではないか。
29・11・4
こんな独り言みたいな文章は本当に独り言のような気持ちで、ただ出来るだけ本心を字にしてみたいな、という思いで書いていたが、近頃、いくらかでもあれを読んでくれている方がいて、時にお会いする予期しない人からあれはよかったですね、というような批評を記載してくれることがある。
となると、あまりいい加減なことは書けない、といささか心を引きしめなければならいなと思うようになった。
私は、毎日七紙の新聞をとっている。読みたいが、昔からギリギリまで寝ているくせがついているので、みだしのいくらかは見ても、あとは、丸めてそのまゝ迎えの車に乗り、事務所で読むつもりが、大てい来客とのおしゃべりでダメになって、家に持って帰って読む仕様となることが多い。
新聞は各紙論調も違うし、時に事実関係の記事も違う。それでいいと各紙それぞれ多少ずつの特色がある。書きたいけれど、これだけは遠慮させて貰うが、新聞の名を見ないでも、これは何紙か、まあ大体あたるようだから、それぞれいくらか特色があるのだろう。
言えることは、先ずどこを見るかであるが、私は死亡欄をまず見る。当然載っていていいと思う人が新聞によっては落ちていて、二、三日してから申しわけないように載せてくるものもある。
ただ、悲しいことは、亡くなる知人が少なくなったことであるが、それは私よりも若い人で亡くなる人が多くなって来たせいもある。
この間思い出して高校のクラスメイトに電話をした。三十人いた組友が残っているのは二人となって仕舞って、去年お前と二人になったから近く二人でクラス会をやって解散ということにしよう、と言い合ってそのまゝになっていたのを思い出したからであるが、その友人ももう電話もムリだとのご夫人の言葉であった。
あゝ、やになるから。独りで飲むか、と思っても、こちらも医者に控えるように言はれている。
菊一輪 酒三合 ごろ寝かな、とは去年の俳句であるが、その酒もダメになったのである。
この頃はれいれいしい葬式よりも、一月以上経っての偲ぶ会が多くなった。これで昔の友人に何人か会える楽しみもでてきた。しかし、
そういう友人の数も少なくなってきた。悲しいことであるが、これが人生と言うものか、とも思う。