「おい、起きろ」と突きとばされるような勢いで起されたのは、昭和二十一年五月も末でタタアル自治共和国ジェネレドリスの病院の朝であった。

なけなしの荷物を手提げ袋につめ、まだ雪の残っている病院の門をマンドリン(自動小銃のことをわれわれはそう呼んでいた)を背にした兵隊二人につきそわれて出た。定員五百人の病院でその一冬に亡くなったのは八百人と言われていた。大部分はドイツ、ルーマニア、ハンガリーなどの将校であった。栄養失調で死んだのが多かった。

レーニンが学んだと言う大学のあるカザンの街を雪靴をぼたぼたはいたまま、マンドリンで示すとおり左右の方向に曲がりながら、やっと冬から開放されて明るく、人通りも多くなった町の通りを歩かされて行く。

これが敗戦と言うものだ、と何べん思ったことか。

つれて行かれた先は帝政時代に作ったかと思われる監獄であった。芝居に出てくるような錨を打った門をくぐって八つ目の鍵が開けられてはうり込まれた部屋は窓のないような独房であった。

板敷きの床に毛布がかかって、備品と言えば大小共用の桶が一つ。やっと横になると、一時間に四回ぐらいの割でコツコツと靴音が響いて入口の所で止って、眼の高さに一つの穴が開いて白目がじっと中を見つめる。一分もたたないで、又穴はとぢてコツコツと靴音である。

床から天井にかけて、革命時代の年とこの部屋に入れられた囚人の名が書いてある。棒の切れ端のようなもので、刻んだ壁の字である。

「日本軍Ⅿ大佐罪なくしてここに投ぜられる。このことを故郷の人によく伝えてくれ」と言う書き置きの日付は私がこの部屋に入れられた前の日の日付である。いよいよか。

夜の十一時頃に窓のない車に乗せられて調査に引っぱり出される。タタァル自治共和国の内務次官の直々の調べだと言う。

大学を出て直ぐ陸軍経理学校に入れられ、主計将校になって主に中支の武漢地区の軍司令部の主計将校として対日還送物資の買収、輸送に当たっていた私から、何を聞き出そうと言うのだろう。調査は二、三日おきに夜通し行われる。

あとで、そうかな、と思ったのは、当時極東軍事裁判の法廷が開かれていて、ソ連政府も支那における日本軍の事跡もせっせと調べていたらしい。

どこでどう間違えたのか、何時の聞いたか、私は主計少佐になり、貨物廠長になり、支那のパルチザン部隊に反撃を加えていたことになっていた。

その誤解が解けるのに四ヶ月半もかかった。すべて、正解ではないとわかって、雪どけのボルガ河を遡上して船がモスコウ方面に向った夏の終りは本当に緑につつまれた大河の美しさだった。

 今でも思い出すボルガ河の両岸の緑の森の色を。