たまたま父の勤務の関係で、私は大分県宇佐の生まれとなっているが、そこには赤ん坊の時に一、二年いたばかりで、育ちは横浜。もともと鎌倉時代から先祖代々今の横浜に住んでいたから、生粋のハマッコである、と自分では思っている。

 市歌にあるように、幕末開港までは苫家の煙で田舎の漁師町であった面影は今はないものの、ハマ育ちと言われたい一人である。

 根岸小学校へ入る前から海には入っていた。汚い泥海で、浅蜊、蛤、まて貝などをとったり、水府流の泳ぎを習ったりしていたし、櫓を漕ぐことも自然と覚えた。

 五月頃から海に入り、十月末、記憶では十一月三日の明治節の日にも海に入っていた。

 ボートも漕いだし、ヨット(借)も一頃熱心だったし、二五ノットも出る米製の船も買った。半日まぐろをおっかけて失敗したり、大島までフルスピードで飛ばしたり、やはり海はわが住み家、という思いであった。

 山中湖、伊豆の海、別府湾などでもヨットに乗った。風がなくなって、二、三時間もヨットを引っぱって、海岸を歩いたこともある。

 オリンピックの会場にもなった小港で、大学のヨット部の連中から網の結び方など一から教わったこともある。

 海はいいが、又、怖いところでもある。しかし、山か海かと聞かれれば、躊躇なく海と答える私である。