孫が成城学園の付属幼稚園に通っていて、今日は文化の日で文化祭があるので。家内が孫について見に行くと言う。そこで昔一高の寮の祭を思い出した。何と言ったか、忘れてしまったが、年に一回女人禁制の寮も開かれ、寮生の家族やら友人やら、沢山の人がおとずれる日となっていた。毎年二月一日がその日になっていた。
寮は南寮、中寮、北寮に明寮を加えて四寮からなっていた。その各寮に三十室(明寮は半分位かと思う)があって、一室は廊下を挟んで読書室と寝室とに分かれていた。その読書室に文化祭の時はそれぞれ趣向を凝らせて飾り付けをするのであった。
それぞれの部屋で何を作るかは全くの秘密であって、前の年の暮あたりから、来年は何をするか、十数人の同室生が毎晩のように集まり、せんべいをつまみに酒を汲み交して、あゝでもない、こうでもないと論議をしていた。各室ごとに飾りつけをする習はしとなっていたから、サボることはできなかった。飾りつけの材料は、その辺に転がっているガラクタを使用していたが、私が一年生の時は丁度二月十五日に新橋、渋谷間の地下鉄が完成することになって、あちらこちらに広告板が立てられていたので、その板をちょっと拝借することにした。拝借と言っても、祭が終れば焚火となって仕舞うのだから、考えなくとも、よくないことは違いなかったが、皆競走で引っこ抜いた看板をリヤカーで運び込んでいた。
毎日、毎晩、飾り付けのテーマを議論している中に、日がなくなってくる。
私共が入寮する前の年だったかは、議論に疲れた連中の考えたテーマの一つは、「偉大なる暗闇」(漱石の「三四郎」に出てくる先生)で、電気を消して何も見えない部屋をもって飾付けとしていた。全くのサボりと見られても仕方がない結論であった。
私ども南寮十番の仲間もそれに近かった。何もしていないと見られたくないので、毎晩、スチームの金具を木づち叩いて何か細工をしているように見せかけていたが、結局テーマは「生活の探求」となった。当時島木健作がライ病の人々を主題にして書き、川端康成などがしきりと推賞していた小説の主題であった。「われらはいかにするめいか」。そこで部屋の中に一条のヒモを渡して、そこにイカとスルメをぶら下げると言う、全くの手抜きの作品(?)であった。やっとこれで責任を果たしたと、安心して寝て起きて翌日見たら、イカもスルメも多分酒の肴になって食われてなくなっていた。あわてゝ、又、当日外へ買いに行って、残ったヒモにぶら下げて、まあこんなものか、と安心していた。
その年の各部屋の飾り付けのなかでは「安芸の海」という角力を題にしたのが傑作であって、「桐双葉落ちて天下の安芸を知る」。双葉山が前人未踏の六十九連勝を果たしたが、「安芸の海」に破れたことをの小説「桐一葉」のもじったものであった。飾り付けも小さい、小さい、可愛らしい土俵で人形の力士が角力をとっている図であった。これは、皆をうならせた飾り付けであった。
もう一度あゝいう児戯に類する作業をしてみたいな、と思うこともあるが、八〇年も昔の思い出話である。
話は違うが、専ら百貨店など渋谷で飲んでいた私どもが銀座に進出するようになったのは、前に述べた地下鉄の貫通からであって、白線帽にマントがひらひらする姿が銀座にも見かけるようになったが、まあ少数で、銀座は早慶戦の夜の慶應、新宿は早稲田ということになっていた、と思う。