26・8・15
第一高等学校の時(戦前)、文科は外国語を英語を主とする文甲、独乙語を主とする文乙、仏語を主とする文丙とあって、文甲は三組、文乙、文丙はそれぞれ一組、一組は生徒三〇人であった。
私は、文甲二組、略して文二のクラスにいた。文甲は合計九〇人だが、このクラスで必ずトップになる古谷という男がいた。彼は沼津中の四年終了で入学して来た。
彼は決してがり勉ではなかったが、毎学期次学期初に壁に張り出される成績表では必ず一位に彼の名があった。
彼の頭のいいのは皆認めていた。文句なしである。彼は東大を出て三十五、六才で東大教授となった。極めて異例の速さである。然し、数年で伊豆の白浜の海岸で海水浴中水に溺れて亡くなった。
当時全国的に水泳で有名な沼津中の出身であったのに彼は御殿場に住んでいて泳げなかったのである。
われわれは学校をサボることに熱心で、代返は当り前、年七〇日(一日八時間計算)の限度一杯使っていた。あの三年間はよかった。皆、それなりに努力していた。好きな本をよくわからないなりに読んでいた。カントの純粋理性批判なども争って読んでいた。文芸ものも多かった。
本を読んで、ダべって、酒を飲んで、寮歌を唱って。三年間も朝から晩まで起居をともにしていると、家族以上に親しく知り合うようになる、たしかに、生涯の友がそこからスタートしたように思う。
私は、学校は生徒一人一人についてそう責任を持つことはないと思っている。中学の同期生を見ても、成績の良かったものが、必ず世に出て成功しているとは限らず、同期生のドン底に溜っていた連中が、割と生活力があって、実業界などで立派にやっている。
学校は標準的な知識を一方的に植えつけるだけでいいので、輸送船団法式で、誰も遅れが出ないように神経質に気をつけるといったような必要はないのだと思う。
学校の成績は勿論良い方がいいのだが、皆がトップになるようなことはあり得ないし、学校の平均的成績が悪くても、なんか得意な学科があれば、それを中心にして進んで行けばいい。この頃良く聞く、一業の秀でるものを入試の点数と関係なく入学させるのは、別の意味があるようで、ここでは論外とするが、とにかく、学校の成績は一つの参考に過ぎないと思えば充分ではないか。