26・2・15
官庁や会社の役員数の一定のパーセントを女性を充てる、といったような規制をすることが男女同権の名のもとに要請されているようであるが、私は、どうもおかしいなと思っている。
男女同権と言ったって何でも彼でも男女を一緒したに扱うことはできない。見安い例を挙げればスポーツ。男女こみで一緒に斗うようなことは減多にない。記録だって、男女を分けている。当り前である。具体的に体力に差があることは明かであるから、同じに扱うことはできないのである。
知的能力などについては差はないので、男女差別をする必要はないが、意図的に基準を設けて女性を優先的に採用、任用するということになったら、男女同権の考え方からすれば、却っておかしなことになりはしないか、と思う。
南の方の国で出身民族別に役人の採用割合を決めている国を知っているが、やはり、その政策的意図に関しては批判が強いと聞いている。
男女の違いは天与のもので致し方ない。男性と同じ力仕事を女性に求めることは無理であるし、手先の細かい持続的な仕事は男性には適しない。求人広告に男女の区別をしてはいけないようになっているが、バアやクラブで女性の従業員を欲しい時に、そして建設業で男性の作業員が欲しい時に、男女の区別を書かないで求職者を募集することに一体どういうような意味があるだろうか。現場に出むいて断られるよりも、予め不採用を明示して貰った方が、お互いにムダな期間と労力を使わないでいいではなかろうか。
男女同権といっても、実際、職場によっては男女で自然に区別されることのあるのは否定できない。男女それぞれより適する仕事のあることは否定できない事実であって、その現実を無視して表面的に同じ扱いをしているようで、実は差別するよりも、仕事の性質によって男女それぞれ適応性が異なる場合は、はっきりと男女の区別を最初から明らかにした方が却ってスッキリするのではないか。そういう考え方がダメだといわれれば致し方ないが、私は、そう思っている。
この間三十才のリケジョがノーベル賞級の発見をしたことが報じられて世間が涌いていたが、あゝゆうようなことがあって、女性に対する評価が上がって行くことは大へん望ましいことであると思っている。先端的学問の世界でも大いに活躍を示せば自然と女性についての評価も上り、男女同権の姿も実現できるようになってくるのではないか。