25・10・29
十月二十八日の朝日の社説の一つに右の題がついていた。
原子力対策
原発の過酷事故は、国家的規模の危機を招く。福島第一原発の事故は原子利用の巨大なリスクを白日の下にさらした。
原子力対策の大きな方向を決めるには、原発維持にこだわらない科学者や人文系の学者など幅広い識者による検討の場を設け、国民的な議論を反映させていくことが必要だ。
ところが、原発回帰を推し進める経済産業省の影響力がさらに強まりそうな動きがある。このままでは、原発ありきの専門家集団「原子力ムラ」の思惑で政策が決まりかねない。
そんな懸念を抱かせたのは、国の原子力委員会のあり方を検討する有識者会議が先週まとめた見直し方針である。
これまで原子力委がつくってきた「原子力政策大綱」を廃止し、今後、原子力政策は経産省がまとめるエネルギー基本計画で位置づける。そんな内容だ。
だが原発推進のレールが敷かれると形骸化し、原子力政策を批判的に点検する機能は働かないままだった。存在意義が問われるのも無理はない。
だからといって経産省にゆだねるのでは、あまりに安直だ。いったい原発事故の教訓はどこにあるのか。
どうも、原発を維持発展させたがっている電力会社のお先棒を担いでいるような経産省に、原子力使用の基本的な問題を検討さすことは危険で、ダメだと言いたいようである。
確かに経産省は当然とくに二次産業に力を入れているし、産業資本の増強に努力している。従って原発についても積極的であることはわかる。
昭和三十年頃、世界の石油資源があと三十年分ぐらいしかないと言われていた。原発、石炭火力、水力、風力、太陽光、地熱、潮流、水の干満など多種多様のエネルギー源のあるなかで、もっとも着目されたのは原子力であった。
原発の事故もスリーマイル島、チェルノブイルなど大きなものもあったが、原発を中止しようという意見は少なかった。
ただ、原発についてはエネルギー源としてだけではなく、社会学者ら原子力非専門家による倫理委員会を発足させ、そこでの議論をもとに脱原発を決断したのは独のメルケル首相である。
ことは国家百年の大計にかかわることだから、議論をつくして結論を出して欲しいが、その際、感傷的な感情論よりも、極力厳密な、教字的根拠に基づいて結論を求めるべきものと思う。